第9話 監督の仕事は、全部をすることではありません
初公演まで、あと三日。
私は、三つの仕事を同時に間違えた。
小道具の靴を塗りながら、衣装の釦を選び、検査官へ出す書類を読み返していた。
靴へ釦を落とし、乾いていない塗料を袖につけ、書類の端へ赤い指の跡を押した。
大事故ではない。
けれど、三つとも、終わらなかった。
午後には、さらに問題が出た。
私が舞台の見栄えを良くしようと追加した布が、出入りのたびに役者の肩へ引っかかる。
ガロさんに吊り位置の変更を頼むと、彼は手を止めた。
「今日の予定は、出口の戸の調整だ」
「そちらが終わってからで」
「終わるのは夕方だ。布を全部掛け直せば、夜になる」
私は、口を閉じた。
夜にやればいい。
自分だけは残れる。
そう考える癖が、前の人生から残っていた。
けれど私が残れば、ガロさんも、灯りを点けるトビ君も残る。
私が増やした作業は、私の手だけでは片づかなかった。
「布は外します」
言ってから、喉が詰まった。
せっかく綺麗な布を選んだ。
もう少しで、私の頭の中にある舞台へ近づくはずだった。
「本当にいいのか」
「はい。出入りと、明日の検査が先です」
ガロさんは、頷いて戸口へ向かった。
責められるより、少しだけ痛かった。
夕方、公爵が私の机を見た。
塗料のついた紙と、釦の散った皿。冷めたままの昼のスープ。
「今日は、帰る予定はあるか」
「もう少ししたら」
「いつまで」
答えが出なかった。
彼は椅子へ座り、私が作った予定表を見た。
「全部、あなたの名前だ」
「手の空いている人がいなくて」
「エダは、切符の販売を終えた。台本の整理を頼める。衣装の釦は、ミナが選べないか」
私は反射的に、女優さんの仕事ではないと答えかけた。
その前に、ミナさんが袖から顔を出した。
「釦、選びたいです。私が着る服なので」
エダさんも、販売記録を持ってきた。
「検査の紙でしたら、字を読むくらいはできますよ」
頼まなかったから、知らなかった。
彼らができることも、してみたいことも。
私は、予定表を引き寄せた。
一つずつ、名前を書き替える。
自分がやりたい仕事と、自分でなければできない仕事を、初めて分けた。
「明日の検査の立ち会いと、最後の通し稽古は、私がします。布は使いません。残った塗り直しは――」
「俺が塗る。王子は、舞台の外じゃ暇だ」
ハルさんが、刷毛を手にした。
その夜、予定どおりに灯りを消した。
全員が帰ったあと、公爵と扉を閉める。
彼は私の歩幅に合わせ、ゆっくり道を歩いた。
「できると思っていたんです」
私は言った。
「こういう仕事は、知っているから。みんなを集めたのも私で、失敗したら私の責任で」
「責任を持つことと、眠らないことは、同じか」
顔を上げる。
彼は、叱る顔をしていなかった。
「あなたが明日、台詞を聞けなければ、稽古は止まる」
私は頷いた。
自分が休む理由を、やっと仕事の中へ置けた。
翌日の検査は、出口の戸も、客席も、舞台も通った。
最大八十人。立見は禁止。
許可証を貼ったとき、トビ君が一歩下がって両手を握った。
「本当に、お客さんを入れられる」
初日の切符は、六十六枚売れていた。
私は全員へ伝え、残り十四席と黒板へ書く。
この数字の向こうに、六十六人の予定がある。
明後日の夕方、ここへ来るための予定が。
今夜は、眠ろう。
彼らが入ってくる足音を、明日も、明後日も、ちゃんと聞けるように。




