第5話 王子様、それでは靴屋が閉店します
「お断りします」
ミナさんが、台本を持ったまま言った。
稽古場が静かになる。
最初の通し稽古は、終幕の一歩手前で止まった。
王子が身分を明かし、靴屋のルチアを城へ迎える場面だ。
ハルさんは片膝をついたまま、困った顔で私を見た。
「台詞が違うと思うんだけど」
「ごめんなさい。言えなくて」
ミナさんは、台本の端を折りかけ、指を開いた。
「王子様を、嫌いなんじゃないんです。でも、靴屋をどうしたらいいのか、わからない」
私は最後の三頁を読んだ。
ルチアは町で靴を直している。
父の店を継ぎ、初めて自分が作った靴を王子に履かせる。
そして王子に求婚され、幸福そうに笑って城へ行く。
靴屋のことは、そのあと一度も書いていない。
「侍女を雇って、店を見てもらうとか?」
ハルさんが提案した。
「靴を直せる侍女が、急に出てきますか」
「じゃあ城に店を作る」
「町のおじいさん、歩いて来られないですよ。昨日の場面で、階段も大変だって言いました」
二人の会話を聞きながら、私は鉛筆を置いた。
物語をうまく終わらせようとしていた。
王子が彼女を選べば、誰もが幸福だとわかる。
そのわかりやすさへ、私が先に座ってしまったのだ。
ルチアが何を選ぶのかを、書かずに。
「十分、休憩しましょう」
私は皆に言った。
今度は、私の書き直しを待ってもらう時間だ。
舞台の端に座っていると、エダさんが古い靴を持ってきた。
小道具用に近所から貰ったものだ。踵には何度も直した跡がある。
「わたしの主人の靴も、こんなでした」
「ご主人は、こちらの役者さんだったのですか」
「いいえ。配達人です。芝居のことは、さっぱり。それでも初日の晩は、迎えに来てくれました」
彼女は靴を舞台へ置いた。
「忙しい日には、話さなくても平気でした。帰る家が同じなら、あとで話せますからね」
私は手帳を開いた。
王子は、城へ帰る。
靴屋は、店を開ける。
国の仕事も、町の仕事も、明日にはある。
それでも、会いたければ。
休憩を終えた二人へ、新しい台詞を渡した。
「次の日曜、橋のたもとで待っています」
ハルさんが、王子の声で読む。
「王子様が、町の橋で?」
「靴を汚すことには、慣れました」
ミナさんが笑った。
最初の稽古で見せた、足を痛めた人を迎える笑顔だった。
彼女が選んだものを、王子も大切にする。
結婚を最後の一言にするより、この二人らしい気がした。
その夜、公爵が見積もりの確認に立ち寄った。
借りた灯石の保証金を、使用料へ二重に数えていないか、私が相談していたのだ。
「脚本が変わった」
机の端に置いた紙を見て、彼が言った。
「はい。王子に連れていかれる結末を、直しました」
「気に入らなかった?」
「役者が、納得していなかったんです。聞いたら、私も」
公爵は新しい最後の頁を読んだ。
指が、一つの台詞で止まる。
「靴を、汚すことには慣れた」
「店へ来るたびに、王子が道に迷うので」
私は途中の喜劇の場面を説明した。
彼は真剣に聞いていたが、最後に小さく息を漏らした。
今度は、わかった。
笑っている。
「日曜に会うのは、いい」
その言い方があまりに静かで、私は返事を忘れた。
公爵は書類をまとめ、立ち上がる。
「三日後なら、仕入れの相場を確認できる」
「お仕事を増やしてしまって、すみません」
「引き受けたのは、私だ」
扉のところで、彼はもう一度振り返った。
「終幕を、見てもいいか」
「明日の稽古ですか?」
「公演で」
私は頷いた。
まだ稽古でしか存在しない日曜日の橋が、急に、本当にどこかにある気がした。




