第16話 前の人生の話を、少しだけ
日曜日、私たちは城壁の外まで歩いた。
丘の上から見る王都は、屋根の色が一つずつ違う。
劇場を探そうとしても、小さすぎて見つからなかった。
「あの屋根では」
ルーカス様が遠くを指す。
私は目を細めた。
「違います。うちの屋根は、ついこの前、直したばかりなので」
「全部、直した屋根に見える」
確かに、そのとおりだった。
私は笑い、丘の石垣へ腰を下ろした。
朝、父へ手紙を書いた。
劇場が続けられていること。演劇祭へ出ること。
親しくしている人がいること。
最後の一文だけ、何度も書き直した。
名前を入れたら、父が爵位を見て心配するだろう。
入れなければ、もっと心配するだろう。
結局、名前も書いた。
私に起きたことを、父に知っていてほしかった。
「ルーカス様には、話していないことがあります」
彼が、私の隣へ座った。
「劇場のことか」
「はい。でも、今の劇場だけではありません」
私は、自分の手を見た。
小道具の靴を塗った跡は、もうない。
それでも爪の端には、こちらで働いた時間が残っている気がする。
「別の人生の、記憶があるんです」
言葉にすると、風が冷たく感じた。
「この国でも、隣の国でもない場所です。魔法はなくて、代わりに、別の仕組みで灯りを作ります。私はそこで、劇場の仕事をしていました」
ルーカス様は、途中で遮らなかった。
私は八歳で思い出したことと、前の人生では三十二歳だったことを話した。
事故の細かいことは言わなかった。
最後の記憶は、今も、一枚の絵のように途切れている。
「なので、初めてなのに、舞台の仕事を知っていました。ただ、こちらの灯石はわかりませんでした。経営も、わからないことばかりで」
話し終えると、彼は少し考えた。
「それで、立入禁止と言えたのか」
「あの横木のことを、聞いたんですか」
「エダから。あなたが鍵を受け取った日のことを」
彼は、私の手へ視線を落とした。
「覚えていることが、あなたを助けたのだな」
「……そう思います」
それだけで済む返事が、嬉しかった。
証明を求められるのでも、あらゆる知識を引き出されるのでもない。
「前の人生では、仕事が終わると、次の仕事を考えていました」
私は続けた。
「好きだったので。最後まで稽古場に残るのが、悪いことだと思わなかったんです。今も、そうなりかけました」
「予定表が全部、あなたの名前だった日」
「はい」
丘の下で、小さな子供が走っていた。
母親が名前を呼び、子供が振り返る。
「今度は、帰る予定も作りたいです。会う予定も」
ルーカス様の手が、石垣の上に置かれていた。
私は自分の手を、その隣へ置いた。
指の間に、掌一枚分の距離がある。
「私も、あなたに会う予定を作る」
彼が言った。
「領地へ戻っている間は、手紙を書く。戻ったら、劇場の外でも」
「長い手紙を書かれますか?」
「短いと思う」
私は笑った。
知っている人の返事だった。
彼の指が、私の指へ触れた。
すぐには握らない。
私は少し手を動かし、彼の掌へ自分の掌を重ねた。
帰り道は、手を繋いで歩いた。
街へ入る前に離すと、指が少し冷える。
「祭りが終わったら、もう一つ、話したいことがあります」
私は言った。
彼は、私を見て頷く。
「私も」
まだ言葉にならないものが、今度は怖くなかった。
先の予定に、置けたから。
劇場へ戻ると、ミナさんとロゼッタさんが並んで台詞を読んでいた。
出番がないときも、代役の稽古は続いている。
私は二人の横へ椅子を運び、鉛筆を出した。
新しい人生には、まだ、知らない場面がたくさんあった。




