第39話 めくるめく、スライド・ショウ
赤黒く濁った霧の痕跡を辿り、恭介と紗希は暗がりの奥へ進んだ。
足元には、古い油と鉄錆の匂いが沈んでいる。
そこに、焼けた血のような臭気が混じっていた。
恭介の視界は、まだ線に侵されている。
壁も、床も、空間も。
全部が細い線に分解され、まともな形を失っていた。
ただ、その線は輪郭ではない。
流れだ。
どこを流れ、どこで詰まり、どこを貫けば裂けるのか。
それだけが、嫌になるほど分かる。
「……そこにいやがったか」
低く吐き捨てる。
その先に、海がいた。
蛹壁の前に立っている。
そこは、壁と呼ぶにはあまりにも歪だった。
人の形が、埋まっている。
一つ。
二つ。
三つ。
その奥にも、まだある。
腕だけが女のものに近い影。
顔だけが誰かの笑みを真似たもの。
胸元だけが薄い輪郭を持ったもの。
どれも完成していない。
どれも、生きていない。
だが、ただの死体にも見えなかった。
蛹。
標本。
何度も失敗した輪郭の棚。
不完全な“あげは”。
紗希は、息を呑まなかった。
ただ、目を細める。
壁の中の一体。
その髪だけが、不自然に白く抜けていた。
顔立ちは幼い。女とも少年ともつかない。
輪郭は崩れているのに、どこかで見た印象だけが残っている。
似ている。
似ている、けれど違う。
似せようとして、壊れたもの。
「……これって」
紗希が、小さく呟く。
「歌留多ちゃん、では?」
その瞬間。
恭介の中で、線が歪んだ。
白。
黒。
どこかで聞いた名前。
思い出せない。
なのに、頭の奥だけが引っ掻かれる。
次の瞬間、恭介の拳が壁へ叩き込まれた。
白い髪を持った失敗作の顔が、砕ける。
乾いた音が響く。
蛹の輪郭が崩れ、白い破片が霧の中へ散った。
「……黙れ」
恭介は、低く言った。
声が、妙に平坦だった。
「その名前を出すな」
一拍。
「すごく、イライラ、する」
紗希は、恭介を見る。
普段の乱暴な怒声ではなかった。
もっと幼く、途切れた言い方だった。
自分で理由を分かっていない苛立ち。
あるいは、分かる前に封じられた記憶の拒絶反応。
海が、ゆっくりと振り返る。
片目は空洞だった。
そこから黒い液体が垂れている。
涙のように。
だが、それは地面に落ちる前に蒸発し、霧へと変わっていく。
じゅ、と小さな音がした。
「……反応した」
海が、ぽつりと呟く。
その声には、恐怖よりも先に、歪んだ安堵があった。
「やっぱり、近いんだ」
恭介が顔をしかめる。
「何言ってやがる」
「僕だけが見てるわけじゃない」
海は、壊れた蛹壁を見た。
砕かれた白い顔。
散った輪郭。
その奥に残った、空白。
「君たちも、知ってるんだ」
「知らねぇよ」
恭介が吐き捨てる。
だが、海は聞いていない。
聞こえていても、別の意味に変えてしまっている。
「違うんだ」
海は言った。
「幻じゃない」
指先が、蛹壁に触れる。
「ちゃんと見たんだ。白石さんの夢で」
紗希の視線が、わずかに動く。
白石。
夢。
結果断片。
本来なら、避けるために見るもの。
けれど海は、それを違うものとして受け取っている。
「見たものは、なかったことにしなくていい」
海の声は、かすれていた。
「観測したなら、そこにある」
一拍。
「あの人は、そう言った」
紗希は、その名が来ることを、半ば分かっていた。
それでも、実際に聞いた瞬間、胸の奥がわずかに冷えた。
「ミカゲが、そう言った」
(……ミカゲ)
否定されなかった。
だから、止まれなかった。
紗希には、そう見えた。
それは救いの言葉だったのかもしれない。
けれど、救いは境界を越えると、呪いになる。
海は、もうこちらを見ていない。
「だから、探せばいい」
蛹壁に触れたまま、海は笑った。
「夢に合う顔を」
指が震える。
「名前に合う身体を」
声が、少しずつ熱を帯びていく。
「幸福が入る器を」
恭介が、一歩踏み出す。
「おい」
海の手が、蛹壁の下へ伸びていた。
そこには、古い作業台がある。
加湿器の部品。
細いチューブ。
割れた透明な管。
乾いた赤黒い汚れの残る器具。
誰かを殺すための道具というより、何かを現実に固定するための器具に見えた。
恭介の声が低くなる。
「何する気だ」
海は振り返らない。
「簡単な話だ、器がないなら」
その声は、静かだった。
「僕が、器になればいい」
白い霧が、濃くなった。
それは、諦めの言葉ではなかった。
最後の材料を見つけた人間の声だった。
海の手元が、霧に沈む。
何をしたのかは、見えなかった。
ただ、白かった霧に、赤が混じった。
薄い赤ではない。
濁った、重い赤。
それが、海の片目から零れる黒と混ざり、空気の中で泡立つように広がっていく。
白が、赤黒く変わる。
霧が、血の色を覚えていく。
「足りないものは」
海が、かすれた声で言った。
「僕が埋める」
恭介が舌打ちした。
「……チッ」
鼻を鳴らす。
「臭ぇ」
クロの匂い。
血の匂い。
それから、もっと粘ついた、夢の腐ったような臭気。
紗希は口元を押さえた。
「……濃度が、跳ね上がってます」
空気が重い。
先ほどまでの白い霧とは違う。
呼吸を邪魔するのではない。
体温を探している。
生きているものを、探している。
海が、顔を上げた。
もう、恭介も紗希も見ていない。
蛹壁も見ていない。
ただ、どこか遠くにある夢だけを見ていた。
「すべての熱を探知して——」
声が、静かに響く。
「破壊しろ」
赤黒い霧が、ぴくりと震えた。
蛹壁が軋む。
不完全な“あげは”たちの輪郭が、霧の中で崩れていく。
海の口元が、わずかに笑う。
「みんな」
一拍。
「こわれて、しまえ」
命令。
それは祈りではなかった。
救いでもなかった。
ただ、呪いだった。
次の瞬間、赤い霧が爆発的に膨張した。
白い空間が、赤に塗り替わる。
空気が震える。
床が鳴る。
蛹壁が、内側から押されるように軋む。
恭介が、紗希の前へ出た。
黒い翼が開く。
赤い霧が、その輪郭を呑み込もうとする。
その一瞬。
時間が、引き伸ばされたように感じた。
◆
あげは。
そう呼んだはずだった。
夢の中で、彼女は振り返る。
長い髪。
透明な肌。
やわらかく笑う口元。
けれど、瞬きをするたびに、顔が変わった。
黒い髪。
白い髪。
大人の女。
幼い少女。
笑っている。
泣いている。
こちらを見ている。
こちらを見ていない。
あげは。
もう一度、名前を呼ぶ。
だが、口の形が合わなかった。
あ。
げ。
は。
三つの音を並べたはずなのに、夢の中の彼女は振り返らない。
違う。
音が違う。
顔が違う。
輪郭が違う。
なのに、胸の奥だけが、これは正しいと叫んでいる。
白い髪の少女が立っていた。
幼い顔。
女とも少年ともつかない、中性的な輪郭。
こちらを見上げる、空っぽのような目。
違う。邪魔をするな。
僕が探していたのは、あげはだ。
あげはのはずだ。
あげはでなければならない。
けれど、夢は勝手に書き換わる。
髪が白くなる。
背が低くなる。
声が幼くなる。
名前が、喉の奥で詰まる。
あ、げ、は。
違う。
か、る、た。
違う。
あげは。
カルタ。
あげは。
カルタ。
名前が重なる。
顔が重なる。
幸福の隣にいたはずの少女が、別の誰かへ置き換わっていく。
僕が探していたのは。
あげはじゃない。
違う。
違うはずなのに。
夢の奥で、誰かがその名前を呼んだ。
――カルタ。




