「有給取るから大丈夫!」
カーテンの隙間から強引に侵入してくる暴力的なまでの光が、アラームとタッグを組んで直也を叩き起こす。
むくりと起き上がり、あくびをしながらスマホを手探りする。硬い感触を掴んで引き寄せれば、電子盤は6:30の文字を明滅させていた。
ギンギラギンに輝く太陽光に抵抗する気力も起きない。カーテンを閉め損ねた昨夜の自分に舌打ちし、ユニットバスの洗面台で顔を洗う。
昨夜使ってラックに置きっぱなしだったボウルを掴み、隣に立てかけていた四角くて小さい卵焼き用フライパンをコンロにかける。
鶏がらスープの素混入の出汁巻きといっていいのか分からない卵焼きを作り、いつものようにインスタント味噌汁と鮭フレークを持って部屋の机に並べる。
食べ終わった食器を水につけ、制服に着替えて中身がスカスカの鞄を掴む。玄関で靴を履き踵を蹴り込み、教室に教科書とかノートとか置きっぱだっけ、と考えてようやく気付く。
今日から夏休みだ。
うめき声を漏らして玄関ドアに額をぶつける。毎日の習慣とは恐ろしいもので、特に頭で考えなくても体が動いてしまう。
自分の間抜けさに嫌気が差す。カーテンを閉めれば二度寝が出来たことを思えば、その損失は計り知れない。もう一度うめき声が漏れる。
隣の玄関ドアが開く音がした。
社会人に夏休みはない。朝陽は今日もいつも通りの時間に出勤だ。このまま部屋に戻るのは、どうにも据わりが悪く思えた。
せっかくだし、自分への戒めとしてこの姿を晒すのも悪くない。明日からの失敗を防ぐための尊い犠牲だ。
意を決してドアを開き、スーツ姿の朝陽とご対面を果たした。
「直也くん、おはよう! って、何そのカッコ?」
「おはようございます。夏休みだって忘れてまして」
目を丸くする朝陽に正直に答える。
からかうような視線が飛んでくるだろうが、甘んじて受け入れよう。その屈辱と共に夏休みに入ったことを忘れえぬ記憶とするのだ。
そう身構えたものの、飛んできた視線は予想通りだが予想外のものであった。
「あらー、直也くんもなんだね。ミヤちゃーん! 直也くんも夏休みだって忘れてたってー!」
そう部屋の中に呼びかければ、ギラつく朝の中ですら涼しさを感じる声が聞こえてくる。
「お姉ちゃん、近所迷惑」
「朝だからちょっとくらい大丈夫だって。ほら、渡したげよ?」
「分かってる」
玄関ドアの向こうから、薄手の部屋着姿の深夜が出てきた。
手にはいつも直也が使う巾着袋を持っている。藍色の生地に、白で影絵のように切り抜かれた兎の模様。男子が使ってもギリギリ許されるデザイン。
直也はぽかんとした間抜け顔のまま突っ立っていた。
深夜がバツの悪そうな顔をして彼の前に立つ。
「あの、忘れてたわけじゃないんだけど。夏休みどうするか決めてなかったし、家に帰るのかなって思ったけど何も聞いてなかったから」
そう言って中身入りの巾着袋を差し出してくる。
深夜製の弁当は、基本的に朝陽の為に作られる。直也の弁当はそのついでだ。夏休みと言えど社会人には関係なく、弁当作りにも関係ない。
つまりは、そういうことなのだろう。
文句などあろうはずもない。例え何があろうが深夜の手作り弁当を選ぶのが、男子高校生というものだ。なんか似たようなことを昨日西村も言っていたではないか。
「おぅ、ありがと。助かるわ」
「うん」
弁当を受け取ると、深夜が薄く微笑んだ。
起きて良かった。直也は昨夜カーテンを閉め損ねた自分を心の中で褒めちぎる。
「それで、明日からどうするの?」
朝陽の声に二人してびくりと反応する。
二人の視線を受けても、朝陽は余裕の笑みを崩さなかった。
「別に、決めた通りで」
素っ気なく言う直也に、朝日に輝くハニーブロンドの美女はにんまりと微笑む。
「学校ないのに、いいの?」
「散歩でもします。規則正しい生活は大事だって言われてるんで」
「へぇ?」
「夏休みのしおりでも見せましょうか? 書いてありますよ」
平静を装ってあしらう直也にうんうんと朝陽は頷き、可愛い妹の方を向く。
「ミヤはいいの? お弁当二人分だよ?」
「いつもと変わらないからいいよ。一人分だけ作るより楽だし」
「そっかぁ、なるほどねぇ」
またもうんうんと頷き、朝陽は藍色の巾着袋に視線を落とす。
妙に居心地が悪く、巾着袋を持つ手が震えた。
「それ、うちにあるのでは一番大きいけど。直也くん、足りてる?」
「前までパン一個とかだったんで、足ります」
「もーちょっと欲しいなー、とか思わない? 深夜も量は多い方が楽なんだよね?」
「……うん。少ないと、残った具材どうしようか迷う時あるし」
15歳にして主婦のような悩みである。だが、料理を作った後に余った食材をどうするかは世に尽きることのない悩みの一つではあった。
そしてそう言われると直也も心が揺らいでしまう。意思の弱い男である。
「直也くんがミヤの料理沢山食べたいなーと思わないならいいんだけどね」
「……誰もそんなこと言ってないでしょ」
獲物が罠にかかったのを確信した朝陽の笑みに、心の中で舌打ちする。
いやでも、これは仕方がないのだ。避けることのできないトラップだ。意地の悪い仕掛けをした相手が悪い。
「よし! それじゃ、明日お買い物にいきましょうか!」
ぱん、と手を叩いて宣言する姉に深夜が驚愕の目を向ける。
直也は苦虫をかみつぶしたような顔で観念するように目を閉じた。
「少し離れてるけど大きいショッピングモールにしよう。男の子用のお弁当箱と巾着買って、新しい水着買って、ついでに色々見て回っちゃおう」
「お姉ちゃん、そんないきなり」
「ミヤだっていつまでもうちのありものじゃ悪いって思うでしょ? 柄とかデザインとかも男の子が使うことを考えたものじゃないし」
妹の抗議を正論で封じる。
確かに今の巾着や箱はあくまで朝陽が使う用で買ったものだ。いわば朝陽のおさがりである。それを直也に使わせ続けるのは如何なものかと思わないでもなかったのだ。
深夜が言葉を呑み込んだのを了承と捉え、朝陽は胸を張った。豊かで目に毒な大きさが揺れる。直也は頭痛がした。
「それじゃ決まりね。明日の朝、いつもの時間にここ集合で!」
「仕事はいいんですか?」
「有給取るから大丈夫!」
胸を張り続ける朝陽であったが、そんな急に休みが取れるものなんだろうかと直也は疑問でならなかった。
社会人ってそんな簡単に休めたのか。そんなイメージはなかったが、まぁ、ホワイト企業ということでいいのかもしれない。
どちらにしろ、今の直也に彼女を止める力がないのは明白だ。
「分かりました。明日ですね」
「うん! ミヤもちゃんと準備してね?」
「分かった。お姉ちゃん、時間はいいの?」
腕時計を見て、あ、と呟いて朝陽は二人に手を振りながら早足に階段を下りて行った。
夏休み初日から嵐にでもあったような気分だ。
深く深く息を吐いて、同じ仕草をした深夜と顔を見合わせる。
「弁当箱、後で洗って返す」
「いいよ、食べたら持ってきて。いつもみたいに、それでいいから」
仄かな笑みを浮かべる深夜に、そっか、と頷く。
そう、いつもは帰り際に巾着を返していたのだ。今日からは学校がないので、自分で持っていかねばならない。
そのことに気づいて、どうにも落ち着かない気分になった。
「じゃあ、あー……後で」
「うん、また後で」
頷きあって、互いに玄関ドアを閉める。
巾着袋に目を落とす。夏休み初日からえらいことになってしまった。
明日注がれるであろう周囲からの視線を想像し、今の内から腹を括る。気合を入れなければストレスで禿げそうだ。
だが、自分の弁当箱ができるというのは悪くない。
深夜の料理だって、できるなら食えるだけ食いたいのだ。しかしそうなるとメタボ一直線になるような気もする。
どうせこの時間に起きることになるんだし、ジョギングでもするか、とスマホを取り出す。適当に走るにしたって、ルートを考えておかないと。
起きて弁当を受け取って二度寝というのもしまらないし、腹を減らした方が飯は美味い。健康的な生活を送るよう夏休みのしおりにも書いてあったことだし。
ジョギングルートを検索しながら、弁当箱をキッチンに置く。
なんなら今日少し走ってこようかと思いながら、部屋に戻って服を探す。学校のジャージでもいいが、出来ればもう少しマシなものがあればそっちがいい。明日着て行く服も今の内に選んでおかないと。
高校一年の夏休みの始まりは、思ったより忙しく過ごすことになった。




