第41話 霧と、オキクムシ
夢は、もう誰のものでもなかった。
名前は崩れた。
顔は混ざった。
幸福は、形を失った。
それでも、命令だけは残っている。
熱を探せ。
壊せ。
壊せ。
壊せ。
見たものは、なかったことにしなくていい。
観測したものは、存在したと言っていい。
だから、そこにあるものを消してはいけない。
消えるくらいなら、壊してしまえ。
赤い霧は、その言葉だけを覚えていた。
◆
白い。
だが、さっきまでの白とは違う。
重い。
粘つく。
熱を帯びた空気が、肌にまとわりついて離れない。
建物と建物の隙間。
細い通路を、四人は進んでいた。
先頭を行くのは、歌留多だった。
足取りは軽い。
だが、いつもの無邪気な軽さではない。
警戒している。
見えないものを嗅ぎ分けるように、わずかに顎を上げ、白い霧の奥を睨んでいる。
その後ろで、ツバキの足取りがふいに崩れた。
「……っ」
膝が落ちる。
倒れる寸前、その体をレンが咄嗟に支えた。
「無理すんな」
短く言う。
だが、その声にも余裕はない。
ツバキはレンの腕を借りながら、浅く息を整えた。
「……大丈夫、よ」
「大丈夫な奴の顔じゃねえだろ」
「うるさいわね。支えたなら、最後まで黙って支えなさい」
「へいへい」
軽口で返しながらも、レンは手を離さない。
ツバキの呼吸は、まだ乱れている。
休憩室で白い霧に沈められた影響が、完全には抜けていない。歩けているだけで、ほとんど意地のようなものだった。
鷹宮が端末を確認する。
画面には、ノイズ混じりの反応が浮かんでいた。
「反応は、この先だ」
低く言う。
「だが、さっきよりノイズが増えている」
歌留多が振り返らずに舌打ちした。
「不知火の悪趣味に二度も助けられるとはな」
「助けられてる、って言い方やめてくれる?」
ツバキが不機嫌そうに言う。
「私、それ仕込まれた側なんだけど」
「事実は事実だ」
「なおさら腹立つわね」
レンは端末の反応を横目で見た。
ツバキを見つける時にも使った反応だ。
不知火が仕込んだ発信機。
最悪の趣味の産物が、今だけは道標になっている。
「まあ、使えるもんは使おうぜ」
レンは言う。
「その悪趣味野郎も、まさか死んだあとで人助けに使われるとは思ってねえだろ」
「人助け?」
歌留多が鼻で笑う。
「違うだろ。あいつの悪趣味を、こっちが勝手に踏み台にしてるだけだ」
「言い方」
「正確だろ」
そのまま数歩進む。
霧が、さらに濃くなった。
レンは足を止める。
「……妙だな」
声が低くなる。
白い霧。
だが、流れていない。
通路に漂っているのではなく、そこに溜まっている。
霧というより、空間の一部が白く固まっているみたいだった。
風はない。
だが、それだけでは説明できない。
「流れてねえ」
レンが言う。
「風がないから、じゃない。この霧、そこに居座ってる」
ツバキが、わずかに顔を強張らせた。
「……休憩室のやつと、似てる」
その一言で、空気が変わった。
鷹宮が振り向く。
「ツバキ」
「私を覆ってた霧よ」
ツバキは喉元に手を当てる。
思い出したくない感触を、そこから剥がそうとするみたいに。
「あれも、流れてなかった。逃げようとしても、そこにあるの。海が見ているとか、操作しているとか、そういう感じじゃなかった」
歌留多が目を細める。
「やっぱりな」
「何がだ」
鷹宮が問う。
「これ、海が今操ってる霧じゃない」
歌留多は、白い霧へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。
触れる価値もない、とでも言いたげに。
「置いてある。いや……違うな」
一拍。
「勝手に歩いてる」
レンが顔をしかめた。
「勝手に歩いてる霧、か」
「嫌な言い方をするな」
鷹宮が眉を寄せる。
「嫌なものを見てるんだから仕方ないだろ」
歌留多は悪びれない。
レンは白い霧を睨んだ。
海の能力。
報告上では、霧や水蒸気を羽のように整え、偵察や移動補助に使う程度のものだったはずだ。
少なくとも、こんなものではない。
「海の申告能力は、薄い霧を羽みたいに整えるものだったよな」
レンが言う。
「偵察用。短時間。自分の近く。報告書上は、その程度だった」
鷹宮は唇を噛む。
「そうだ。少なくとも、私が把握していた能力はそれだ」
「なら、これは違う」
レンは断言する。
「場所に残って、人間を襲って、呼吸に入り込む霧じゃない」
ツバキが小さく息を吐く。
「……私が、やられかけたやつね」
「ああ」
レンは頷いた。
「それと、たぶんもう一つ」
言いながら、霧の奥を見る。
旧工業地帯。
白い霧。
蛹のようにされた死体。
虫の噂。
ばらばらだったものが、嫌な形で噛み合う。
「……オキクムシ」
鷹宮が目を細める。
「何だと?」
「旧工業地帯の噂だ」
レンは短く言う。
「白い虫に包まれて、蛹みたいになる。そういう話だった」
歌留多が、白い霧を見る。
「そういや聞いたことがあるような噂だな。……確か、白石が面白がって私とツバキにしてきた覚えがある」
レンは頷く。
「白く見えていたのは、虫じゃない。霧だ」
白い霧が、ゆっくりと揺れた。
流れたのではない。
内側で、何かが身じろぎしたような動きだった。
「負傷者を探して、包み込む。傷口や呼吸から入り込む。結果として、蛹みたいに見える」
ツバキの表情が険しくなる。
「最悪ね」
「ああ。最悪だ」
レンは声を落とす。
「海が全部を操ってたわけじゃない。たぶん、あいつの能力から漏れた霧が、自律して残ってた」
「……自律?」
鷹宮が低く聞き返す。
「勝手に動くってことか」
「まだ仮説だ」
レンはそう前置きする。
「けど、見えてるものとは噛み合う。海はその霧を止めなかった。むしろ、利用した」
鷹宮の拳が、硬く握られる。
「止められた異常を、利用したということか」
「そこまでは断言できねえ」
レンは霧を見たまま答える。
「ただ、あいつが被害者面だけで済む話じゃねえのは確かだ」
歌留多が、小さく笑った。
「なるほど?」
その声は、いつものように軽い。
けれど、目は笑っていない。
「つまり、あいつは怪物を作っただけじゃない。作った怪物が勝手に歩き出したのを、便利だから使ったわけだ」
「言い方は悪いが」
レンは息を吐く。
「だいたい、そういうことだ」
鷹宮が奥歯を噛む。
「海……」
その名を呼ぶ声には、怒りと、悔恨が混ざっていた。
だが、レンは別の違和感も拾っていた。
この規模。
この持続性。
この殺傷性。
能力の暴走、という言葉で済むのか。
(……違うな)
レンは内心で呟く。
(能力が大きくなった、だけじゃ説明できねえ)
何かが混ざっている。
海の能力ではない核。
命令を保持する何か。
能力を外側から押し広げたもの。
「レン」
鷹宮が呼ぶ。
「何か分かったのか」
「分かってねえよ」
レンは即答した。
「ただ、普通のフィアー能力じゃない。少なくとも、俺たちが知ってる海の能力とは別物だ」
白い霧の奥で、空気が変わった。
重い圧。
赤い熱。
低い轟音。
通路の先が、赤く染まり始める。
ツバキが顔を上げた。
「……なに、あれ」
歌留多が前を見る。
その表情に、恐怖はなかった。
あるのは、興味。
そして、戦いの匂いを嗅ぎつけた獣のような鋭さ。
「始まってるな」
短く言う。
レンも、赤い霧の奥を見る。
遠くで、巨大な何かが動いている。
白い霧が赤に押し潰されていく。
轟音。
熱風。
そして、その中を走る黒い影。
レンは息を吐いた。
「ああ」
一拍。
「急ぐぞ」
ツバキが歯を食いしばる。
「言われなくても」
鷹宮が端末を握り直す。
「走れるか」
ツバキは、レンの腕からわずかに体を離した。
まだ足取りは危うい。
だが、目だけは前を向いている。
「走るしかないでしょ」
四人は、赤い圧の方へ駆け出した。




