第12話 買い戻したい、という元婚約者
セドリック様は、初公演から十日後に来た。
私は最初、観劇の予約かと思った。
それくらい、劇場へ来る人を自然に迎えるようになっていた。
けれど彼は、切符売場を通り過ぎ、私の机へ手袋を置いた。
「ずいぶん盛況らしいね」
「ありがとうございます」
「礼を言われても困る。君に、好条件の話を持ってきたんだ」
彼は、薄い書類を広げた。
劇場の買戻しの申し入れだった。
改修に使った額より、多くの金を払う。
劇場はライズ家の名義へ戻す。
私はしばらく、公演の世話役として働いてもいい。
「伯爵家の後ろ盾があれば、今より大きくできる。君に経営の責任は重いだろう」
窓の向こうでは、ミナさんが衣装を干していた。
ハルさんは、近所の子供へ靴の脱げる手品を見せている。
私の机には、次の公演の予約があった。
「売る予定はありません」
父は、売っても負けではないと言った。
だからこそ、売らないのも私が選んでよかった。
「意地を張らなくてもいい。婚約を解消したからって、仕事まで断ることは――」
「仕事の話として、お断りしています」
彼は、私を見た。
三年前、私が好きなことを尋ねたときと同じ、少し面倒そうな顔だった。
「エインズ公爵が金を出しているんだろう」
「お客様として、銀貨四枚をいただきました」
「そういう意味じゃない」
私は返事をしなかった。
帳簿を見せれば、彼は納得するだろうか。
いや、たぶん次の説明を求める。
公爵の用事や、休日に何を話したかまで。
その説明をする必要は、もうなかった。
「所有権の移転は終わっています。あなたのお父様にも、確認していただいています。今後のご用件は、手紙でお願いします」
セドリック様は、書類を丸めかけ、止めた。
「ロゼッタが、この劇場を見たいと言っている」
「切符を買ってくだされば、どなたでも観劇できます」
「彼女は、舞台に立ちたいんだ」
私は、伯爵家の広間を思い出した。
破れかけた幕の下で、若い娘が歌の練習をしていた。
声は、とても良かった。
ただ、私が危険を伝えたとき、彼女は顔を赤くして黙ってしまった。
「本当にそうお望みなら、ご本人から、仕事の相談をいただきたいです」
彼の顔に、苛立ちが浮かんだ。
「君は、まだ彼女に意地悪をするつもりか」
「意地悪は、していません。出演を希望する人には、全員に同じ話をしています」
彼は立ち上がった。
机へ置いた手袋を掴み、出口へ向かう。
「祭りに出るそうだね。白鳥座と競って、同じことが言えるか見ものだ」
扉が閉まった。
私はその音を聞き、しばらく机に座っていた。
同じように断っても、今までは最後に、彼の機嫌を直していた。
次に会う日を確認し、嫌われていないか考えた。
今日は、何も追わなかった。
エダさんが、お茶を持ってきた。
「悪いお話でしたか」
「劇場を、買いたいと」
「売るんですか」
「いいえ」
彼女は、ほっと息をついた。
それから、私の机の予約帳を開く。
「でしたら、明後日の二席をお取りしていいですね。新婚のご夫婦だそうですよ」
私は頷き、席へ印をつけた。
仕事は、まだ続いていた。
そのことが、今日いちばんの慰めになった。




