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第15話 公爵が、客席へ下がった理由

公爵の訪問が、短くなった。


帳簿を見て、仕入れ先の返事を伝え、稽古が始まる前に帰る。

声をかけると立ち止まってくれる。

けれど用が終われば、扉へ向かう。


領地の仕事が忙しいのだろうと、私は思った。

実際、祭りのあとには半月ほど領地へ戻る予定だと聞いていた。


でも、一度だけ、帰ろうとする背中へ、私は尋ねた。


「今度の日曜日も、お忙しいですか」


彼は、振り返った。


「あなたが、忙しいのでは」

「稽古は、ありません」


そこで、会話が止まった。

仕事の予定なら、こんなところで止まらない。

何時に来る、何を確認する、それだけで決まる。


私は彼の上着の袖を見た。

糸くずが一つついている。

劇場の布の、青い糸だった。


「ルーカス様」


いつもは、公爵閣下と呼ぶ。

初めて名前を口にすると、彼の目が少し開いた。


「私が、何かしましたか」

「いいや」

「でしたら、尋ねてもいいでしょうか。最近、お帰りになるのが早いのは、なぜですか」


彼は扉から手を離した。

私たちは、誰もいない客席へ座った。


舞台ではエダさんが台本を揃えている。

私たちのほうへは来なかった。


「母は、父と結婚して舞台を離れた」


ルーカス様が、しばらくして言った。


「私は、父が奪ったのだと思っていた。子供のころは」

「お母様は、そうおっしゃったのですか」

「いいや。自分で選んだと。舞台が嫌いになったのではない。別の暮らしが欲しくなったのだと」


彼は指を組んだ。


「父が間違ったのではないと、今はわかる。ただ、母のように、誰かが私と暮らすために、何かを手放すことが――」


言葉が切れた。

私は彼の顔を見た。


それは、仕事仲間へする話ではなかった。

私の心臓が、椅子の背に伝わるほど強く跳ねる。


「劇場へ来るのが、よくないと思われたんですか」

「あなたの仕事を見たい。だが、近くに居続ければ、自分の希望も増える」


私は舞台を見た。

灯石は消えている。

暗い窓の枠と、小さな靴屋の机だけがあった。


「何を手放すかは、私が決めます」


言うと、彼は顔を上げた。


「今の私は、劇場を続けたいです。そのために、誰とも暮らせないとは、まだ決めていません」


声が震えそうになったので、一度息を吸った。


「私の代わりに、難しいと決めて、遠くへ行かれると困ります」


彼の指が、ほどけた。


「……すまなかった」


謝罪のあとに、説明を足さなかった。

私の言葉が、届いたのだと思えた。


「日曜日、何時なら会える」

「朝の鐘が、三つ鳴るころ」

「橋で?」

「今度は、もう少し遠くまで歩きたいです」


彼は頷いた。


席を立ったとき、私は袖の糸くずを指した。

取ってもいいですか、と尋ねると、彼は腕を差し出す。


細い青い糸を、摘まんだ。

指が、上着越しに彼の腕へ触れる。


それだけのことを、二人とも黙って見ていた。


ルーカス様が帰ったあと、エダさんは台本を抱えて下りてきた。


「今の、終幕に足したいくらいですね」

「聞いていたんですか」

「年を取ると、耳だけ都合よく悪くはなりませんよ」


私は頬へ手を当てた。

彼女は、追い打ちをかけるように笑った。


「橋で待ってくださる人がいるうちに、お行きなさい」


私は、その日曜日へ予定を入れた。

仕事の余った時間ではなく、先に空けておく時間として。

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