第2話 三十六枚の金貨で、幕を開ける
父は、劇場の図面を逆さにして見ていた。
「この八十個の四角は、畑か?」
「椅子です」
「椅子を育てるのか」
「お客様に座っていただきます」
冗談だとわかっていても、笑えてしまう。
帰宅してから初めて、肩の力が抜けた。
父は地方で小さな領地を治めている。母が亡くなってからは、私の刺繍を褒めるために、模様が何に見えるかを毎回真剣に考える人だった。
子爵家の懐は豊かではない。劇場の改修に家の金を使えば、冬の橋を直せなくなる。
「あの伯爵家の息子とは、本当に終わったのだね」
「はい」
「それなら、こちらは安心した」
父は図面を置いた。
「ただ、劇場を受け取ったことと、経営することは別だ。途中で売っても、おまえが負けたことにはならない」
私は、その言葉を小さな手帳に書き留めた。
舞台を好きすぎる人間には、ときどき退路が必要だ。
前の人生で、よく知っている。
それからの五日間、私は舞台へ上がらなかった。
書記官に所有記録を調べてもらい、大工と灯石の技師に建物を見せ、劇場を監督する役所へ通った。
土地と建物に担保はない。
閉館前の借金も、ライズ伯爵家が返済済みだった。
現当主の伯爵は息子の提案を承認し、正式な財産協議書に自ら署名した。
これで婚約解消に伴う金銭の請求は終わる。鍵を渡すだけの口約束にはしなかった。
そのかわり、公演の許可は失効している。
客を入れる前に、再検査を受けなければならない。
「屋根で金貨十枚。舞台の補修と吊り物の撤去は、こちらの四枚の見積もりに入ってます」
大工のガロさんが、梁を拳で叩いた。
五十二歳。大きな手には、爪の間まで木の粉がついている。
「古い吊り綱は全部捨てます。床は部分張り替え。見栄えをよくする金があるなら、先に裏口を直してください」
「同感です」
握手すると、ガロさんは眉を上げた。
「嬢ちゃん、俺の仕事を知ってるのか」
「舞台の下へ潜るのは苦手なので、頼りにしています」
「苦手なところを言えるなら、話は早いな」
私の蓄えは金貨三十六枚だった。
母の遺産と、数年間の刺繍の売上。家を出るときのために、少しずつ貯めてきた金だ。
屋根で十枚。
一か月分の人件費を十二枚。
布と小道具で三枚。
灯石の借用に二枚、検査に二枚。
大工の作業を含む残りの費用に四枚。
全部合わせて三十三枚。
手元には、三枚しか残らない。
数え直しても、金貨は増えなかった。
舞台監督の経験はある。けれど私は、大工でも、魔法の専門家でも、経営の天才でもない。
初公演に客が来なければ、翌月の給料を払えない。
エダさんが、湯の入った杯を持ってきた。
「芝居をするなら、昔の台本がございますよ。王様が三人出る、立派なお話で」
「役者さんは何人ですか?」
「二十六人」
私は杯を持ったまま固まった。
「王様を、一人に減らしましょう」
「それでも二十四人ですね」
二人で笑った。
笑ったあとで、エダさんが目を伏せる。
「八年も閉まっていた場所です。来てくださるでしょうか」
私は、客席の後ろから舞台を見た。
ここなら、大きな声を張り続けなくても、言葉が届く。
王様を二十人並べなくても、一人が好きな人へ靴を返すだけで、芝居になる。
「大きな劇場と、同じものを作ろうとしません」
手帳に、題名を書いた。
『靴屋と星の王子』。
見知らぬ靴屋に立ち寄った王子が、自分で歩くための靴を手に入れるお話。
役者は、まず二人。
残りの世界は、ここにいる人たちと考える。
「エダさん。受付と台本の整理を、お願いできますか」
「わたしでよろしければ」
「お給料は、この額です。足りない仕事が増えたら、先に相談しましょう」
彼女は紙を受け取り、端を何度か撫でた。
「……支度を、してまいります」
閉館した劇場に、最初の従業員が戻った。
私は黒板を買いに出かけた。
最初に書くのは、開演時刻ではない。
募集する仕事と、その報酬だった。




