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第1話 慰謝料は、雨漏りする劇場でした

「君には、こちらの物件を譲ろう」


婚約を解消するという男が差し出した鍵には、蜘蛛の巣がついていた。


鍵にまで巣を張るとは、たいへん勤勉な蜘蛛である。三年間の婚約中、私の誕生日を三回とも忘れたセドリック様に、爪の垢を煎じて差し上げたい。


もちろん、そんなことは言わなかった。

私は子爵家の娘で、彼は伯爵家の跡取りだ。今日の財産協議を無事に終えれば、それぞれ別の人生へ進める。最後に喧嘩をしても、鍵はきれいにならない。


「星灯座。八年前に閉館した、わが家の劇場だ。土地も建物も君のものになる。売れば金にはなるだろう」


彼の隣に立つロゼッタ様が、窓の割れた建物を見上げた。


「まあ……お化け屋敷みたい」

「リディアには、これくらいがお似合いさ」


笑い声が、春の風へ飛んでいく。


彼が別の女性を愛していることは、半年も前から知っていた。

婚約を続けるつもりもなかった。父同士が決めた縁ではあるけれど、私はこれからの何十年かを、我慢の上手さを競って暮らしたくはない。


それでも、最後の最後に渡されたのが廃劇場とは。


――困った。


口元が、緩んでしまう。


重い扉を開けた瞬間、埃と古い木の匂いがした。

客席は八十。後ろの席から舞台まで、歩いて十秒もかからない。天井には錆びた星飾りがあり、舞台の奥へ細い通路が続いていた。


袖がある。

役者が客席から見えないまま、出入りできる場所が。


私は手袋を外し、舞台の端へ触れた。

木は傷んでいるけれど、まだ、手のひらへ音を返す。


前の人生でも、こういう床に膝をついていた。


私は、舞台監督だった。

役者が言葉を発し、照明が変わり、音が鳴る。その幾十もの約束を舞台の裏で揃える仕事。

大きな劇場に縁はなく、小さな劇団の公演を、足りない予算と余りすぎる夢で作っていた。


三十二歳で交通事故に遭い、こちらの世界では八歳のときに記憶が戻った。

二十五歳になった今まで、前世の話をしたことはない。幼い娘が舞台の寸法を測りたがるのを、両親は少し変わった遊びとして受け入れてくれた。


また、仕事ができるのだろうか。


「ご覧のとおりです」


奥から出てきた白髪の女性が、箒を壁へ立てかけた。


「管理を任されているエダと申します。雨の次の日だけ、水を捨てに来ておりますが――」

「止まってください」


自分でも驚くほど、低い声が出た。


エダさんが、片足を上げたまま固まる。

その頭上で、舞台へ渡した横木がわずかに揺れていた。

片側の吊り綱が、擦り切れている。


「そのまま。右の壁へ、三歩だけ。上は見ないで」


ゆっくり、一歩。

二歩。


セドリック様が笑った。


「大げさな。古い建物だから多少は――」

「舞台へ上がらないで!」


私の声に被さって、綱が切れた。


重い横木が片側から落ち、舞台へ突き刺さる。

埃が白く噴いた。

ロゼッタ様の悲鳴を聞きながら、私はエダさんの腕を取って客席へ下がった。


胸の奥で、遅れて心臓が跳ねる。

誰の頭にも、落ちなかった。


「ここは、今日から立入禁止です」

「君はまだ持ち主じゃないぞ」

「ええ。ですから、持ち主の代理として来たあなたにお願いしています。今、誰かが怪我をしたら、困るでしょう」


セドリック様は、舞台に空いた穴を見た。

それから、少しだけ声を落とした。


「……こんな建物、受け取らないということか」


私は首を横に振った。


「権利関係と修理費を調べます。借金や担保がなく、私の予算で直せるなら、いただきます」

「本気か?」

「本気です」


彼が、わけのわからないものを見る目をした。

三年間で、いちばん興味を持たれた瞬間かもしれない。


エダさんは、私の手首を握っていた。

皺のある指が、少し震えている。


「お嬢様。まさか、また芝居を?」


答える前に、私は客席を見渡した。

埃を被った八十の椅子。

誰もいないのに、扉を開けて入ってくる人の足音が聞こえる気がした。


「できるかどうか、まず調べましょう」


そう言って、蜘蛛の巣のついた鍵を受け取った。


その日、婚約者を失った。

そして、舞台を見つけた。

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