「パンの匂いがするね」
15時。カフェのラストオーダーを終えたところで、「もう上がって」と店長から声がかかった。
興味本位の視線が突き刺さる中での仕事は思いの外疲労を蓄積させていたらしく、漏れ出たため息の重たさに直也は自分でびっくりした。
深夜を見れば何かしらのカフェ用具を片付けていて、先に行って、と言われてしまう。
断る理由もなく、店長に「お疲れ様でした」と一礼し、作業場に引っ込む。
パンの匂いが充満する中、翌日の分の生地を仕込んでいるチーフに声をかけた。
「お疲れ様でした」
「お疲れ様、また明日もよろしくね」
チーフにつられて笑顔になってしまい、はい、と頷いて手洗い場兼道具置き場に入る。
手を洗ってエプロンをクローゼットに戻し、持ち物を確認していると深夜が入ってきた。なんとなく着替えている姿を見るのはいけない気がして、先に出ていると言って勝手口から外に出る。
エプロンを脱いで荷物を取るだけなのに、意識しすぎじゃないのか。そう自分でも思うが、こういうのは気持ちの問題なのだ。脱ぐ仕草が良くない、と直也は思う。
空を見上げる。まだ日は高く、話によるとこの後運動部の子達の買い出し係がやってきて、残ったパンをほぼ根こそぎ持っていくらしい。帰る前に寄るといつも売り切れなのだ、と女子高生三人組が言っていた。
「お待たせ」
「おぅ」
深夜が並んだのを見計らって歩き出す。
隣を歩く彼女を盗み見る。何度見ても見慣れない美貌の深夜がそこにいて、普段と何も違わないように見えた。
働いている深夜は、どこか違って見えたのに。
「バイト、どうだった?」
「んー……大変だった」
諸々の気持ちを込めて言うと、深夜はへにゃりと破顔して苦笑した。
「そうだね、大変だったね」
「普通に仕事覚えるのも大変だったけど、お客さんがな……」
「おじさん以外で男の店員さんって多分初めてだから皆ビックリしたんだと思う。ごめんね」
「なんで姫野が謝んの」
「私やお姉ちゃんのせいもあると思うから」
非常に的確に問題のポイントを突かれ、直也は「あぁ」とも「いや」とも言えない曖昧な唸り声をあげた。
それはそうだが、別に姫野姉妹が悪いわけじゃない。お客さん達だって悪気はないし、こんな美人姉妹がいたら当然の反応だろう。
そう分かっている。分かっているから、どう返事をすればいいかが分からない。
「私も仕事中は『カレシくん』って呼んだ方がいい?」
「チーフや店長に呼ばれたら泣くぞ俺は」
抗議の意図を込めて訴えれば、深夜は楽しそうに小さく笑った。
「明日からも頑張れそう? 私も手伝うから、何でも言ってね」
心配そうな、しかしどこか縋るような目つきの彼女から視線を逸らし、ポケットのメモ帳に触れる。一応、これは借り物だったのを思い出す。
「大丈夫、結構楽しいよ。メモ帳ありがとな、すげー助かった」
「どういたしまして。それ、バイト初日のお祝いにあげる」
「……ありがとう」
にこにこ笑顔の深夜に他に何も言えるはずもなく、触れたメモ帳を軽く押し込む。
兎柄のペンも貰っていいのだろうか。いや、これはどちらかと言えば返したい。
しかしそれを言う度胸もなく、ひとまず返せと言われるまではそのままにする。是非言って欲しいが望み薄だな、と冷静に分析できてしまった。
隣を歩く彼女から焼けたパンの匂いがする。ほのかに甘く、鼻孔をくすぐる匂い。自分からもこんな匂いがするのだろうか。そうだったらいいな、と思う。
「パンの匂いがするね」
「あぁ」
「柏木くん、今日一日で美味しそうになっちゃったね」
「……そうか」
照り付ける太陽は暑さを増し、二人の体に染みついた匂いをむわりとこもらせる。降り注ぐセミの声と通り抜ける風がそれらを巻き込んで夏を形成する。
夏の記憶に、新しくこの匂いが混ざりそうだ。
「姫野からも甘い匂いがする」
「そう? バターかな? チョコかな?」
「いや、分からん。甘くて落ち着く感じがする」
自分の手の甲や腕を嗅いで確かめようとする深夜に釣られて、直也もうっかり顔を近づけて鼻を動かす。
やっぱり甘い。チョコやバニラとは違う気がする。バターやクリームに近くて、落ち着く感じがするのはミルクっぽいからだろうか。
どちらにしろ、いい匂いだ。美味しそうな香り。
「……あ、あの、柏木くん」
「ん?」
「その……そんなに匂う? イヤ?」
「いや、嫌じゃない……え?」
言い切ったところで気づいた。
思ったよりすぐ近くに深夜の頭があって、彼女がこちらを向いたせいで正面から顔を見てしまった。
自分の顔の半分しかないんじゃないかと思う小ささと、細い輪郭。丸くて大きめの瞳は黒の中にエメラルドの光が宿る宝石のような美しさで、小さな鼻とぷるりとした唇がその下についている。
薄っすらと上気した頬は白い肌に映える桜色で、脳みそに槍でもぶっこまれたような衝撃が走った。
可愛い。綺麗。全ての形容詞が当てはまりそうな、脳髄が痺れる美貌。
背中に流れる長い髪は太陽に照らされて白く輝き、その輪郭を世界から抜き取っていた。
人は見た目じゃないという御託を五回は吹き飛ばしそうな美しさをしているな、と宇宙に飛んだ頭でぼんやりと直也は思った。
そしてキスでもしそうな距離の近さに改めて気づき、のけぞるように体を離す。
「すまん、悪い、ごめんなさい。いい匂いでした」
「うん……そんなに謝らなくても大丈夫だよ?」
「いや、謝らせてくれ。すみませんでした」
頭を下げる直也を、深夜は困惑しながら受け入れる。
やらかした自覚もあるが、何よりそうして距離を置かないとすさまじい勘違いをしそうだった。そんなことになったら、もう顔を合わせられない。
姫野姉妹からの信頼は、こちらが人畜無害だからという前提があってこそだ。人として男として、彼女達の心の安寧を保たねばならない。深く己を戒め、頭を切り替えた。
「菓子パンの成形手伝ってたから、そのせいかもな」
「そうかも。ラテも今日は沢山作ったし」
なんとか軌道修正できたことにほっとして、仕事中の深夜の姿を思い出す。
「手慣れてたもんな。なんか、職人って感じだったわ」
「そんなことないよ。家でも料理するからそういうのに慣れてるだけ」
そういうのを職人っぽいと言うんじゃないかと思ったが、先程の自分の不用意さを鑑みて口を噤んだ。
「おじさんのパン作りは、私が料理するのとは全然違うから」
「あーまぁ、職人って感じすごいよな。めちゃくちゃいい人だけど」
「こだわりもすごくて、尊敬してる。美味しいパンを食べてもらうために努力を惜しまない人なんだよ」
「そうだな、そうだと思う。俺、職人ってもっと堅物だったり怖かったりするもんだと思ってたけど、チーフ見て考えが変わったわ」
うんうんと頷く直也の隣で、深夜が嬉しそうに微笑む。
昼と夕方の間にあるこの時間は、通りを歩く人も少ない。まだまだ暑くて外を歩くにも部活や仕事から帰ってくるにも早く、どこかに遊びに出かけるには遅い。
そんな空白の時間だからか、世界に二人っきりになったような錯覚を覚える。
職場からマンションまで、歩いて15分。初日の疲れもあって、歩いても歩いてもまだ帰り着かない。話しながら歩けば尚更だ。
筋肉痛になりそうだから、帰ったら毎日できる筋トレでも考えてみるかなと直也は思う。チーフに憧れたわけではないが、男として情けない姿はなるべく見せたくない。
たった一日過ごしただけだが、お客さんはともかくとしてかなり居心地のいいバイト先だ。紹介された手前もあるし、役に立ってみせたい。
なんにしてもこれからだ。
これから頑張っていきたいと、そう思えた。
まだ初日。バイトも八月も始まったばかりで、これから長い時間が待っていることをじりじりと照り付ける太陽が教えてくれていた。




