第42話 もう、何も見えない。でも我武者羅に。
黒い稲妻が、こちらへ突っ込んできた。
レンが、それを認識したのは一瞬だった。
赤い霧の中を折れ曲がりながら走る黒い影。
翼。
推進。
軌道は滅茶苦茶。
だが、速度だけは馬鹿みたいに速い。
「まずい、避けろ!」
叫ぶより早く、レンはツバキの肩を抱えて横へ跳んだ。
直後。
黒い影が、四人のいた場所を突き抜けた。
爆裂音。
地面が割れ、コンクリート片が跳ね上がる。
壁際の鉄骨がひしゃげ、瓦礫が雨のように降り注いだ。
歌留多が瓦礫の上へ軽く着地し、両腕を振り上げる。
「ばかやろー! どこ見て運転してんだーっ!」
「ぺっ、ぺっ……!」
レンは口の中に入った砂を吐き出した。
「砂が口に入った!」
鷹宮は最小限の動きで破片を避け、拳銃を構えたまま、砕けた壁の方を睨む。
砂埃の向こうで、何かが動いた。
瓦礫が崩れる。
その中から、恭介が立ち上がった。
「おー、いたのかお前ら!」
軽い声。
だが、姿はひどかった。
服の端は焦げ、ところどころ裂けている。
腕や頬には火傷の跡。
皮膚の表面から、薄く煙が上がっていた。
背中の黒い翼は、出たり消えたりを繰り返している。
輪郭が安定していない。
何より、目がおかしかった。
瞳孔が開ききっている。
焦点が合っていない。
こちらを見ているようで、見ていない。
視線が、レンたちの少し横を滑っていた。
「わりーな」
恭介は、口元だけで笑う。
「もう何も見えなくてよ!」
「笑って言うことじゃねえだろ!」
レンが叫ぶ。
ツバキも眉をひそめた。
「そんな状態で戦うのは無茶よ。やっぱり、一旦退避しましょう」
「あー」
恭介は首を鳴らす。
その動きすら、少しふらついていた。
「そうも言ってられねーんだな、これがよ」
「何がよ」
ツバキが問い返す。
恭介は、赤い霧の巨人の方へ顔を向けた。
見えてはいない。
だが、分かるのだろう。
その先で、赤い霧の巨人が、巨大な腕を持ち上げている。
その手の中に。
紗希がいた。
赤い霧でできた指のようなものが、彼女の身体を包み込み始めている。
制服の端が焦げていた。
髪が熱風に煽られ、頬が赤く染まっている。
苦痛に、表情が歪む。
それでも、目だけは開いていた。
赤い霧の動きを。
巨人の手の内側を。
自分を包み込むものを。
まだ、見ようとしている。
「あの馬鹿」
恭介が舌打ちした。
「また間近で観察ゴッコとかしてやがるから捕まりやがった!」
「いや、言い方!」
レンが思わず突っ込む。
恭介は聞いていない。
「おかげで、“照らされてる”から少しは見やすいけどよ」
ツバキの顔色が変わった。
「あの霧、高熱なのよ!? 完全に包み込まれたら焼け死んじゃうじゃない!」
「だったら」
歌留多が、瓦礫の上で膝を曲げた。
「霧じゃなくて中身を引っこ抜けばいい」
「ちょっと、雑すぎない!?」
「雑じゃない」
歌留多は笑った。
「速い」
次の瞬間、歌留多の腕が伸びた。
いや、実際に伸びたわけではない。
見えない巨大な手。
〈栄光の手〉。
それが、赤い霧の巨人へ向かって一直線に突っ込んだ。
赤い霧が弾ける。
見えない腕が、巨人の手の中へ入り込む。
歌留多の顔が、露骨に歪んだ。
「っ、熱っつ……!」
だが、引かない。
赤い霧そのものを掴むのではない。
霧の中の、紗希本人を掴む。
「説明しよう! 人体は微細ながらクロを帯びている。その根本は人の恐怖にあるから、だっ!」
歌留多が叫ぶ。
赤い霧の手が震えた。
紗希の身体にまとわりついた赤い霧が、粘るように伸びる。
だが、歌留多の不可視の腕が、それを力任せに引き千切った。
「ゆえに、ほらこの通りっ」
紗希の身体が、赤い霧の中から引き抜かれる。
そのまま、こちらへ引き寄せられた。
「とれた!」
「野菜みたいに言わない!」
ツバキが叫ぶ。
紗希は地面へ落ちる直前、歌留多の見えない手に受け止められた。
そのまま、レンたちの近くへ降ろされる。
「……っ」
紗希は膝をつき、咳き込んだ。
呼吸が浅い。
頬には赤い熱の跡が残っている。
制服の袖は焦げていた。
それでも、顔を上げる。
「……芋掘りみたいなノリなのが気になりましたけど、ありがとうございます。歌留多ちゃん」
恭介が、ふらつきながら笑った。
「ほら見ろ、こいつはこいつで結構頑丈なんだよ」
「ほら見ろじゃねえ。流石に今のは危なかったろ、歌留多の嬢ちゃんよ!」
レンが怒鳴る。
だが、紗希は軽く息を整えながら、恭介を見る。
「先輩も、だいぶひどい顔ですね」
「見えてねえからセーフだ」
「鏡を見る必要がなくてよかったですね」
「うるせえ」
そのやり取りを聞いて、ツバキが呆れたように言った。
「……本当に、一旦退いた方がいいわ」
レンも頷く。
「応援は呼んだ。ツバキの言う通り、ここは避難しよう」
恭介は、赤い霧の巨人を見たまま答える。
「だったら、てめーらで勝手にどっか行け」
「は?」
「俺は行かねえ」
レンの声が荒くなる。
「その状態でかよ!」
「兵器ってのは、戦い続けるもんだ」
恭介は、口元を歪めた。
「そうだろ、紗希」
紗希は、浅く息を吐く。
苦しそうではある。
だが、その目はまだ死んでいない。
「……ええ」
少しだけ、笑った。
「保守点検は、後回しで」
「だとよ」
「だとよ、じゃねえ!」
レンが叫ぶ。
その時、紗希がふと思い出したように顔を上げた。
「あっ、そうだ」
「あ?」
「先輩、遠く行っちゃう前にこれを」
紗希は、制服の懐へ手を入れた。
取り出したのは、小さな布包み。
それを、恭介へ投げる。
恭介は反射的に受け取った。
「なんだこれ」
布を開く。
中にあったのは、黒い石のようなものだった。
指先ほどの大きさ。
石に見える。
だが、表面がわずかに濡れているように光っている。
黒。
ただの黒ではない。
奥の方で、薄く脈打っている。
「……黒い、石?」
「はい」
紗希は平然と言った。
「倉庫で先輩がヒスって破壊した加湿器の中から出てきました」
「ヒスってねえ」
「“もう難しい話やだ!”って暴れました」
「尾鰭を生やそうとすんな」
レンが黒い石を見る。
歌留多も、興味深そうに身を乗り出した。
鷹宮の表情が険しくなる。
「それは……」
紗希は続ける。
「で、多分これがですねぇ――」
その瞬間だった。
赤い霧の巨人が、反応した。
遠くにあった腕が、ぐるりと向きを変える。
熱が集まる。
目がないはずの巨人が、恭介の手の中の黒い石を見たように感じられた。
「……お?」
恭介が間抜けな声を漏らす。
次の瞬間、赤い霧の腕が伸びた。
恭介だけを狙って。
「ぐわぁあああーっ!?」
赤い霧の手が、恭介を掴んだ。
巨大な指のような霧が、彼の身体を締め上げる。
熱が跳ねる。
恭介の服が、また焦げた。
レンが叫ぶ。
「おい!」
紗希は、目を細める。
「やっぱり」
「やっぱりって何さ、紗希ちゃん!」
レンが突っ込む。
紗希は苦しげに息をしながらも、黒い石を見ていた。
「私の“狙われやすい”体質のせいだけじゃなかった」
赤い霧の巨人が、恭介を引き寄せようとする。
恭介は歯を食いしばり、黒い翼を無理やり展開した。
紗希は言う。
「これが、海さんの仕掛けた能力の“命令の核”の一つ」
鷹宮の目が鋭くなる。
「命令核……?」
「おそらく、彼はこれを工場地帯に複数仕掛けていたんです」
紗希は、赤い霧の腕を見る。
「そして、それらは互いに引き寄せ合う性質を持つ。……それこそ恐らくは、合体して大きくなるように」
歌留多が口元を歪めた。
「なるほど?」
レンが、赤い霧に掴まれた恭介を見る。
「じゃあ、今あいつは」
「ええ」
紗希は頷く。
「とても分かりやすい標的になっています」
「標的にすんな!」
恭介の声が、赤い霧の中から響いた。
直後。
黒い翼が弾けた。
赤い霧の手が、内側から破裂するように裂ける。
恭介が、再び吹っ飛ばされた。
また瓦礫へ突っ込む。
爆音。
砂煙。
少し間を置いて、瓦礫の中から恭介が飛び出してきた。
「怪我人になんてことすんだてめー!」
全身から煙を上げながら、怒鳴る。
「……ってか、何で俺になすりつけるんだよそれ!」
紗希は、少しだけイタズラっぽく笑った。
「一つは、先輩のゴキブリ以上の頑丈さ」
「誰がゴキブリだ!」
「二つ目は、先輩が戦いやすくするため」
紗希は、人差し指を立てる。
そして、ほんの少しだけ口元へ当てた。
「そして、三つ目は――」
一拍。
「普段から雑に扱われてるから、その仕返しです」
恭介が、目を見開いた。
焦点は合っていない。
だが、怒っていることだけは分かった。
「お前なあ!」
紗希は、楽しそうに笑っていた。




