第10話 八年ぶりの、開演です
最初のお客様は、市場で靴の話を聞いた老婦人だった。
「早すぎたかね」
「どうぞ。お好きな席へ」
エダさんが半券を切った。
小さな音に、私は袖で背筋を伸ばした。
そのあと、入口の扉は何度も開いた。
夫婦。若い職人。友人同士の娘たち。
最初にチラシを断った仕立屋の主人も、一人で来た。
六十六人。
前から三列は埋まり、最後列にも、間を空けて人が座っている。
公爵は執事と一緒に、中ほどの席へいた。
入口から近い席を、自分で選んだらしい。
私が袖から顔を出すと、彼が一度だけ頷いた。
トビ君の指先が震えていた。
私は予定を書いた紙を、彼の灯石の横へ置く。
「二場で橙色。靴を脱いだら、一つ目の星。合図は私が出します」
「はい」
「途中でわからなくなったら、私を見て」
ミナさんは、胸へ手を当てて息を吐いた。
ハルさんが、その手の横へ小道具の靴を見せる。
「まだ俺の足を、嫌ってない」
彼女は、笑った。
私は右手を上げた。
エダさんが客席の灯石を落とす。
トビ君の光が、舞台へ入った。
「開演」
口にした言葉は、客には聞こえない。
けれど、言わずにいられなかった。
最初の笑い声は、王子が椅子へ座り損ねた場面で起きた。
ハルさんは、稽古より少し長く間を取った。
笑い声が収まってから、次の台詞を言う。
劇場は、役者だけでは完成しない。
客が息を吐き、笑い、黙る。
その時間が加わって、舞台の速さが変わる。
二場の終わりに、小さな失敗が起きた。
王子の靴が、一つ、机の下へ転がったのだ。
置く場所を、稽古より少し奥へ変えたせいだった。
ミナさんは机の前へ膝をついた。
「靴まで、お逃げになったんですね」
笑いが起きた。
彼女は靴を拾い、王子の手へ返す。
私が鉛筆で印をつける間に、物語は進んでいた。
明日は置き場所を直す。
今は、止めなくていい。
終幕の星が、舞台へ一つずつ点く。
灯石の光を小さな鏡へ当て、磨き直した星飾りへ返す。
大きな術式の星空には、遠く及ばない。
それでも靴屋の窓へ、静かな光が落ちた。
「お城に、来てくれないだろうか」
王子が尋ねる。
ミナさんは、完成した靴を見た。
それから、客席の後ろにいる誰かへ見せるように、顔を上げる。
「明日の朝も、この店を開けたいの」
誰も、笑わなかった。
彼女の返事を、聞いてくれていた。
王子が新しい靴を履く。
二人は、日曜日の橋で会う約束をする。
最後の光を落とすと、客席で椅子の音がした。
それから、手を叩く音が。
最初は小さく、次には隣の人が加わり、劇場の後ろまで広がっていく。
私は合図を出して、舞台の灯りを戻した。
ミナさんとハルさんが並び、頭を下げる。
二人が顔を上げたとき、拍手はまだ続いていた。
私の右手も、震えていた。
終演後、公爵は客が出ていくまで待っていた。
執事は、出口で次の公演の切符を二枚買っている。
「楽しんでいただけましたか」
仕事の声で尋ねるつもりだった。
けれど、途中から声が掠れた。
「橋で、会ってほしくなった」
公爵はそう言った。
「続きがなくても、あの二人は会うと思えた」
私は何度か頷き、何も言えなかった。
出来事の説明でも、建物への賛辞でもない。
物語を、持って帰ってくれる。
帰り際、仕立屋の主人が帽子を取った。
「次のチラシは、うちへ持ってきてください」
私はやっと、返事をした。
三日目、八十席が埋まった。
エダさんが黒板を裏返し、朝から用意していた文字を入口へ出す。
満員御礼。
八年間閉じていた扉の前で、私はその五文字を、しばらく見ていた。




