八話 勤健立行
「さっきまでの威勢はどうした?
まさか、もうへばったのか?」
綺麗に両端の角を取り、丸められた使い手にも受け手にも優しい木製の棍で肩を叩きながら、そう挑発するかの様に厳しい台詞を投げ掛けるのは夏侯惇。
夏侯惇であるが故に、その言葉は意図した物ではない。
その為、それは本人の素直な感想でしかない。
決して、本人は挑発しているという訳ではない事だけは、はっきりと言って置きたい。
そんな夏侯惇の視線の先には地面に這いつくばる孫策。
怪我をしている訳でもなければ、投げられた訳でもない。
しかし、どうにか突っ伏さない様に手を突っ張りにして、上半身を支えている、という状況。
力が入らず、生まれたての仔馬の様にプルプルと震える。
手足を震わせながらも、夏侯惇を睨み上げる。
「──くっ、わ、判ってるわよ!
このっ、程度がっ、何だって言うのよっ!」
──が、其処は“売り言葉に買い言葉”と言うべきか。
夏侯惇に他意が無くとも、根っからの負けず嫌いな孫策は夏侯惇に反抗する様に、自分の裡から囁く弱音に。
声に出す事で自分に言い聞かせ、叱咤し、追い込む。
意図した事ではなく、負けず嫌いが故の自発的な解決策。
闘志は、遣る気は、まだ萎えてはいない。
消えそうだった意志の火が、その言葉に燃え上がる。
そんな孫策を見て、触発され、奮起する。
親友であり、悪友であり、恋敵であるからこそ。
周瑜にとっては、これ以上無い燃焼剤。
「此奴にだけはっ……」と。
彼女もまた、その負けん気の強さを発揮する。
その様子を見ている者からすれば、実に良い関係だ。
普段はアレだが、何だかんだで、この二人は御互いの事を支え合っているのだから。
それが意識的・意図的ではなく、無意識・自然にである。
「フンッ、口先では何とでも言えるぞ?
私は何時まで待っていればいいんだ?」
──と、更に自然に煽る夏侯惇。
「容赦無いな~」と思うよりも先に、夏侯惇らしいと思う辺りは付き合いが長いが故の事なのだろう。
ただ、それは二人には効果覿面。
歯を食い縛り、力を身体の奥底から絞り出す。
「──ぁあぁああぁぁっ!!」
意地と気合いの咆哮と共に立ち上がった孫策。
負けじと並び立つ周瑜。
見るからに疲労困憊で息も絶え絶えだが。
夏侯惇は口角を上げ、手にする棍を構えた。
「その意気や良し」と言わんばかりに。
けれど、当然の事ながら容赦などしない。
“鉄は熱い内に打て”と身を以て知っているが故に。
「春蘭らしいっちゃらしいんだけどな~……
「少しは手加減しろよ!」って言いたくもなる」
「まあ、姉者だからなぁ……」
馬超の感想に、夏侯淵は小さく嘆息。
文句でも苦情でもなく、感想。
だから、この会話は問題を提議している訳ではない。
飽く迄も、身内の他愛無い会話の範疇の事。
何より──自分達も通った道である。
その為、その厳しさの意味を理解している。
「──にしても、初日で二人共に引き出したな
やっぱり、下地が有ると違うのか?」
「どうだろうな……
私達──私や姉者、それに御前は元より扱えてはいたが、それが出来る様になるには少し手間取ったものだ」
「玲生様の話だと、慣れ過ぎだって事らしいけどな」
そう言って言葉を切り、頭の後ろで両手を組む馬超。
子供達の前では遣らないが、彼女の癖の一つ。
意識していないと、こうして出てしまう位にはだ。
そして、視線で言外に夏侯淵に示す。
「頭と言葉では理解は出来るんだけどな~」と。
夏侯淵も当時の事を思い出し、小さく首肯。
寧ろ、彼是と考えない夏侯惇の方が早く出来た事も。
それが自分達に遣る気を出させる切っ掛けになった事も。
序でに、思い出したので。
つい、苦笑してしまう。
それは馬超にしても同じで。
視線を交えて、「だよな~」と苦笑。
何だかんだで、自分達も孫策達も刺激されたのだから。
「本当、人の神経を逆撫でするのが上手い奴だよな」と。
口にはしないだけで、同じ様に思う。
しかもそれが悪い方向にではなく、良い方向に働くのだ。
だから、あの二人が夏侯惇には甘かったのだとも判る。
自分達が遣ると、態とらしくなるし、読まれる。
まだ、馬超の方が増しだろうが。
夏侯淵が遣れば、あからさまな挑発でしかない。
遣る気は遣る気なのだが。
思考──理解した先の遣る気と。
感情的──直情的な遣る気とでは、似て非なるもの。
後者の方が圧倒的に振り絞る事が出来る。
それを知っているからこそ。
二人は夏侯惇という存在が稀有な事も判っている。
まあ、それはそれ、これはこれ。
腹が立った事は、後になっても覚えているものである。
今日から孫策と周瑜が指導されているのは氣の扱い方。
孫策は「え? 知ってるけど?」と言ったが。
氣を扱う術というのは、そう簡単な物ではない。
曹晧を以てしても、「生涯勉強、終わりは無いよ」と。
そう言い切る程に、氣を扱う術というのは奥が深い。
そして、まだまだ技術的にも未成熟。
──とは言え、それも仕方が無い事だと言える。
曹家・孫家・馬家。
この三家を除けば、その技術は幻に等しい物。
姉弟という関係だが、皇帝夫妻は氣を扱えない。
娘の劉協は素養が有るのだが、韓浩達が教えるのは困難。
何しろ、最低でも一年は下地作りの為に必要不可欠。
その間、一緒に生活しなければならない。
韓浩達が洛陽に行く事は不可能で、劉協達が一年も洛陽を離れる事は実質的に困難な事。
それ故に劉協達への指導は現時点では考えられていない。
──とまあ、皇帝でも扱えない様な特殊な技術である為、世間一般に普及している訳も無く。
抑の話として、氣は扱える者自体が稀少な技術。
氣自体は万人が有しているものだが、扱えるかは別の話。
更には氣にも適性──向き不向きが有るのだから。
その技術が普及せず、研究されていない事は必然である。
それでも、田静という一石が世に波紋を生じさせた。
その波紋を受け、変化したのが彼女に連なる者達。
それ故に、まだまだ氣を扱う術は社会的にも未成熟。
その事を、韓浩達も理解している。
今も尚、追い掛ける背中は遠いのだから。
「けどまあ、順調なのは良い事だよな」
「順調、か……」
「何だよ、秋蘭は違うってのか?」
「確かに初日で引き出せた事は大きい
私達は多少なりとも躓いた訳だからな」
そう夏侯淵が言うと、馬超は「態々言うなよ」と不満気に眉根を顰めて、視線と表情で抗議する。
「別に恥ずかしい事でも有るまい」と夏侯淵は肩を竦め、変な所では子供っぽい馬超を可愛らしく思う。
口や態度に出したりはしないが。
「私達の場合は、という話にはなるが……
その最初の躓きが、後々に経験として活きている
まあ、姉者は天然だが……
それによって考える癖が染み着いた」
「あー……まあ、そうかもな~……」
馬超は夏侯淵が言いたい事を察し、同意はする。
夏侯惇程ではないにしても馬超自身も感覚派。
その為、夏侯淵の言い分も、夏侯惇の感覚も判る。
判るからこそ、明確に何方等と言う事も出来無い。
決して、中途半端な訳でも優柔不断な訳でもない。
それは夏侯淵にしても察している事。
だから、それ以上には何も言いはしない。
御互いに無意味な口喧嘩をする気は無いのだから。
ぼー……っと、ただただ天井を見詰める。
何もしていないのではなく、何も出来無いから。
自分の身体を──腕を持ち上げる事も出来無い。
それ位に、疲弊し、倦怠感が全身を蝕んでいる。
室内──同じ部屋に、隣の寝台に、居る筈の孫策の方へと顔を向ける事でさえ億劫であり、出来無い。
こんな経験は記憶にも無い。
風邪を引いて熱を出して寝込んでいた時でさえ、厠に行く事は出来るのだから。
(……やれやれ、彼奴らしいな……)
身体は動かせないが、五感は働いている。
耳を済ませば、寝息が聞こえてくる。
あまり嬉しくはないが、その寝息の音を聞けば判る。
判ってしまう位に、付き合いは長いのだから。
まあ、だから心配もしてはいなかったが。
彼是と考えずに眠れる性格──図太さが羨ましくなる。
それはそれとして。
何故、こんな事に為っているのか。
その理由は判っている。
夏侯惇との鍛練によって、氣を使い切ったからだと。
しかし、氣を使い切るという事は何度も有った。
有ったが──こんな風になった事は一度も無い。
だが、説明されれば、「成る程」と納得が出来る。
出来てしまうから、文句も言えない。
孫策ではないのだから。
これまでの自分達が使っていた氣というのは表面的な物。
例えるならば、井戸から溢れ出している水。
何もしなくても自然に溢れ出している為、それを掬い取り使っている、という感じだろう。
だから、氣を扱う術としては間違いではない。
間違いではないが──それは初歩も初歩。
ある意味、氣を扱う適性さえ有れば、誰もが出来る事。
自身満々だった孫策が恥を掻いた様にだ。
……同じ様に思ったが、何も言わなくて良かった。
そう、本気で思う。
絶対に、揶揄うネタにされるのだから。
──話を戻して。
自然に溢れ出しているとは言え、無制限ではない。
だが、溢れ出した分を使い切ったとしても、それで井戸が涸れるという事は無い。
飽く迄も、溢れた分──余剰分なのだから。
今まで、自分達が扱っていた氣は、そういう物な訳で。
理解すれば、「それなら、こうは為らないか」と納得。
一方で、今日、自分達が踏み込んだのは、その先の事。
自然に溢れ出していたのを扱うのではなく。
井戸から汲み上げて扱う。
つまり、自分の意思で、氣を引き出す訳だ。
その為には先ず、普段使っている表面的な氣を使い切り、引き出すしかない状況に置く。
夏侯惇を相手にした鍛練は、その為の準備段階。
本番は、追い込まれた所から。
……まあ、それとは関係無く、疲れて動けなかったが。
夏侯惇に手加減は期待しない方が良いのだろう。
そう、身を以て学んだ。
ただ、肉体的にも追い込まれていたからなのだろう。
表面的な氣しか感じていなかった筈の自分達だが。
自らの内に在る氣を感じ取り──引き出す事が出来た。
(……まあ、その結果が、この様な訳だがな……)
普段──これまで扱っていた氣とは根本的に違った。
己が内から氣を引き出す事が、こんなにも難しい事だとは思いもしなかった。
──と言うか、感覚としては全くの別物だった。
自分の内──奥に在る氣だろうと、自分の氣だ。
自分の氣であるなら、感じ取る事が出来れば扱える。
──そう思ったのが、大きな間違いだった。
井戸から水を汲む為には、それなりの手段が必要である。
それと同じ様に、自分の内から氣を引き出す事は難しい。
どう難しいのか、それを具体的に言うとだ。
内に在る氣は抵抗する。
氣を引き出そうとすると、引っ張られる。
それを体感した時、戸惑った。
正直、意味が判らなかった。
「……は? え? な、何故?」となった。
……先に引き出せた孫策が妬ましかった。
まあ、私も直ぐに引き出せたがな。
何故、引っ張られるのか。
それは内に在る氣は、そう在る事が自然である。
その為、其処から外れる事──外へと引き出すという事は在り方に逆らう事になる。
そう考えれば、抵抗が有る事は当然だと言える。
しかし、理解しても簡単に出来る事ではない。
その抵抗を越えて、引き出した氣を扱う。
引き出した氣は繋がったままなので、綱引きをしながら、扱うという事になる。
つまり、二つ以上の事を同時に行わなければならない。
これが……本当に疲れる。
氣を引き出して扱えたのは、たった一度のみ。
その一度で、この有り様なのだ。
(全く……知れば知る程に遠くなってゆくな……)
目指す背中は本当に遠い。
自分達の目の前の目標にですら、まだまだなのに。
その目標でさえ目標にする背中なのだから当然だが。
その距離感が判らなくなる程に、遠く思えてしまう。
まあ、だからと言って挫けも諦めもしないが。
寧ろ、それ以上に遣る気が出て来る。
「此処まで来なさい、待っているわ」と。
振り向いた背中が、挑発的に微笑むのだから。
奮い起たない理由は無い。
孫策と周瑜が本当の意味での氣の扱い方を学び始めた為、先導者を失った子供達の日常も変化した。
どう変わったのかと言うと……平穏になった。
いや、そうは思ってはいても口にはしないが。
年長の楽進は勿論、韓羽と曹忠も波風を立てはしない。
──と言うか、“口は禍の門”だと知っている。
何より、恋敵が居ないのだ。
態々、自ら招き入れようとは思わない。
──が、周瑜が不在となると、色々と困る事も。
……孫策?
居ても居なくても騒がしいのだから……ねぇ?
「獅琅~っ!」
曹丕を見るなり、抱き着き、頬擦りする孫策。
「おい、手前ぇ、離れろや」と。
つい、ドス黒い感情の籠った視線を向けてしまう。
図々しいと言うか、図太いと言うか。
兎に角、韓羽と曹忠の胸中は穏やかではない。
そんな二人の感情を察してか、孫策の頭を叩く周瑜。
痛がる隙に曹丕を引き離し、自身を孫策との間に置く。
その行動に韓羽達が「流石は御姉様!」と拍手喝采。
勿論、心の中で、だが。
「ブーブー、何で邪魔するのよ~」
「御前の自由にさせると時間の無駄だからだ」
きっぱりと言い切られ、孫策は唇を尖らせる。
だが、それ以上は何も言わない。
言えないと言うのが正しいだろう。
あと、下手に文句を言えば滅多打ちにされる。
それだけ、心当たりが有るのだから。
そして、その遣り取りが他の皆の悩みでもある。
曹丕が最終的な判断や決定をするにしても。
その前段階での良し悪しの判断が難しい。
それは、ずっと、周瑜が担ってきた事だから。
同じ事は急には出来無い。
勿論、努力はしているのだが。
根本的に違うのだと実感させられただけで。
真似事でさえ、出来るとは言えない。
……悔しいが、それは孫策にも言える事。
楽進は兎も角として、韓羽と曹忠は歳上として曹丕の事を引っ張って行きたいとも思う。
──が、孫策の様には出来無い。
いや、孫策が可笑しい事は判っている。
あんな風に後先考えずに行動する事は不可能だ。
少なからず、家族の事を考えてしまう。
身寄りの無い身であれば、好き勝手に出来るのだが。
……いやまあ、それでも色々と考えるとは思うが。
うん、やっぱり、孫策は頭が可笑しいと思う。
──が、その行動力を羨ましくも思う。
今の自分達に、気安く抱き着く真似は出来無い。
だからこそ、羨ましくもあり、腹立たしくも思う。
そんな事を思う面々とは違い、曹丕は周瑜に声を掛ける。
「二人とも大丈夫?」
「ああ、大丈夫だ、有難う」
最近の二人が体調を崩している事を曹丕も知っている。
だから、純粋に二人を心配して、そう声を掛けた。
年長という立場から、周瑜は無理をし勝ちだから。
……孫策?
我慢したり、無理をしたりすると思う?
感情に任せて、再度、曹丕に抱き着こうとする孫策だが、その顔面を周瑜の右手によって掴まれ、阻止される。
しかし、それで大人しく諦める孫策ではない。
直接、曹丕に抱き着く事が出来無いのであれば、だ。
自分の邪魔をする周瑜を巻き込めば良い話だ。
「──えいっ!」
「──なぁっ!?」
曹丕を守ろうとする意識が強過ぎた事が仇となる。
孫策は周瑜の右手を掴むと引き寄せた。
それも、入れ替わったりする形ではなく、自分が正面から受け止める格好で、である。
予想外の行動に、不意を突かれた事も有り、周瑜は抵抗も出来ずに孫策の胸へと倒れ込む。
「いらっしゃ~い」と言わんばかりの抱擁。
突然の事に周瑜の思考は混乱し──動きが止まる。
狙って生み出した、その一瞬の隙を孫策は逃さない。
周瑜を抱き締めたまま、曹丕へと接近。
我に返った周瑜が抵抗する事も読んでいる。
だから、自分と曹丕で周瑜を挟む様にする。
無意識に伸ばしていた曹丕の左手を掴み、引き寄せる。
それだけで面倒な周瑜を黙らせる事が出来る。
周瑜の後ろから曹丕が覆い被さる様な格好になる。
そのままの体勢だったならば。
此処で文武両道な周瑜の運動神経の良さが裏目に出た。
反射的に強引に身体を捻って振り向いた周瑜。
其処へ、曹丕が孫策に引っ張られて倒れ込んで来た。
丁度、曹丕の胸元が周瑜の顔に乗っかる様に。
見方を変えれば、曹丕が周瑜を抱き締める格好だ。
いやまあ、無理が有る事は確かなのだが。
周瑜の脳内では、そんな状況に強制的に変換される。
稀代の才媛の思考力と懐く想いが成せる業である。
そして、孫策の狙い以上の効果を発揮する。
周瑜は完全に沈黙。
いや、急に倒れ込んだ為に、姿勢が不安定になった曹丕が反射的に縋る様に周瑜の頭を抱えた為、密着状態に。
しかも、孫策が曹丕の左手を掴んだままで。
その上、曹丕の頭を抱き寄せている。
流石に曹丕も危ない事なので孫策に抗議する。
抗議はするが、逃げようとはしない。
だから、孫策は曹丕に頬擦りする。
そして、それを止める筈の周瑜は夢幻の彼方に。
我に返った韓羽達が止めに入り、いつも通りに賑やかに。
「流石と言うべきなのか、呆れるべきなのか……」
「素直に褒めて遣ったらいいんじゃないのか?」
そう言う韓浩を夏侯淵が睨む。
それが愚痴だと判っているから、韓浩も肩を竦めるだけ。
それ以上、余計な事は言いはしない。
自らの氣を引き出し、扱う為の鍛練を始めて十日。
まだ、たったの十日だ。
しかし、朝練後に以前の様に曹丕達と行動が出来るまでの余裕を持てる様になった。
それは問題などではない。
素晴らしい事だ。
だがしかし、あまりにも早過ぎる。
それが、夏侯淵としては心配だった。
「何だかんだ、秋蘭が一番過保護なんだよなぁ……」と。
その様子を見ながら思う韓浩。
だが、その原因が自身の愛妻である事も判っている。
あんな姉を持てば、妹は、心配性になるだろうから。
まあ、その……仕方が無い事だと思う。
──で、話を逸らす様に視線を曹仁に向ける。
その意図を直ぐに察する程度には、付き合いは長い。
「ところで、二人の次の出陣の予定なんだが……」
「確か、豫州と揚州の州境付近に居る連中だったけ?
……もしかして、何か問題でも?」
「ああ……その目を付けていた連中が潰された」
知らない様な体で訊いてはいたが、実は知っている。
いや、まだ詳しい事は聞いてはいなかったが。
一応、「問題が起きた」とだけは聞いていた。
だから、初耳の夏侯淵は勿論、韓浩も眉根を顰める。
「一応、訊くけど……孫家じゃないよな?」
「それは流石に無い」
「だよなぁ……」
冗談半分に言いつつも、違った事には安堵する。
「有り得ない事だ」と言い切れはしないのが血筋が故に。
──とは言え、目を付けていた連中の事は話してある。
つまり、向こうにしても予期せぬ事の筈。
そう考えた韓浩は「その事は向こうも?」と視線で問う。
曹仁は小さく息を吐き、しっかりと頷く。
まあ、当然と言えば当然か。
任されているとは言え、可愛い娘達の事だ。
気にしていない筈も無いし、連絡し合わない理由も無い。
いやまあ、あまりに頻繁に文を寄越すから二人がキレて、今は月に一度の遣り取りになっているが。
娘を持つ親の身としては、気持ちは判る。
話を戻して。
揚州は孫堅が、豫州は曹嵩が治めている。
兌州は自分達が、徐州も曹家の縁者が治めている。
はっきり言って、簡単に入り込める場所ではない。
其処に居た──否、用意していた連中を?
「それを何処の誰が遣ったのかは?」
韓浩が真面目な顔で訊ねるが──曹仁は首を横に振る。
「マジでかぁ……」と思わず言いたくなる韓浩。
言わない代わりに頭を抱えたが。
そうなるのも仕方が無い事だろう。
個人だろうが、集団だろうが、戦闘になったのであれば、その痕跡は残っている筈だ。
当然、曹仁達が調べさせない筈が無い。
しかし、何の手掛かりも得られなかった。
つまりは、そういう事だ。
「……三家以外に使えるのって何処だっけ?」
「少なくとも、此方等では確認されてはいないな」
「──となると、新勢力か……」
戦闘によるものでなければ、事故や毒殺等となる。
しかし、そうではないと曹仁の態度が物語っている。
その為、自然と考えるべき方向性は一つに絞られる。
戦闘の痕跡を残さずに、となると方法は限られる。
その筆頭が、氣によるものだ。
──が、氣の技術は秘技や仙術と称される類いの物。
一般的には周知はされてはいない。
曹家──曹皓達が鍛え、組織化した氣を用いた医療技術も既存の薬術等が通じない場合の奥の手として。
基本的には、氣に頼らない方向での研究・研鑽が主体。
何故なら、氣に依存した医療は危うい為だ。
その事を誰よりも曹皓が提唱し、指導している。
故に、その技術が流出した可能性は無い。
──と言うか、抑の話として、扱える者が少ないのだから流出のしようも無いと言える。
しかし、だからこそ、その話は面倒事の予感しかしない。
「現場に残留している痕跡は?」
「全く無かったそうだ
思春が現地に行って確認したのだから間違い無い」
「相当な腕前か……或いは、別の何か、か……」
そう韓浩が呟けば、夏侯淵も曹仁も目を細める。
軽く殺気が出てしまうのも仕方が無い。
その心当たりが有り──仇敵なのだから。
ただ、この場でどうこうなる話ではない。
だから、韓浩は自分も含め、その殺気を散らす様に大きく態とらしい溜め息を吐く。
「本当、楽をさせてはくれないよなぁ……」
そう言って、二人に向けて苦笑する。
同時に、声が聴こえた様に思う。
「あら、この程度で根を上げるのかしら?」と。
「楽な人生に意味が有るのかな?」と。
厳しくも優しい、叱咤する声が。




