「電車でおよそ一時間。乗り換えは一回」
一週間は、あっという間に過ぎ去った。
どうせ八月はろくに課題もできまいと見越して、今の内に詰め込んでおく。高校の課題はそれなりに量があり、とにかく手を付けていれば一日が過ぎるのは早かった。
朝起きて弁当を受け取りジョギングに行き、帰ってきてシャワーを浴びて課題をして弁当を返すついでに買い物に付き合って、また帰ってきて適当に飯を食べて課題をして寝る。
そんな一日のルーチンを繰り返せば、海に行く日はすぐに来た。
いつも通りアラームで起き、顔を洗う。昼にそれなりに食べることを考えて朝は鮭フレークご飯と味噌汁だけにした。帰ってきてからフライパンを洗う気力はおそらくない。
リュックの中の荷物を確認し、足りないものを入れる。準備が整うと、昨夜から部屋の隅に鎮座しているクーラーボックスを担いだ。
スマホと財布をポケットに入れたところで、チャイムが鳴った。
肩にかけたベルトの位置を調節し、靴の踵を蹴り込んで玄関を開ける。毎朝見ても慣れることのない美少女が普段より明るめの笑顔で迎えてくれた。
「おはよう、準備できた?」
「おぅ、行くか」
クーラーボックスをノックするように叩けば、深夜が嬉しそうに苦笑した。
「重い?」
「そりゃな。海辺で店でも開けそうなくらい入ってるから」
きょとんとした顔をした後、くすくすと笑う深夜に肩を竦めて直也は歩き出す。
小走りに近づいてきた深夜が隣に並び、二人はマンションを出て駅に向かった。
レジャーのお供であるクーラーボックスは、当然ながら直也の持ち物ではない。女子グループのリーダーである相川の家から借りてきたものだ。
中にはペットボトルがたっぷり詰まっている。それと保冷剤と氷と少しの水。
こんなクソ重いものを担いで歩いているのには、高校生のお財布事情が大きく関与している。ありていに言えば、レジャー価格をぽんと出せるほど裕福な15~6歳はそう多くないということだ。
夏の海は、あらゆる業種にとって稼ぎ時である。そして多少のぼったくりが許される季節でもある。海近くのコンビニ、自動販売機、そして海の家はクソ暑い中でサービス業に従事する方々の心労を加味した価格をしているのだ。
電車代やロッカー代を含め、海に行くだけでお財布にダメージを受ける高校生が、そんなお値段を前に工夫をしないわけにはいかない。その結果が、このクーラーボックスである。
近所のスーパーやディスカウントショップを回り、安い飲料を買って回ったのだ。男三人で。昨日は一日それで潰れた。
直也の部屋にあった理由は、三人の中で一番駅に近い住まいだったからである。松田や西村が自転車で駅まで来ればいいのでは、と思ったが言わないでおいた。
皆で遊ぶときに何か役割があるというのは、悪い気がしないから。
直也と姫野姉妹が住むマンションから駅までは歩いて10分。適当な話をしているとすぐに集合場所に着く。
駅前のロータリーには、既に数人の人影があった。
目ざとくこちらを見つけた西村が満面の笑みで手を振ってくる。
「おぉ……休日まで一緒なんか」
「家が近所だからな。それより、ちゃんと水入れてきたぞ」
そう言うと、西村は嬉しそうに目を輝かせた。
「おっ、いいね! ペットボトルは凍らせた? どれ?」
「凍らせた。スポドリのやつ」
「おっけー! これで海の家でぼったくられなくて済む!」
ぐっと親指を立てる西村だったが、直也は返す気にはならなかった。
小さめのクーラーボックスを担いだ松田が小さく眉を歪める。
「本当に水入れたのか。氷も溶けやすくなるし、帰り重くなるぞ」
「だって、その方が冷たくなるってネットに書いてあったんだもんよ! 親父もそういうこと言ってたし!」
「それはそうだが、俺は知らんぞ。帰りはお前が持って帰れよ」
「分かってるって! 行きは柏木、帰りはオレな! まっつんはそれ担当で!」
指を差す西村に釣られて、そちらを見やる。
松田が担いでいるクーラーボックスは直也が持つものより小さめで、海で食べる弁当が入っている。
昨日、女子グループが相川家で作ったものだ。講師に姫野深夜をお招きして。
なんというか、実に面倒見のいいリーダーだ。レジャー価格が辛いのは事実だが、この対策を取ったのは深夜とグループの仲をより深める意図もあったのだろう。
海に関する諸々は西村と相川が話し合って決めたらしいが、これに関しては間違いなく西村は女子の弁当が食えるという一点で一も二もなく頷いただろう。想像の余地もなくはっきりと目に浮かぶ。
当の相川も、既に集合場所に来ていた。
「柏木、悪いね。重いだろうけど宜しく」
「あぁ、大丈夫」
申し訳なさそうに苦笑する相川に頷き返す。
重いは重いが、一人暮らしをしていれば10kgの米袋を持って歩き回る機会もある。こういうのは慣れだ。深夜の買い物に付き合うと、そういう機会も増えて鍛えられた気もする。
「本当なら西村に持たせたいんだけどね」
「止めた方が無難だろうな」
相川の言葉に小さく首を振る。
本日の西村の装備は折り畳みのビーチパラソルにレジャーシートなどが詰まったリュックサック、海に向けての輝かしい気持ちと普段から三割増しのはっちゃけ感だ。
荷物を持たせるのは嫌な予感しかしない。特に直也が持つクーラーボックスは大きく、あちこち動き回るだけで周囲の邪魔になること間違いなしである。
「だね。ま、行きは姫野についてて。その荷物持ってて近寄ってくるナンパ野郎もいないでしょ」
「そうする」
そう話している間にもぞくぞくと集まってくる。総勢9名の団体様と聞いているが、あと二人といったところか。
「んで、そう言ってなんだけどちょっと姫野を借りるよ。こっちの海、初めてでしょ? 着いたら一緒に行動するけど、一応説明しとく」
「俺に言うな」
呆れたような顔をする直也と首を傾げる相川に小さく笑い、深夜が隣を離れる。
ちらりと見下ろした表情は楽しそうで、何故か直也はホッとした。
「お願いします、相川さん」
「あぁ。ま、向こうでもどうせ一緒に行動するけど、念の為ね」
「はい」
にこやかに女子の輪に入っていく二人を見送り、クーラーボックスを下ろす。中に何kg入っているのか考えたくもない。1ℓ=1kgだから、軽く10kgは超えているはずだ。
まだ何か乗っている感じがする肩を回していると、西村に背後を取られた。
「姫様の私服、初めて見たわ」
小声ながらも興奮していることが分かる声音で言われ、直也は眉を顰める。
海に着く前からこのテンションで大丈夫なのだろうか。ここらで一度突っ込むべきか。
「やっぱスゲーな、もうあれ二次元だよ。マンガにしかいない生物だって」
「他に何か言いようはないのかよ」
そう言いつつも、直也も視線が自然と彼女に向いてしまう。
西村ではないが、幻想の存在と言われても納得するくらいには美しい。だが、その美貌に見慣れることはなくとも、毎日顔を合わせていれば分かることも増えてくる。
近しい相手には献身的になること、姉妹仲がいいこと、人との間に幾つもの境界線を引くこと、
彼女も、何かを抱えていること。
見た目の美しさからは想像もつかない、当たり前の15歳の子供であること。
「柏木はやっぱ初めてじゃねーの? 姫様の私服」
「まぁな」
何気なく聞かれたせいで普通に応えてしまった。まぁ、西村ならいいだろう。
夏空の下の深夜に、空色のワンピースと淡い藤色のブラウスが良く似合っている。つばの広い帽子と合わせて、避暑地のお嬢様と言われれば誰も疑わないだろう。
あまり体のラインの出ない服ではあるが、夏場ならではの薄手の生地は全てを覆い隠してはくれなかった。
「じゃ、姫様の水着もどんなのか知ってんの?」
「知るわけないだろ」
何が、じゃ、なのか直也には意味が分からない。
一緒に買いには行ったが、何を買ったかなんて知るわけもない。
あのコーナーに並んでいた水着が勝手に思い出される。何を選んだのだろう。朝陽が妙に張り切ってたが、露出が多いやつじゃないだろうな。例えば、ヒモみたいな、
無限に広がる宇宙を全力で止めた。
「姫様だからな、きっとこう大人しいやつで――」
「――そこまでにしとけアホゥ」
松田のチョップが西村の脳天に落ち、直也の想像力を暴走させんとした悪魔の企みは阻止された。心底胸を撫でおろす。
頭を押さえてうずくまる西村に同情する気持ちは湧かなかった。
「ってー!? まっつん、もう少し加減ってものをさぁ!?」
「意味のないことはしない主義だ。全員集まったし行くぞ」
「意味あるよ!? オレがこれ以上バカになったらどうすんの!」
「バカの自覚があって何より。荷物多いから電車の中では騒ぐな動くなじっとしてろ。守れなきゃ飯抜きだ」
淡々と宣告する松田に、西村が絶望を絵にかいたような顔をする。
「酷くね!? あんまりだ! 抗議するぞ、何の権限があってそんなことを!?」
「残念ながら相川からのお達しだ」
松田が親指で指し示した先では、相川が腰に手を当ててこちらを睨みつけていた。
いや、こちらというより、おそらく西村を。
分かりやすく身震いする西村だったが、食べ物の恨みはなんとやら。己を奮い立たせ、強大なる相手に立ち向かう覚悟を決めた。
「相川、酷いじゃんか!? オレ今日の為に頑張ったよ!?」
「だから守れたらいいって譲歩してるでしょ。その大仰な荷物抱えて大声で騒ぐと迷惑だっていくらあんたでもわかるでしょうが」
「そうだけどさぁ!?」
早足で近づいて抗議する西村の後ろで、松田と直也が肩を竦ませ合ってそれぞれのクーラーボックスを担ぐ。
二人の意見は、「無駄な事しやがって」で一致していた。
その意見は的中し、相川は西村の胸倉を掴んで顔を引き寄せて小声で囁く。
「あんた、姫野のことやらしい目で見てたでしょ」
「……ナンノコトカボクワカラナイナー」
視線を逸らしながらカタコトで言っては自白してるも同然だ。
相川はそこをあえて口にするほど優しい性格ではなかった。
「仕方ないとは言っておいてあげるけど、それを他の子にも言ってあげるかはあんたの態度次第。友情を守りたきゃ言うこと聞きな」
「はいっ、わかりましたっ!」
胸倉から手を離し、相川はやや呆れた目でぴしりと背筋を伸ばす西村を見やる。
直也と一緒に追いついた松田が、背筋を伸ばすバカの頭を掴んで下げさせた。
「すまんな、相川。悪い奴じゃないんだ、バカなだけで。許してやってくれ」
「素直なのはいいとこだと思うよ。素直すぎるとこもあるけど」
二人のため息が重なる。
察しの良い二人だからか、言外の意味で通じ合ったらしい。
「え? 二人してなに? オレ褒めてるの?」
「褒めてないっ!」
きょとんとした顔の西村に、松田と相川が息ぴったりに睨みつける。
その様子がなんだかおかしくて、思わず直也は吹き出してしまった。
すると何故か深夜もくすりと笑い、全員に伝播していく。
松田と相川も肩を落として笑う。そして西村も満面の笑みを浮かべた。
「よくわかんねーけど、行こうぜ、海!」
その一言で全員が動き出す。
なんだかんだ人を動かす力はあるよな、と先頭を歩く西村を見ながら直也は思う。
松田も相川も、なんだかんだで面倒を見ているのはそういうところがあるからだろう。
いつの間にか隣に来ていた深夜と横目で目配せし、集団の最後尾をついていく。
海へ行くのだ、と思うと直也も気分が高揚してくる。これでは西村のことを何も言えない。
落ち着こうと息を吐くと、同じように隣で深夜も息を吐いた。
目を合わせて笑い合い、肩にかかったベルトの位置を調整する。
これから電車でおよそ一時間。乗り換えは一回。引っ越してから初めての電車に、少し緊張する。数年ぶりの海がその先に待っているかと思うと、余計に。
でも、深夜も同じように緊張しているのかと思うと少し気が楽になった。
友達同士での海。
いい思い出にしようと、心から思った。




