「それでも、地元に帰りたくはない」
「うん、そう。大丈夫、今時バイトくらい皆やってるって……あぁ、うん……ごめん、ありがとう。うん、じゃあまた」
久しぶりに本来の用途で使ったスマホをシーツの上に投げ、直也は深く息を吐いてベッドに寄りかかる。
バイトをすることになったが、親に何も言わないわけにもいかない。店主からも挨拶をしたいと言われれば、直也に否やはなかった。
別に親との関係は悪くない。ただ、一方的に直也が罪悪感を持っているだけだ。中学時代、上手くやれなかったせいで親には多大な迷惑をかけた。そして、今もかけ続けている。
家賃+光熱費を含む生活費は、高校生のお小遣いにしては高額に過ぎる。それでも両親は快く送り出してくれた。多めの仕送りはなるべく使わないようにしている。
頭をマットレスの上に乗せれば、この数か月で見慣れた天井が見えた。
一人暮らしを始めた当初、上手くやれるとは全く思っていなかった。それでも、あのまま地元にいるよりはマシだと思って、新しい何かに飛び込みたくて、この生活をすることを決めた。
その判断は正しかったのか、未だに分からない。
考えすぎじゃないのか、と囁く自分もいる。あのまま地元で高校に進学したって、同じ中学のやつと同じ学校になるとは限らない。それでなくても、中学のことなんて高校生活の楽しさと忙しさの中であっという間に忘れられていく。この生活はただ、柏木家の全員に負担をかけ続けるだけのマイナスでしかない。
そう思うことだって、たまにある。
何が正しくてどうすればいいのか、分からないままに意地を張っている。自分でもそうとしか思えず、好きにさせてくれている両親に申し訳なさが募る。
それでも、地元に帰りたくはない。
同じ中学の奴の顔なんて見たくもない。夏休みとはいえ、だからこそ、誰かと会う可能性はそれなりにある。
だから、親には連絡したくなかった。帰らないのかともし聞かれたら、あまりにも辛い。
バイトを決める時にそのことを失念していたのは、直也にとって一生の不覚だった。おかげで親に連絡せざるを得ず、こうして憂鬱な気分になっている。
帰ってこないのか、とは聞かれなかった。
バイトすることを心配されて、お盆は無理に帰ってこなくていいからね、と言われた。
しんどい。
そして、母親はあえて誕生日の事は言わなかった。
直也の誕生日は、8月25日。夏休みの終盤、小学生の頃は友達を呼んで祝ってもらったこともある。今となっては懐かしい思い出だ。
その日のことを、何も言わなかった。
帰ってきて欲しいのだろう、と思う。そのくらい、直也だって察しがつく。でも、地元に帰りたくないという気持ちを汲んでくれているのだ。
組んだ腕に額をぶつけて、ため息をついた。
だから嫌だったのだ。ただひたすらに辛くなるから。自分がどうしようもなく情けなくなるから。
ベッドの上に転がったスマホが、呪いの道具のように思えた。
その呪いの道具から通知音が鳴って、飛び上がるほどに驚く。
慌てて拾い上げてみれば、深夜からのチャットがきていた。
『ご飯食べた?』
珍しい。普段から用がなければ連絡しないのに。
それは直也とて同じだが。だから、前のチャットの履歴がまだしっかり残っている。
『あぁ。どうかしたか?』
『お弁当箱、どうだった? 足りた?』
そういえば、今日は直也専用弁当箱の初出勤日だった。昨日買ってきたから当然だが。
『ちょうど良かった』
『良かった。回収に行っていい?』
『別にいいけど』
『すぐ行くね』
わざわざどうして来るのだろうか。どうせすぐに返しに行くのに。
どういうことか理解できないまま首を傾げていると、チャイムが鳴った。
空の弁当箱を入れた巾着袋を持って玄関を開ける。
「こんにちは」
「おぅ」
深夜の部屋着姿も見慣れたものだ。今日はゆるめのタンクトップに薄手のカーディガンを羽織り、ショートパンツを履いている。相変わらずどこもかしこも細いのに、去年より育ったという胸は存在を主張していた。
見慣れたからといって、なんとも思わないかと言われるとそれは別の話だが。
「昨日はごめんね、お姉ちゃんと千弥子さんが勝手に話進めちゃって」
バイトの話か、とすぐに思い当たった。
強引な流れだったことを気にしているらしい。朝陽に加担する形になったことも含めてなのかもしれないが。
どちらにしろ、謝る必要はない。
「いや、大丈夫。なんだかんだ、俺もバイトできるのは助かるし」
「そう?」
「おぅ。あそこのパン美味かったし、結構楽しみにしてる」
「そっか」
俯きがちに深夜は薄く微笑む。
少し照れたような素振りを疑問に思う直也だったが、そういえば深夜と一緒に働くことになっているのだと思い出す。
今の発言はアレだろうか。キザっぽいアレに受け取られただろうか。どう反応するのが正解か分からず、素知らぬふりを押し通す。
何が正しいのか、本当に未だに何もわからない。
「八月一日からだっけ、バイト」
「うん。千弥子さんが夏休みに入るから」
『パンの庭』のバイトは、基本的に娘である千弥子に休みを与える為に募集している。
家が商売をしている子供の宿命と言えばそうだが、学校が休みだからといって休めるわけではない。手伝いという名の労働はいつでも手ぐすね引いて待っているのだ。
友人が青春を謳歌している時に、家の手伝いで時間が消えていく。
それをどう思うかはそれぞれのご家庭によるだろうが、『パンの庭』の店主である千弥子の父親は娘にも他の子と同じような休みを与える方針らしい。
家族経営の店で難しい話ではあるが、それを叶える為の方法が『長期休み限定のバイト』というわけだ。
そもそもの発端は千弥子の愚痴を聞いた朝陽がバイトとして雇ってくれと申し出たのが始まりだと言う話だが、どこまで本当かは分からない。あの人ならやりかねない、と直也は思う。
「よろしくな。俺、バイト初めてだから」
「こちらこそ。大丈夫、すぐ慣れるよ。チーフも店長もいい人だから」
にこやかに微笑む深夜に、直也は少しだけ引きつった笑みを浮かべた。
チーフとはあの熊みたいな店主のことであり、店長というのはレジを打ってくれたその奥さんのことだ。
どうにも店主がこだわりのある人らしく、仕事中は『チーフ』『店長』と呼ぶように言われた。普段は何と呼んでもいいらしいが、それはそれで困る。朝陽や深夜のように「おじさん」「おばさん」と呼ぶわけにもいかないだろう。結局、普段から『チーフ』『店長』と呼ぶだろうなと直也は自己分析している。
まぁ、だが、深夜の言うように良い人であるのは間違いない。チーフはああ見えて言葉遣いも態度も丁寧だし、店長も見たまま穏やかで優しい人だ。そして、二人とも夏休みだというのに実家に帰らない直也のことを何も聞かないでいてくれる。
バイトが楽しみなのは、嘘偽りない本音なのだ。
「海、バイトの前で良かったな」
「そうだね」
「一週間後か。駅前で良かったよな?」
「うん、そのはず。前の日になったら相川さんに連絡するから」
「あー、こっちは向こうから連絡来そうだな……」
「西村君?」
「そう。ぜってーはしゃいでるわ」
げんなりした顔を浮かべる直也に、くすくすと深夜が小さく笑う。
その無防備な笑顔を直視できず、直也は顔を逸らした。
「でも良かった。バイト、できるんだよね?」
「ん? あー……そうだな、できるよ」
そう言うと、深夜はほっとしたように微笑む。
そこでようやく、彼女が何故わざわざ口実を用意して話にきたのかを理解した。
いくら本人の意思があっても、未成年である以上保護者の承諾が必須だ。直也に何か事情があることくらい察しているだろうし、何か不都合はなかったかとこちらの様子を窺いに来たのだ。
彼女は何も知らない。何も聞かない。でも、心配はしてくれてるし気にしてくれている。
それが殊の外嬉しく、妙な罪悪感を刺激された。彼女に何も話していない自分が、何か悪いことをしているような錯覚。
あるいは、その錯覚から逃れるためにそれは口をついて出たのかもしれない。
「姫野もバイトするってことは、家に帰らないんだな」
それは、昨日朝陽と話していてふと湧いた疑問。
お互い事情があるのだから踏み込まないようにしようと思っていたことのはずだった。
答えが返ってくるのに、一瞬の間があった。
「うん。帰らないよ」
そう笑う深夜の表情はひどく寂しそうで、何故か少し泣いているようにも見えた。
反射する太陽の光を受けて、銀色に輝く髪が通り過ぎる風に揺れる。神秘的なまでに美しいその姿は、指でつついただけで壊れそうなガラス細工だった。
しまった、と思う。
思うのがあまりにも遅すぎる。
事情があるのはお互い様で、深夜は朝陽の世話をするために居るのだという適当な理解で十分だったはずだ。そうでなければ、親元を離れて暮らす必要があるものか。今通っている高校は、その理由になるほど有名でも偏差値が高くもない。
不用意に触って欲しくない。だから、相手にも触らない。そのはずだった。
罪悪感が質量をもって圧し掛かる。
深夜は何も言わない。直也も何も言えない。
お互い黙ったまま、どうにもならない空気が流れ、
スマホが鳴った。
びくっとして振り向けば、ベッドの上で着信音を響かせながらぶるぶると揺れ動いている。特に設定していないので、音はデフォルトのままだ。
驚いた顔の深夜と目を合わせ、スマホを取りに行く。
色もそっけもないスマホの画面には、『西村』と表示されていた。
口にした言葉は本当になると言う。名指しで話題に出したのが原因だろうか。
直也は憮然とした表情でスマホを見下ろし、震え続けるそれを無視して玄関に戻り、持っていた巾着袋を深夜に渡す。
「弁当、ありがとうな。今日も美味かった」
「あ、うん。スマホ、いいの?」
気遣わしげに部屋の方に視線を向ける深夜に、眉根を寄せて頷く。
「いい。少しくらい待たせたってバチは当たらねぇ」
「そうなんだ……?」
「そう。んじゃ、また明日な」
「うん、また明日」
手を振り隣の部屋に入ってく深夜を見送り、玄関を閉めて乱雑にスマホを手に取る。
通話ボタンを押せば、能天気な西村の人の迷惑考えない大音量ボイスが響いた。
どうせ海の事だろうと思えば、まさにその通りだった。女子達の水着はどうかとか、そんな話を延々聞かされる。
正直途中で切りたかったが、助けられたのは事実だ。
あそこで着信が鳴らなければ、どうなっていたかは分からない。
本当に、正解が何なのか分からないことばっかりだ。
西村の話への相槌なら、何でもいいと分かるのに。
男子高校生らしい勢いの会話を右から左に流しながら、直也は深く深くそう思った。




