「夏休みが、始まった」
海の相談が終わり、雑談にも区切りがついたタイミングで直也は教室から出た。
友人達とのお喋りに未練はあるが、それよりも腹の虫の方が問題だ。それを言うなら西村達もそうだろうが、多分あの調子だと帰りに買い食いでもするだろう。それに付き合うわけにはいかない。
何故なら、直也にはお弁当があるからだ。
終業式に弁当、と驚くなかれ。深夜製の弁当は、基本的に朝陽の為に作られる。そして朝陽は社会人であり、夏休みなどという悠長な制度は社会には設けられていない。
海外ではサマーバカンスなどがあるが、ここは日本である。月月火水木金金なのだ。
朝陽の為に作る弁当ついでに自分と直也の分を作る、というのが深夜のサイクルである。よって、今日も仕事のある朝陽の為に弁当を作り、ついでに二人分が出来上がってしまったというわけだ。
文句などあろうはずもない。侘しい自作の飯と深夜の弁当なら、例え何があろうが深夜の弁当を選ぶのが男子高校生というものだろう。
弁当をいれた鞄を手に、もう片方にスマホを持って先に教室を出た深夜とチャットで連絡を取り合う。
送られてくる場所の情報を見ながら歩けば、中庭とも言い難い校舎と校舎の隙間にある大きな樹の下のベンチが見えた。
一枚の絵がそこにあった。
夏の日差しを防ぐ木陰。木製のベンチに座る美しい少女と、膝の上の弁当箱。きらきらと輝くライトブロンドは白くぼやけて、夏の中に溶けていく雪のようだった。
こちらに気づいて小さく手を振る彼女に反応できたのは、チャットの通知音が鳴ってからだった。
兎のスタンプのそれは、幻想の中に消える少女にしては可愛らしい趣味である。
見慣れたと思っていたのに。
自分でもどんな感情が分からない吐息をこぼし、直也は夏の中に足を踏み入れた。
「こんな場所があったんだな」
「この前散歩していて見つけたの。いいとこでしょ?」
「いいね。人があんまり来なさそうなところが最高だ」
笑いながら「そうだね」と頷く彼女の隣に腰を下ろす。
鞄から弁当箱を取り出して分かったが、直也のそれは彼女のものより1.5倍は大きい。
気を遣ってくれたのは分かるが、よくこんなサイズがあったものだ。
「……姫野の弁当箱、ちっちゃくねぇか?」
「そうかな? これでお腹いっぱいになるよ」
「そうか……この弁当箱は朝陽さんの?」
一瞬、ほんのわずかに彼女の眉が動いた。
「うん。でもちょっと大きくて、今はもう少し小さいのに買い換えてる」
「朝陽さんもあんま食わない方?」
「食べる方だと思うけど、お弁当以外にも色々付き合うことがあるんだって。だから量を抑えてほしいって言われた」
「なるほど。社会人も大変だ」
弁当箱を広げながら「そうだね」と頷く彼女にならって、箱を開ける。
今日も彩りといい種類といい、実に豪奢な中身だった。味の保証までついている。直也は心から感謝しつつ、両手を合わせた。
「いただきます」
二人の声が重なり、横目に互いを見て小さく笑う。
木陰で食べる弁当はいつもより美味しく感じる。いや、深夜の弁当はいつだって美味しいが、なんだか今日は特別そう思った。
箸の止まらない直也はそうそうに食べ終えてしまい、道すがら買ってきた牛乳パックにストローを刺す。
隣の深夜は、もう少し時間がかかりそうだった。
箱を片付け、パックを飲み干し、刺したストローを咥えたままぼーっとベンチに背中を預ける。
いつの間にか強くなった日差しが、夏を感じさせる。もう夏休みに入ったというのに、いまいち実感がない。帰って一度寝れば湧くだろうか。
深夜がようやく食べ終え、直也は口からストローを外した。
「ごちそうさまでした」
「お粗末様でした」
今度はちゃんと顔を見合わせて言う。
夏の景色に溶けていきそうな彼女は、幻想というには愛らしい笑みを浮かべていた。
蝉の声がする。
どこか遠くで誰かが談笑する声。
何かの部活が金属音を響かせ、ブラスバンド部が爆音を上げる。
隣の彼女は半袖のブラウスに学校指定の長さのスカート。そんな制服姿は、これから一か月と少しの間見られなくなる。
私服姿を見られる機会がどれだけあるかは、直也には分からなかった。
夏休みが、始まった。




