第40話 魔人、激突
次の瞬間、現実が押し戻された。
空気が膨張する。
押し潰されるように圧が増し、熱が跳ね上がる。
霧が、密度を増していく。
赤い。
ただの蒸気ではない。
粘つき、重く、肌にまとわりつく。
血。
それが、空気そのものになっている。
紗希は息を止めた。
(……濃い)
呼吸すれば、そのまま内側に入り込む。
それでも、目は逸らさない。
観る。
変化の過程を。
赤い霧が渦を巻く。
中心が歪み、膨らみ、また縮む。
その反復の中で、“形”が立ち上がり始める。
恭介が一歩踏み出した。
見えてはいない。
視界は、まだ線に侵されている。輪郭も距離も曖昧だ。
だが、そこにある“圧”だけは分かる。
「……でけえな」
低く呟く。
「見えてるんですか?」
紗希が問う。
「見えてねえよ」
恭介は即答した。
「でけえのは分かる」
「レビューがお上手ですね」
「うるせえ」
その間にも、赤い霧は天井へ伸びていく。
鉄骨が軋む。
壁の上部が、内側から押し広げられるようにひび割れる。
赤い霧が、建物の内部を越え、外へ溢れ出した。
そして――
“それ”は立ち上がった。
巨大な人の形。
だが、輪郭は曖昧だった。
塊。
赤い霧で構成された巨人。
紗希の視線が、ゆっくりと上がる。
頭部。
肩。
腕。
胴体。
全体をなぞるように観測する。
胸部らしき膨らみ。
細く見える首。
腰にあたる部分のくびれ。
だが、どれも定まらない。
女の形を取ろうとして、何度も崩れている。
「……女性、ですね」
静かに言う。
しかし、すぐに首を振った。
「いえ」
赤い霧の中で、顔だけが揺れる。
大人の女に見えた次の瞬間、幼い少女の輪郭が混じる。
長い髪の影。
白い髪の残像。
笑みのような口元。
空っぽのような目。
どれも一瞬だけ浮かび、すぐに赤い霧へ溶ける。
「女性に、しようとしている」
紗希は、目を細めた。
「海さんが作ろうとしていた、“あげは”のつもり……ですか」
赤い霧の巨人が、ゆっくりと腕を持ち上げる。
周囲の空気が歪んだ。
熱が膨らむ。
壁の表面が焼け、鉄が赤くなる。
恭介が、鼻を鳴らした。
「……食えねえな、これは。腹が反応しねえ」
「え?」
紗希が恭介を見る。
恭介は、赤い霧の巨人を睨み上げたまま舌打ちする。
「黒は混じってる。けど、芯が違う。こいつはクロじゃねえ」
赤い霧が、重く揺れた。
「血が霧になってるだけだ。混ざりもんはあっても、喰えたもんじゃねえ。マジで血生臭ぇ」
紗希は一瞬だけ赤い巨人を見上げ、それから恭介を見た。
「あれれ?」
「あ?」
「もしかして、相性悪い感じですか?」
わざとらしく首を傾げる。
「ギブアップして、逃げます〜?」
恭介の眉間に皺が寄った。
「うるせぇ!」
怒鳴る。
「俺は人の血なんて好んで飲まねーんだよ! バケモン扱いすんな!」
紗希は、きょとんとした顔で瞬きをした。
「え、今さらそこ気にするんですか?」
「気にするわ! ……ったく、どいつもこいつも!」
黒い翼が、ぎしりと軋む。
恭介は、赤い霧の巨人を見上げた。
「喰えるもんは喰う」
一歩、前へ出る。
「喰えねえなら、ぶっ壊す」
「はい。いつも通りですね」
「うるせえ、下がってろ」
巨人の腕が、さらに高く持ち上がった。
赤い霧が、筋肉のように膨らむ。
熱が、腕の内側へ集まっていく。
紗希が短く言った。
「先輩、来ます」
「どっから」
「上です」
「先に言え!」
「今言いました」
次の瞬間、巨人の腕が振り下ろされた。
熱が、空間ごと落ちてくる。
地面が爆ぜた。
コンクリートが砕け、鉄片が弾け飛ぶ。
爆風。
熱風。
赤い霧が、波のように押し寄せる。
恭介は紗希の前に出た。
黒い翼が、背後で展開する。
腕を受けるのではない。
落ちてくる熱の流れを、横から弾く。
黒い翼が軋み、赤い霧の腕が斜めに逸れた。
巨人の一撃が、二人のすぐ横を抉る。
床が裂ける。
赤い霧が跳ね上がる。
「雑にでけぇな、クソが」
恭介が笑った。
獣のように。
黒い翼が、さらに広がる。
「いいじゃねえか」
「よくないです」
紗希が即座に返す。
恭介は聞いていない。
踏み込む。
背中の黒い翼が、推進力に変わる。
一直線。
赤い霧の巨人へ。
恭介の拳が、巨人の腕を裂いた。
赤い霧が散る。
続けて、胴体へ突き抜ける。
黒い翼が霧を切り裂き、巨人の胸部を大きく抉った。
赤が飛び散る。
霧が裂ける。
巨大な身体に、空洞が空く。
だが。
散った赤は、消えなかった。
空中で一度ほどけた霧が、引き戻される。
腕も。
胴も。
削ったはずの輪郭も。
赤い霧が、巨人の内部へ巻き戻るように集まり、再び人の形を取り戻していく。
「……手応えがねえ」
恭介が吐き捨てる。
「まあ、霧ですからね」
「そういう意味じゃねえ」
「分かってます」
紗希は、再形成していく赤い霧を見つめていた。
巨人の身体は戻っている。
ただ戻っているわけではない。
どこかへ、一度、吸い込まれている。
だが、まだ見えない。
どこへ戻っているのか。
どこを中心に、形を取り戻しているのか。
紗希が目を細める。
その時、崩れた配線の奥で火花が散った。
小さな火が、油を含んだ床を舐める。
赤い霧の巨人が、ぴたりと動きを止めた。
巨人は、恭介を見ているわけではなかった。
赤い霧でできた頭部が、ゆっくりと横へ向く。
視線があるわけではない。
目があるわけでもない。
だが、反応している。
崩れた配線の奥。
油を含んだ床を舐める、小さな火。
そこへ。
赤い霧が、殺到した。
巨人の腕が横へ振るわれる。
熱へ向かって。
燃え上がりかけた火の手が、壁ごと叩き潰された。
轟音。
床が爆ぜ、鉄片が赤く散る。
火は消えた。
ただ消えたのではない。
火のあった場所ごと、潰されていた。
「……なるほど」
紗希が、小さく呟く。
赤い霧の動きを、目で追う。
「歌留多ちゃんの“熱”読み、当たりですね」
「あ?」
恭介が振り向かずに返す。
「さっきまでは断定するには早いと思ってましたけど」
紗希は、叩き潰された火の跡を見る。
「今のでほぼ確定です」
「だから何が」
「海さんが最後に言った通りに動いてます」
赤い霧が、また揺れた。
火を潰した腕が、ゆっくりと戻る。
次に探している。
熱を。
生きているものを。
「“熱を探知して、破壊しろ”」
恭介が舌打ちした。
「だったら俺を狙えよ」
「私も熱源なんですけど」
「後ろにいろ」
「はいはい」
紗希は軽く返しながら、一歩下がる。
だが、目は逸らさない。
赤い霧の流れを見ている。
巨人の輪郭が膨らむ。
火を潰したせいで散った赤が、また巨人の内側へ戻っていく。
腕が作り直される。
肩が膨らむ。
胴が、歪みながら整っていく。
恭介が前へ出た。
「じゃあ、俺が目立ちゃいいんだろ」
黒い翼が広がる。
次の瞬間、恭介の身体が跳ねた。
赤い霧の巨人へ、一直線。
黒い翼が霧を裂く。
恭介の拳が、巨人の胸部を抉った。
赤い霧が弾ける。
さらに、もう一撃。
腕を砕く。
肩を裂く。
巨人の身体が、何度も崩れる。
だが、終わらない。
散った赤い霧は、ただ漂っているのではなかった。
一度、巨人の内側へ吸い込まれる。
胸部とも、頭部ともつかない場所。
赤い流れが、そこへ巻き込まれ、そこからまた腕の形へ広がっていく。
紗希の指が、ぴたりと止まった。
「……違う」
小さな声。
恭介が、赤い霧を裂きながら叫ぶ。
「何がだよ!」
「そこじゃないです」
「だから何が!」
「壊してる場所です」
紗希は目を細める。
赤い霧の流れ。
散る方向。
戻る場所。
形を作り直す中心。
「本体、そこじゃない」
恭介が巨人の腕を避ける。
赤い霧が、彼の背中を掠めた。
黒い翼の端が、じゅ、と音を立てる。
「じゃあどこだ!」
「見ます」
紗希は、赤い霧の奥を睨む。
「少し、時間ください」
「時間稼ぎかよ」
「得意でしょう?」
「俺を何だと思ってんだ」
「壊れにくい家電」
「ぶっ壊すぞ」
「壊れたら困ります」
「どっちだよ!」
恭介が吠え、黒い翼を広げる。
赤い霧の巨人が、再び腕を振り上げた。
その腕の内側で、熱が膨らむ。
恭介は笑った。
「こっちだ、デカブツ」
黒い翼が弾ける。
わざと大きく動く。
赤い霧が、恭介の熱へ反応した。
腕が落ちる。
恭介は正面から突っ込む。
黒い翼で熱の流れを裂き、拳で霧の腕を砕く。
赤い霧が散る。
戻る。
巻き込まれる。
また広がる。
紗希は、その流れを追う。
一度。
二度。
三度。
三度目だけ、戻る角度がわずかに違った。
散った霧が巨人の輪郭へ戻る前に、一瞬だけ、内側のどこかへ引かれている。
何かがある。
ただの霧なら、あんな戻り方はしない。
けれど、それが何なのかまでは、まだ見えない。
「……戻り方が変です」
紗希が呟いた。
恭介が、赤い霧の腕を避けながら怒鳴る。
「何がだよ!」
「分かりません」
「ああ!?」
「でも、ただ壊しても駄目なのは確かです」
恭介は舌打ちした。
「じゃあ、分かるまで壊すしかねえな」
「脳筋ですね」
「黙って見てろ」
黒い翼が、ぎしりと軋む。
赤い霧の巨人が、再び腕を振り上げる。
恭介は、真正面から踏み込んだ。
何度でも。
愚直に。
届くまで。




