第6話 かしこまりました、以外の言葉
ミナさんは、誰かが客席へ入るたびに声を大きくした。
最初は、親切なのだと思った。
遠くからでも聞こえるように、しっかり発音しているのだと。
けれどガロさんが道具を取りに来たときも、エダさんが茶を置いたときも、彼女の肩は上がった。
言葉の終わりを、一つずつ強く押す。
靴屋のルチアが、客を呼び込む競売人のようになってしまう。
「いったん止めます」
私は台本を閉じた。
「客席の後ろへ、来てもらえますか」
ミナさんを最後列へ座らせ、ハルさんに舞台で喋ってもらった。
ごく普通の声だ。
「靴紐が、ほどけている」
ミナさんは、耳を澄ませるように顔を上げた。
ガロさんの金槌の音は、今は止めてもらっている。
声はちゃんと、届いていた。
「この劇場では、これくらいで聞こえます」
「でも、弱いと……」
言いかけて、彼女は唇を噛んだ。
私は隣の席へ座る。
「白鳥座で、何か言われましたか」
「声が小さい。顔が地味。貴族のお客様が寝たら、おまえのせいだって」
膝の上の指が、台本を握り締めた。
「目立たないと、次は台詞も貰えなくなります。だから、一行だけでも、ちゃんと聞かせたくて」
三年間の『かしこまりました』が、舞台の上で彼女を追ってくる。
私は、励ましの言葉を探した。
あなたは主役に向いている。自信を持ってほしい。
それを言うだけなら、簡単だ。
けれど明日、また誰かが客席へ座ったら、彼女は声を張るだろう。
「今から、一場だけ、客席に人を入れましょう」
ガロさんとエダさん、トビ君に席を分けて座ってもらった。
私も最後列に残る。
ミナさんには、最初の場面だけ演じてもらった。
ハルさんが歩いて来る。
彼女が靴を見る。
その足へ、触れていいか尋ねる。
一場が終わってから、全員に聞いた。
「聞こえなかった言葉は?」
「なし」
「何が起きたかわからないところは?」
「王子が足を隠そうとした理由は、次でわかるのかい」
エダさんの質問に、ハルさんが次の台本を開いた。
王子は、靴底に縫い込まれた王家の印を見せたくない。
その印が、二場で見つかる。
ミナさんは、舞台で一度頷いた。
聞こえたという返事だけでなく、物語を聞いてもらえたことが、少しずつ身体へ入っていく。
一場ずつ進めたので、その日の予定は半分しか終わらなかった。
そのかわり、最後の一場で、彼女の声は柔らかくなった。
「王子様も、足に豆ができるんですね」
ガロさんが、ふっと笑った。
ミナさんは、笑わせようとしたわけではない。
相手を見て、思ったことを言っただけだ。
私は黒板へ、翌日の予定を書いた。
残った稽古を深夜へ押し込むかわりに、衣装合わせを一日ずらす。
「監督、私のせいで遅くなって」
「ここを飛ばしても、あとで戻ることになります。今、できてよかったです」
ミナさんは、まだ少し申し訳なさそうだった。
だから私は、台本の余白を見せた。
今日、書き込んだ注意のほとんどは、彼女の声のことではない。
私が入れすぎた動作と、言いにくい台詞だった。
「私にも、宿題があります」
彼女が初めて、私の文字を覗き込んだ。
その晩、舞台の端に残された靴を拾った。
中に、小さな紙が入っている。
『靴屋の台詞を、ありがとうございました。ミナ』
私はそれを、机の引き出しへ入れた。
前世でも何度か、こういう紙を貰った。
財布に入れたまま擦り切れたものもある。
今度は、なくさないようにしよう。
まだ、次の公演が始まってもいないのだから。




