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隣の部屋にはお姫様が住んでいる  作者: 満月すずめ
第一章・一学期

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「一発で眠気が吹き飛んだ」

 チャイムが鳴った。


 頭に響くその音に叩き起こされ、寝ぼけ眼で起き上がる。

 枕元に置いていたはずのスマホを手探りで探し当て、毎朝の癖で時間を見る。5:30。

 一発で眠気が吹き飛んだ。


 その辺にあった服を適当に掴んで着替え、財布をポケットに突っ込む。改めてスマホを見れば、未確認アラームの表示があった。

 やらかした、と頭の中が焦りでいっぱいになる。バイト初日から遅刻なんて許されない。飯を食っている暇はなかった。


 スマホを財布と反対のポケットにねじ込み、顔を洗うのもそこそこに靴に踵を叩きこんで玄関ドアを開ける。

 バッグを肩にかけた深夜が、生温い笑みを浮かべていた。


「おはよう、柏木くん」

「……おはよう」


 急速に頭が冷え、飛び跳ねていた心臓もゆっくりと落ち着きを取り戻す。

 そうだ、チャイムが鳴ったということは鳴らした人がいるということで。焦りすぎてそのことが抜け落ちていた。

 こちらのことを見透かしたような彼女の笑みが、あまりにも可愛らしくて少し憎らしい。


「忘れ物は?」

「……なんか持ってくものあったっけ?」

「特にないけど、メモ帳とかはあった方がいいかも」

「あー……」


 背後を振り返り、乱雑というほどではないが人様に自慢できるほど片付いてもいない部屋を見やる。

学校で使うノートやルーズリーフならすぐ取り出せるが、メモ帳代わりに使うには大きすぎる。受験勉強の時に使ったやつがどこかにあったはずだが、一分二分で探し当てられるとは思えなかった。


「いいや、帰ってからメモする」

「忘れちゃうよ? はい」


 差し出されたのは、真新しいメモ帳と兎柄のペンだった。

 思わず喉が詰まる。これを受け取ってしまうとなんというか、ダメ人間になってしまうような気がする。


 しかし、この好意を無下にできるほどの余裕も度胸もない。

 躊躇する直也に、時間を惜しむように深夜はバッグの中から取り出したものを差し出す。


「朝ご飯、食べてないでしょ?」


 それは、ラップに包まれたとても美味しそうなおにぎりだった。

 自分が完全敗北したことを、直也は受け入れた。


「悪い、助かる」

「うん。どういたしまして」


 プライドよりも実利を優先し、差し出されたものを受け取る。

 メモ帳とペンをポケットに突っ込んで、おにぎり片手に深夜と並んで歩く。マンションから出たところでラップを解いた。


「おかわりあるよ」

「おぅ」


 遠慮なくかぶりついて三口で食べきる。具は塩昆布と梅干し。ご丁寧に種は抜いてあった。

 差し出されるままに三つ食べ、満足感溢れる息を吐く。ラップをポケットに突っ込もうとしたら、バッグの中に入れろと言われた。

 上げ膳据え膳とはこのことである。朝陽がああなるのも分かる。一度味わうと手放せない禁断の果実だ。


 明日からはちゃんと起きよう、と直也は決意する。このまま世話されっぱなしだと何か大切なものを失ってしまいそうだ。一人暮らししているのだから、自立すべきだろう。

 弁当を作ってもらっている時点で、自立とは何かと問いたくはなるが。


 夏だからか、六時前だというのにもう明るい。昼よりも涼しくて過ごしやすく、ジョギングをするにも都合が良い。その為には何時に起きなければいけないかを計算して、眉根を寄せる。

 バイト先の『パンの庭』までは徒歩で15分。学校に行くのとほぼ変わらない。夏休みだという感覚がそのうち麻痺しそうだ。


 深夜と並んで歩いているのも学校に行く時と同じで、違うのは私服であることだけ。いや、定休日は平日だから、土日も会うことになるのも違うか。夏休みの方が会う日が多い気がして、もう部屋でくつろぐ姿以外は全て見ることになりそうだ。

 そういう姿を想像してしまい、直也は目を閉じて心の中で般若心経を唱えた。以前の反省を活かし、ネットで調べておいたのだ。


「緊張してる?」

「あ? あぁ……そうだな、うん。してるかも」


 先程からの不審な様子を、深夜はそう解釈したらしい。

 事実とそう異なるわけでもないので、直也は肯定しておいた。


「大丈夫だよ、柏木くんならすぐ慣れるから」

「どこを見てそう思う?」

「だって、期末の時に頑張って勉強してたから。頑張れる人は大丈夫だよ」

「……まぁ、あんときは西村も松田もいたし」

「今回は私がいるよ」

「……そうだな」


 曖昧に頷くと、ふわりとした笑みを向けられた。

 急激な気温の上昇で顔も体も熱くなり、心頭滅却すべく般若心経を唱える速度を上げる。歩く速度を抑えるのにかなりの意思の力を必要とした。


 軽い注意事項を聞いている内にバイト先にたどり着く。と、表の入り口は閉まっていた。開店は7時からで、閉店は18時。随分と早いなと思ったが、パン屋は大体そういうものらしい。まぁ、こんな住宅地で夜遅くまで開けていても客足が伸びることはないだろう。

 深夜の後について裏に回り、勝手口から中に入る。


 そこは壁に埋め込まれたクローゼットと、雑然とした道具類がダンボール箱と共に置かれている場所だった。洗面台もあって、タオルがかけられている。勝手口の正面にはまた扉があり、左はすぐに壁。右側は長く伸びる通路になっていて、遠くに見える扉には採光窓がついていた。

 右側の通路は途中から左右に台所みたいなスペースが作られていて、コーヒーメーカーや何かの袋が見える。テラスで提供するものを用意する場所だろう。


 初めて見る『お店の裏側』に、直也の緊張は否が応でも増してしまう。


「荷物はこの中にいれて、手を洗ってエプロンをつけてね。作業場はこの扉の向こうだから」

「あぁ」


 手早く準備をする深夜を真似て、手を洗ってエプロンをつける。胸のところにロゴが入っていて、少しお洒落だ。深夜曰く、朝陽がバイトし始めてから彼女の提案で作ったものらしい。一体感が出ていいとかなんとか。あの人はほんとにどこでもやっていける人だなと感心してしまう。


「おはようございます」

「お、おはようございます」


 作業場に繋がるドアを開けて挨拶する深夜に続いて、直也も中に入る。

 そこはパンの匂いに満ちていて、『森のくまさん』という異名の象徴である筋肉モリモリのチーフと、その奥さんで穏やかな雰囲気を持つ店長が生地を成形していた。


「おはよう、深夜ちゃん、柏木くん」

「柏木くん、深夜ちゃん、おはよう。来てすぐで悪いけれど手伝ってもらえる?」

「はい」


 頷いて冷蔵庫からチョコやら何やらを取り出し、店長と一緒にパン生地に手を加える。迷いない手つきの深夜の顔は、直也には仕事人のそれに見えた。


 今まで見たことのない彼女の表情に妙な焦りが浮かぶ。自分は何も仕事などしたことがなく、なんだか場違いなところにいるような気がしてくる。

 同い年で普通の少女だと思っていた深夜は、自分よりもずっと大人だった。目の前で見せつけられた事実に、胸の奥がずんと重くなる。


「柏木くんはこっちに来てくれるかい?」

「は、はい」


 チーフに呼ばれ、隣に立つ。

 そうしている間にも、彼の手によって生地は様々に形を変えて打ち粉をしてあるトレイの上に並べられていく。

 形によっていくつかのトレイに並べ分けているようだが、緊張と焦りで頭がいっぱいになっている直也にはよくわからなかった。


「ろくな説明もせずすまないが、生地をこの形にしてここに並べて欲しい。今の作業が終わったら一通りちゃんと教えるからね」

「はい、わかりました」


 頷く直也に笑顔を返し、チーフが作り方を教えてくれる。

 やや細長くひらべったいそれは直也の記憶が正しければコッペパンと同じ形で、間違いないだろうと思って試しに一個作ると「上出来だ」と褒めてもらえた。


 それだけのことが、なんだかやたらと嬉しい。

 張り切って作っていると、「もうそのくらいで十分だ」と止められた。


 少し恥ずかしい思いをしたが、「ありがとう」と言われればそんな気持ちもどこかへ行ってしまう。直也の作ったコッペパンの載ったものを含めた幾つかのトレイは、冷蔵庫みたいな箱の中にチーフが次々と入れていく。

 残ったトレイのうち二つほどが作業場の隅にある棚に置かれ、更に残ったもののうちの一つを直也は持たされた。


「じゃ、ちょっとついてきてくれる?」


 妙な形のパンが載ったトレイを持った店長に言われ、反射的に頷いて後をついていく。直也が持っているものと同じくらいの大きさのトレイを片手で持ったチーフが、作業場の奥にある扉を空いている方の手で開けた。


 そこは通路になっていて、ほんのりと薄暗い。壁沿いに横長の棚が置かれていて、下の段には大きな丸いパン生地が、上の段には食パン型などの見覚えのある形の生地が載ったトレイがずらりと並べられていた。

 奥側の扉が開いていて、そこから少し涼しい風が入り込んでいる。扉の隣には加湿器と扇風機。何に使うのか、直也にはさっぱりわからない。


「それじゃ、上の棚の空いてるところに置いてね。あなた、後はお願いします」

「うん、そっちも宜しく」


 店長はにこりと微笑んで、涼しい風が吹き込む扉の奥へと消えていった。


「向こうは台所になっていてね。僕らの家と繋がってるんだよ。店長にはベーグルなんかのコンロが必要になるパンを作ってもらってる」

「はぁ……」


 チーフに説明され、よくわからないが直也は頷いておいた。パン作りに必要なものなど知る由もないが、コンロが必要ということは揚げたり茹でたりするのだろう。焼いたりするかもしれない、と思ったが、逆に焼かないパンってあるのだろうかと思って困惑する。


「さ、じゃあ上の二段の空いてるところに置いてね。そしたら、端っこに付箋(ふせん)があるだろう? ペン持ってるかい?」

「はい、持ってます」


 見れば、棚の端の部分に付箋の束がひっかけてある。

 ペンを取り出すと、チーフは笑顔で頷いた。


「うん、準備がいいね。付箋に時間を書いてトレイに貼っておいてほしい。これは必ずやってね」

「分かりました」


 付箋を一枚とって、壁にかかっている時計をちらりと見てから時間を書いて貼った。棚の端には温度計と湿度計もかけてあって、直也は生まれて初めて見る湿度計に内心驚いた。

 なんでこんなものが、と思うが、確かパン作りには温度と湿度が大事とかなんとか何かの動画か家庭科の授業かで聞いた覚えがあるようなないような。


「よし、じゃあ戻ろう。戻って今焼いてるパンの具合を見たら、色々説明するよ」


 体はめちゃくちゃ硬そうなのに物腰が柔らかなチーフに頷き返し、再び後をついて作業場に戻る。

 中ではチョコなどを片付け終わった深夜がさっき成形したパン生地を置いた棚に付箋を貼っているところだった。


 深夜に礼を言って、チーフは備え付けの巨大なオーブンを覗き見る。難しい顔をして何かを呟いた後にミトンをつけてオーブンの扉を開けた。


 ぶわっと広がる小麦の匂いに、どこか別世界に迷い込んだような錯覚を受ける。まず普通に生きていれば味わわない状態のせいだろうか。今まで普通だと思っていた世界から隔絶されたような感覚。

 焼きあがったパンを見るチーフの目は厳しく、今までの柔らかな態度とは別人のような鋭さを帯びていた。


 直也への説明は、結局それから10分ほど経ってから始められた。

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