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隣の部屋にはお姫様が住んでいる  作者: 満月すずめ
第一章・一学期

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「あまりにもあまりな出来事だと思う」

 メモ帳はありえないほど役に立った。


 兎柄のペンを少し恥ずかしいと思っていたのは最初の10分くらいで、すぐにそんなことを考える余裕はなくなった。

 バイト初日だからか覚えることは多く、食品を取り扱う為気を付けることも多い。深夜の好意を受け入れていなければどうなったか、考えたくもなかった。


 ゆっくり覚えればいいとチーフも店長も言ってくれたが、夏休みだけのバイトだ。そんなに悠長ではろくな戦力にならないまま終わってしまうだろう。それは、深夜と朝陽に紹介された身としては避けたかった。

 半ばだまし討ちみたいなものだから別にいいんじゃないかと思う自分もいなくはなかったが、それはそれ。頷いたのは自分なのだ。やるべきことは全うしたい。


 パン屋の力仕事って何があるんだろうと思ったが、それはもうかなり色々あった。まずは粉袋の運搬。業務用のそれは25kgもあり、チーフが抱え上げているのを見て軽いものだと勘違いした直也は見事に撃沈した。

 その粉袋を運んで、健康診断で使う体重計みたいな秤に乗せて計量する。それだけでも確かに力仕事だと納得するし、朝陽や深夜には手伝わせられないものだと実感する。


 パンをこねる機械――ミキサーというらしい――から最初に混ぜた生地を取り出して発酵棚に置くのも一苦労だ。高校生男子である直也ですらめちゃくちゃ重いと思うのに、どうして深夜にやらせられようか。一度手伝おうとしたことがあるとチーフに言われ、直也の顔から血の気が引いた。

 一先ず店内の全部の棚に一つは商品があるようにして、追加のパンを並べているところで開店時間がきてしまった。


 レジ打ちに関してはお金が絡むこともあって、まずは見て覚えるように言われる。

 そんなに難しくないよ、と励ますように笑う深夜が、なんだか年上のお姉さんみたいに見えて直視できなかった。


 こんな夏休みの朝早くから誰が来るのかと思ったが、意外とお客さんは沢山きた。

 近くの学校に務めている先生や、朝っぱらから部活のある生徒、夏休みなど関係ない社会人のお姉さま方。それと、夏休みだからこそ朝は少し楽をしたいという奥様方だ。


 繁盛しているんだな、とは直也も肌で感じた。それはいい、素晴らしいことである。

 閉口したのは、直也を見た人達がほぼ必ず同じことを口にすることだ。


「あれ、男の子!? 店長、妹さんもいるのにいいの!?」

「男の人じゃん!? えー、妹ちゃんいるのに!? 店長、どうしたんですか!?」

「男の子がいるの? 妹さん、大丈夫なの? 店長、どういうこと?」

「あら、男の子じゃない! 店長、どうしたの? あらあら、妹ちゃんもいるのねぇ!」


 これである。

 勘弁してほしい。ほんの一時間ほどで何度聞いたか分からない。


 店長が「その深夜ちゃんと、それと朝陽ちゃんの紹介なんですよ」と言うと、


「うっそ!? うわぁ、へー……え、君って、二人とどういう関係?」

「マジ!? え、あの、もしかしてどっちかの彼氏だったりします? ……いや、ないかー」

「ほんと!? へー、そーなんだー……朝陽さんのってことはないだろうから、妹さんの彼氏? 違う?」

「そうなの? あらあら、仲が良いのねぇ。うふふ、もしかして彼氏かしら?」


 どうして皆同じようなことを言うのか。

 違いますよと答える度にどうにも胸の奥がモヤモヤしてしまう。女性は色恋沙汰が好きだと聞くが、自分がその対象になるとは思っていなかった。


 この調子だと耳にタコができそうだ。困惑する直也を見かねたのか、店長が裏でチーフの仕事を手伝うように言ってくれた。

 救われた心地で作業場に戻るが、それはそれで大変だった。「おかげでパン作りに集中できる」と言われれば悪い気はしないのでいいのだが。


 昼頃にはその日の分のパン作りは終わるらしく、テラスのカフェの手伝いをしながら詳しく色々教えてもらった。

 作業場にある巨大冷蔵庫の触れてはいけない棚、生地置き場の分類と説明、道具類の配置。ホイロやデッキオーブンなんかの弄っちゃいけない機械など覚えなきゃいけないこともメモしなきゃいけないことも山ほどあって、仕事の重みを嫌でも理解する。


 朝陽や深夜はもうずっと前からこういうことをしていたんだと思うと、なんだか今まで抱いていたイメージが変わっていくような感じがあった。

 翌日の仕込みをするチーフからカフェの方を中心に手伝ってくれと言われ、表の仕事に忙殺されている深夜の応援に向かう。


 昼頃から近所の人達や生徒や先生が休憩に訪れ、テラスがいっぱいになっているのだ。

 教えてもらったとはいえ直也ではコーヒーの淹れ方すらよくわからないので、もっぱら注文を取る方をやることになる。


「あ、カレシくんだ」


 吹奏楽部か何かだろうか、制服姿の女子高生三人組のテーブルに注文を取りに行くと開口一番に言われた。

 朝から一体何度繰り広げたか分からないやりとりをまたも口にする。


「違いますよ」

「あだ名じゃん、あだ名。店員さんって呼ぶのもどうかと思うし、この店っぽくないでしょ? 森のくまさんのお店なんだから」

「……それ、チーフ公認のあだ名なんですか?」

「暗黙の了解ってやつだよ。いいじゃん、やだ? カレシくんって。朝陽さんみたいに名前呼ばれたい人?」

「……いいです、それで。ご注文は?」

「『贅沢バターのクロワッサン』とアイスラテ!」


 三人揃って異口同音に告げられ、手元の伝票に書き込む。

 『贅沢バターのクロワッサン』はこのカフェの看板メニューで、これを食べる為に来る人までいると深夜から聞いた。カフェ限定の商品でもあり、匂いからしてすごく美味しそうなのは直也にも分かる。個数限定なのが欠点だと深夜もしみじみと呟いていた。


「今の時間だと焼き立てだよね?」

「そうですね、さっきオーブンから出してました」

「うっわぁヤバイって! んー、ほんと夏休みの楽しみだわー! 普段は食べられないし、妹ちゃんもいないもんねぇ」

「分かる。夏の部活頑張ってるの、この為かもしれないってくらい。目の保養をしながら体も心も満たされるよね~」


 うっとりとした顔の三人組をどこか引いた目で見ながら、ふと思うことがあった。

 朝からずっと聞いている言葉。誰をさしているかはわかるけれど、それ以外が全てわからないもの。


「あの、『妹ちゃん』もあだ名なんですか?」


 直也に聞かれ、女子高生三人組はそろってキョトンとした顔をする。

 顔を見合わせ、あぁ、と何故か納得した顔をした。


「そうだよ。朝陽さんの妹だから妹ちゃん」

「安直だよねー。あたしらもなんとなくそう呼んでるから、なんでそうなったのかはわかんないけど」

「先輩達がそう呼んでたから、流れで? でもほら、なんか名前で呼んじゃいけないような感じしない? めちゃくちゃ綺麗だしさぁ」


 そうすかね、と適当に返しながら横目で仕事をする深夜を見やる。

 彼女らの言い分も分からないではない。深夜はただでさえ超がつく美少女だし、普通に周囲への警戒心を持っている。姉と違って。


 あれは朝陽が持ってなさすぎなだけの気もするが、少なくともパーソナルスペースが朝陽よりも広いことは間違いない。

 他人との間の線引きの感覚は、朝陽がぼんやりしているのに対して深夜ははっきりしている。最近はそのことを忘れがちだが、少なくとも越してきた当初はそう感じていた。


「同級生とか同じクラスだったらチャレンジしようかなーって思うけど、学校も違うしね」

「朝陽さんは名前呼びですよね?」


 直也の疑問に、再び三人組は顔を見合わせる。


「それは、ねぇ?」

「だってさ、ほら?」

「カレシくんが名前呼びなのと一緒じゃない?」


 それを言われると直也に返す言葉はない。


「あたしら今三年なんだけど、一年の頃だから二年前? 朝陽さんが働いてたのを見た最後の世代でさ。あんな美人に『気軽に名前で呼んでね』って言われたらそりゃもー従うっきゃないでしょ」

「ねー? 朝陽さんすごいよねー。年上でめちゃくちゃ美人なのに可愛さもあってさー。あれは卑怯だよ、卑怯。男だったら告ってたわ」

「いいよね、姉妹で超美人ってさ。妹ちゃんって朝陽さんと比べると影薄いけど、それがなんか儚い魅力ってやつ? 薄幸の美少女感あってヤバいよねー。朝陽さんは幸運の女神って感じだけど」


 口々に語られる姫野姉妹への誉め言葉に、またも胸の奥がモヤモヤとしだす。


 好意しかない会話なのに、どこか居心地が悪いような感じがして、直也は「ご注文ありがとうございます」と言ってバックヤードに引っ込んだ。

 作業場からクロワッサンを三個取って通路に戻る。テラスから戻ってきた深夜と目が合って、勝手に気まずくなってしまう。


「ラテ、作り方分かる?」


 降り積もる雪のような、しかしどこか優しさを含んだ声が耳朶を打つ。

 歌で人を魅了するセイレーンというのは、多分こういう声をしているに違いない。メモ帳をめくりながら、仕事に集中しろと自分を叱咤する。


「分かる……と思うけど、もう一度教えてもらえると助かる」

「うん、大丈夫。一度で覚えようとしなくていいよ。最初の一杯は作るから、後の二杯はやってみようか」

「あぁ」


 小型の冷蔵庫を開けて、冷やしてあるミルクを取り出す。コーヒー豆をドリップする深夜の手つきは慣れていて、説明しながらでも淀みがなかった。

 この店でバイトしていたこともそうだが、家で家事もしているからだろう。取扱いにそもそも慣れているのだ。そしてこれは間違いなく、朝陽は持っていないものだ。


 朝陽は確かに凄い。行動力も決断力も、人を巻き込む力もそれでも好かれる魅力も。何もかもを持っているような彼女でも、しかしこんな風にラテを作ることはできないだろう。

 深夜が作ったラテは、誰が飲んでも美味しい。直也はそう自信を持って言える。


「分かった?」

「あぁ、おぅ。やってみる」


 ぎこちなく不慣れな手つきでラテを作り始める直也に寄り添いながら、深夜は丁寧に教えてくれる。

 それはいいのだが、なんだか距離が近すぎて右手の肘あたりに何かがあたっている。海で内緒話をした時のような近さに、直也は般若心経を繰り返しながらラテ作りに集中する。


「分量が大事だから、入れすぎないで。少なければ足せるから」

「おぅ」


 ミルクフォーマーを使おうとして、深夜の指先が手の甲に触れた。

 一瞬びくりと反応するが、柔らかな指はそのまま直也の手に重ねられミルクフォーマーを動かす。


 温かなパンの匂いと香ばしいエスプレッソの匂いと、甘くかぐわしい彼女の匂い。

 天国があるとするなら、きっとこんな匂いがする場所だと思う。


「……出来た」

「うん、上出来だと思う」


 微笑む深夜に褒められると、胸の奥がくすぐったくなる。

 別の作業をする彼女と別れ、ラテとクロワッサンをトレイに載せて三人組のテーブルに向かった。


「お待たせしました、『贅沢バターのクロワッサン』とアイスラテです」

「待ってましたー!」


 三人ともが鼻をひくつかせ、頬を綻ばせている。自分が作ったわけでもないのに、なんだか妙に嬉しくなってしまう。


 そんな気分になっていたせいだろうか。

 いつもより軽い口が、勝手に動いた。


「一つ、訂正してほしいことがあるんです」

「へ? なに?」


 目を瞬かせる三人組に、直也は一息に言い切った。


「朝陽さんが幸運の女神なら、姫野は妖精です。貧しい靴屋で夜中に靴を作って繁盛させてしまうような。だから、薄幸の美少女はちょっと違うんじゃないかと思います」


 言ってしまうと、胸の奥がすっとした。

 そして急に恥ずかしくなって、口を引き結んで立ち去ろうとして、


「はーい、分かりましたカレシく~ん!」


 三人ともが示し合わせたようにぴったりと揃えてそう言った。


 居たたまれなさと恥ずかしさでどうしようもなくなり、一礼してバックヤードに引っ込む。ドアの向こう側から「今日のクロワッサンはいつもよりあっまいわー!」「わかる~!」なんて声が聞こえても、顔を押さえてうずくまるしかなかった。


「しにてぇ……」


 バカみたいな呟きと共にため息が漏れる。

 仕事中にいつまでもうずくまっているわけにもいかない。なんとか身を起こしてのろのろと作業場に戻れば、チーフが心配げに「どうしたんだい?」と聞いてきてくれた。


 正直に答えるわけにもいかず適当にはぐらかしていると、表から店長がやってきてチーフに何事か耳打ちする。

 そして、二人して生温かい笑みを向けて、


「ま、若いんだから」


 と分かるような分からないようなことを言われた。


 ――だれかおれをころしてくれ。


 心の中だけで悲鳴を上げ、


「仕事はありませんか!? なんでもやります!」


 と叫ぶのが、直也にできる精一杯の抵抗だった。



 バイト初日から、あまりにもあまりな出来事だと思う。

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