「あの子を守ってくれてありがとう」
「おっはよー、直也くん!」
「……おはようございます」
時間を調整して帰ってくれば、狙い通り朝陽の出社とかちあった。
それはいいが、なんだか妙にご機嫌だ。こういう時は大抵ロクなことじゃないと半年足らずの付き合いの中で直也はようやく学んだ。
「聞いたよぉ、『カレシくん』! いやぁやっぱ男の子は頼りになるね~」
「……そっすか」
それ以外に何を言えと言うのか。
ていうか、聞いたって誰からだ。やっぱり店長だろうか。この人の交友関係はやたら広いからあの女子高生三人組と知り合いでそこからって線も考えられる。いつも来る学校の先生の可能性もゼロではなく、考えられる中で一番嫌な答えだ。
いや待てそれより、頼りになるって何がだ。バイト先では深夜に助けられてばかりで、頼りになるところなんて見せられているとはとても思えない。あれか、力仕事か。それなら少しは役に立っていると思う……多分。
そんなことをぐるぐる考えている内に、朝陽の顔がすぐ傍に寄ってきていた。
「私もね、深夜は『幸せをくれる妖精』だって思ってるよ。あの子を守ってくれてありがとう」
そう囁く彼女の瞳は、嬉しそうで愛おしそうで、どこか悲しそうで切なそうで。
そのことか、と思う前に、その魔性のような美貌と瞳に魂を吸い込まれてしまう。
我を取り戻しても、返す言葉がすぐには出て来なかった。
「……別に、そんなんじゃないです」
そう、あれは守るとかそういうんじゃない。
ただ胸の奥がモヤモヤして、それをなんとかするためにやっただけ。自分勝手なストレス解消みたいなものだ。
本当に深夜のことを思うなら、もっと上手いやり方があったはずなのだ。
そもそも何から守るのかもわからないし、その『上手いやり方』とやらもさっぱりわからないが。
「え~? じゃあどういうのなの?」
「どう、って……」
答えに窮する直也を見る朝陽の目には、もうすっかりいつもの悪戯な光が瞬いていた。
期待されてる答えは簡単に予想がついたが、それを口にするほど直也も旺盛なサービス精神をしていない。
「知りませんよ」
「知らないってことないでしょ~?」
「朝陽さんが思ってるような意味じゃないです」
「そうかなぁ? じゃあ試しに、私がどういう意味だと思ってるか言ってみて?」
実に白々しい誘導尋問である。
そんなものに引っかかるほど善良な精神はしていないが、かといって上手く切り抜けられるほど世慣れもしていない。
ただ、絶対に彼女の思い通りになるものかという意地だけは固くなっていく。
そんな直也の態度が面白いのか、にんまりと捕食者の笑みを浮かべ、朝陽は次なる一手を、
「お姉ちゃん」
夏の日差しの中にあって、涼やかさを失わない声が彼女の動きを止めた。
ぎこちなく振り向けば、そこには弁当箱を二つ持った深夜が寒々とした目元に一層の冷気を込めて実の姉を見つめていた。
「何してるの」
「え? いや~その、ちょうどそこに直也くんがいたから……」
「いたから?」
一向に軟化しない妹の態度に焦りを感じ、朝陽は助けを求めるべくお隣の少年を見やる。
この場において直也が姫野姉妹の姉の方の味方をする理由は何一つなかった。
四面楚歌であることを瞬時に理解し、彼女は早足に妹に近づく。
「お弁当ありがとね! じゃあお姉ちゃんはお仕事行ってきます!」
「……行ってらっしゃい」
さっと弁当箱を受け取って去っていく姉を、深夜は嘆息しながら見送る。
直也にも手を振る彼女に「行ってらっしゃい」と手を振り返す。困った人ではあるが、それでも憎めないのは天性の資質か性格か。悪気がないのが一番かな、と直也は結論付けた。
そこが一番タチが悪いところでもあるなぁ、というのが真っ先に出てくる感想だった。
「ごめんね、お姉ちゃんがまた何かしたみたいで」
「いや、まぁ、別に」
眉根を下げる深夜に、気にしなくていいと首を振る。
いつものことと言えばいつものことだ。普段よりしつこかった気もするが、それだけ『カレシくん』が面白いネタだったのだろう。
仕方ないことではあるが、できれば今回限りにしてほしい。
「何かあったら言ってね。お姉ちゃん、あぁいう人だから」
「あぁ、まぁ、なんかあったら」
曖昧に頷いて弁当を受け取る。
姉に絡まれて妹に助けを求めるというのは、男としては避けたい事態である。想像するだけで結構情けない。しかし朝陽を自力で何とかできる自信はなく、もしもの時の為に濁しておいた。
それが一番情けないことに、直也は気づかないふりをした。
「休みなのに、朝早いんだね」
「ん? あぁ、クセで起きちまったから」
「そっか。夏休みの方が早寝早起きかもね」
「笑えねぇな……」
眉根を寄せる直也に、くすりと深夜が笑う。
笑うと同時に肩から滑り落ちた一房の髪が、もうすっかり天に上った陽光に照らされて白く煌めく。
たった一瞬の光景が、瞼に焼き付いて離れなくなりそうだ。
「お弁当作っちゃったけど、大丈夫?」
「あぁ、助かる。悪いな、毎日作ってもらって」
「ううん、ついでだから。ふふ、夏休みの方がお弁当食べてるって不思議だね」
「それも普通は笑えなくねぇか……?」
眉尻を下げる直也に、彼女は楽しそうに微笑んだ。
パン屋のバイトは土日もある。学校と違って休みが朝陽と被らない為、八月になってから比喩とかではなく毎日深夜の弁当を食べている。
これでいいのか、と思わなくもないが、美味い飯を前にすると言葉が出ない。深夜の厚意に甘えている自覚はある。しかし、弁当が楽しみな自分も間違いなく存在しているので、彼女が笑っている内は強く言うことはしないでおこうと思う。
それに、美味しく食べることにも意味があると、バイトのおかげでなんとなく分かってきた。彼女も多分、そういう喜びを知っているのだろう。
店ならともかく、個人間でそういうことをするのを世間では『餌付け』と言うのではないか、という考えもたまに頭をよぎることもあるが。
まぁ、それでお隣のお姫様の心に少しでも安らぎが生まれるなら良しとしよう。
手の中の、自分専用の弁当箱が入った巾着袋を見下ろす。この巾着も弁当箱と一緒に買ったものだ。こいつらも八月に入ってから毎日出勤で、ブラック労働に勤しんでいる。
「弁当箱どうする? 休みだけどいつも通りでいいか?」
「あ、うーん……」
珍しく悩む素振りを見せる深夜を、片眉を上げて見やる。
何か用事があるのだろうか。いや、そりゃ花の女子高生なんだし予定くらいあるだろう。
家の事情か何かだろうか。妙な不安のようなものが靄になって胸の奥を詰まらせる。
「何かあるのか?」
「相川さん達と集まろうって話してて。昨日の夜にチャット来てたけど、私途中で寝ちゃったから。今確認してくるね」
困ったような嬉しそうな顔で言う彼女に、何故か心底ほっとした。
相川達とはうまくいっているようだ。海に行ってから、前よりも距離が近くなったように思う。ちゃんと友達になっていってるようで、なんとなく嬉しくなる。
「いや、いいよ。んじゃ、そうだな……俺もこの後多分出かけるから、お互い出る前に連絡しよう。そんとき返せるなら返すし、そうじゃなきゃ帰ってからでいいだろ」
「どこか行くの?」
少しの驚きをのせてやや食い気味に聞かれ、一瞬喉が詰まる。
どこにも出かけないと思われていたのだろうか。いやまぁ、夏休みになって実家にも帰らない謎の一人暮らし高校生なのだから、そう思われても仕方ないか。
ただ、引きこもりというわけでもないのだ。そこは説明せねばなるまい。
「あぁ、俺の方にも昨日西村から連絡来てて。次に皆で遊ぶ日決めようって集まることになってる。ただ、俺も寝てたから詳細が分からん」
「そっか。また皆で遊べるかな?」
「多分。ていうか今日どっちも集まるのって偶然な気もしねーし。あいつらでなんか予定合わせみたいなことやってんだろ」
「相川さんと西村くん?」
「だな。相川も大変そうだ」
同情たっぷりに言えば、深夜がくすくすと楽しげに笑う。
こういう顔を、相川は見たことがあるのだろうか。多分、無いと思う。夏休みになってから、彼女はこんな風に砕けた笑顔を見せることが増えた気がする。
それは、学校では緊張しているからか、それとも。
自分に都合の良い解釈をしそうになって、直也は思考をねじ切って捨てた。
「またどこか行くことになったら、一緒に行かないか? まぁ、その、どうせそっちで相川がなんか言うだろうけど」
ぐちゃぐちゃと言い訳をするくらいなら、言わなきゃいいのに。
けれど、ふとあの海の帰り道を思い出して、「また誘う」という約束を実行したくなった。放っておいたら、相川が誘いかねない。
何をそんな意地になっているのか、直也自身にもよくわからなかった。
「うん。行きます」
ふわりと微笑む深夜に、「おぅ」とだけ返した。
手持ち無沙汰になって弁当の重みに気づき、その場から逃げるようにドアノブを握る。
「じゃあ、また後で。弁当ありがとな」
「うん、どういたしまして。また後で」
小さく手を振る深夜に軽く頷き返して、部屋の中に入る。
一度息を吸って吐く。部屋の空気は生温く、さっきまでの仄かな甘い匂いはどこにもない。それがどうにも寂しくなって、スマホの通知がないか確かめた。
どうやらまだらしい。まぁ、どうせ昼前になるだろうとは思っていた。
シャワーを浴びて残りの夏休みの課題を数えながらぼーっとしていると、西村の返事より早く深夜が家を出る連絡がきてしまった。
弁当箱は帰ってから返すことを約束して、軽く仮眠を取る。浅い眠りを覚ますように通知音が鳴ったのは、予想通り昼前だった。
昼過ぎに西村家近くの公園に集合。当然暇だろうという前提かつ、直也が地元民でないことを忘れたかのような文面。
場所なんか分かるかと返すと、松田が西村家前集合に変えてくれた。
この調子だと遊びの計画はおそらく相川が立てているんだろうと思う。
本当に大変だろうなと、心底同情してしまった直也であった。




