第38話 あげはと、一緒になる方法
黒い翼が、軋む。
恭介の拳が、ゆっくりと構えられる。
「人に当てたらどうなるんだろうな、これは」
その言葉に、海の喉が引きつった。
紗希を抱え込んでいた腕が、わずかに緩む。
恐怖。
それはもう、隠しようがなかった。
海の片目から、黒い液体が滲み続けている。白い霧に触れるたび、じゅ、と小さな音を立てて、赤黒く濁った煙のように広がっていく。
その霧が、紗希と恭介の間で膨れた。
人の形を作ろうとする。
腕のようなもの。
顔のようなもの。
羽のようなもの。
だが、それは完成しなかった。
霧の奥で、形になりかけた“何か”がぐらりと揺れる。
崩れる。
再び、霧へと還る。
「……ッ」
微かな音が漏れた。
悲鳴でも、咆哮でもない。
かすれる呼吸。
必死に空気を求める、生き物の音だった。
その瞬間。
赤黒く濁った霧が裂けた。
内側から、無理やり押し広げるように。
形を壊しながら、ぐしゃりと飛び出す。
人影。
海だった。
足取りは乱れ、呼吸は浅い。
片目を押さえた指の隙間から、黒いものが漏れている。
目は焦点を失っていた。
それでも、動いている。
「……はっ」
空気を吸い、吐く。
「……まだ」
声が漏れる。
「まだ、終わってない……!」
そのまま踵を返し、走る。
一直線に。
迷いなく。
◆
それは幻です、と。
あの少女には、そう否定されてしまったけれど。
見たものを、なかったことにしなくていい。
誰かが、そう言った。
夢の話をした時だった。
ありえないはずの幸福。
会ったこともないはずの少女。
名前だけが胸に残り、顔だけが何度も変わる夢。
普通なら、否定されるはずだった。
そんなものは妄想だ。
ただの願望だ。
忘れた方がいい。
そう言われるはずだった。
けれど、その人は笑った。
なんてロマンのある話なんだろう、と。
見たのなら、そこにある。
観測したのなら、存在したと言っていい。
君が覚えているなら、それは消えていない。
だから、探せばいい。
夢に合う顔を。
名前に合う身体を。
幸福が入る器を。
その時から、夢は警告ではなくなった。
避けるべき未来ではなくなった。
探すべきものになった。
◆
霧の中を、海は走っていた。
足がもつれる。
呼吸が乱れる。
片目の奥が焼けるように痛む。
それでも、足は止まらない。
終わっていない。
終わっているはずがない。
あれは幻じゃない。
誰かが、かつてそう言ってくれた。
見たのなら、そこにある。
観測したのなら、存在したと言っていい。
だから、探せばいい。
夢に合う顔を。
名前に合う身体を。
幸福が入る器を。
「……そうだ」
海は、息を切らしながら呟いた。
「まだ、探せる」
白い霧が後ろへ流れる。
赤黒い痕跡が、床に細く引きずられていく。
◆
「おい」
恭介が顔を上げた。
視界は、相変わらず線に侵されている。
世界は形ではなく、流れと詰まりだけで見えている。
だが、さっきまでそこにあった歪みが、遠ざかっていくのは分かった。
「……逃げてんじゃねえぞ」
低く、苛立ち混じりに吐き捨てる。
背後で、紗希が息を整えながら目を細めた。
「先輩」
短く呼ぶ。
「動いてます」
紗希の視線が走る。
床。
壁。
空気。
赤黒く濁った霧が、細い線のように引きずられている。
ただの煙ではない。
途切れそうになりながらも、確かに奥へ伸びている。
「……痕跡、残ってます」
紗希が指を向ける。
「こっちです」
恭介は頷かない。
だが、足が動く。
「……垂れてんのか」
一歩、踏み出す。
「なら、追えるな」
そのまま霧の中へ進む。
一直線に。
紗希も続く。
喉の奥には、まだ白いものが残っているような感覚があった。呼吸は重い。身体の内側に、別の輪郭が触れていた名残がある。
それでも、足は止めない。
空気が変わっていく。
熱が増す。
湿度が上がる。
霧の粘度が、少しずつ濃くなる。
匂い。
鉄。
古い油。
焼けた血に似た、濃い臭気。
「……近いですね」
紗希が小さく呟いた。
その先。
暗がりの奥に、それはあった。
壁。
ただの壁ではない。
人の形が、埋まっている。
一つ。
二つ。
三つ。
さらに、その奥にも。
崩れ、歪み、変形した身体。
腕だけが、女の腕に近いもの。
顔だけが、誰かの笑みを真似たもの。
胸元だけが、薄い輪郭を持ったもの。
どれも完成していない。
どれも生きていない。
けれど、ただの死体にも見えなかった。
蛹。
標本。
あるいは、何度も失敗した輪郭の棚。
不完全な“あげは”。
その前に、海が立っていた。
背を向けたまま、動かない。
手を伸ばしている。
一体の蛹へ。
「……分かってくれなかったな」
ぽつりと、海が呟く。
「紗希、とかいう子は」
指先が、乾いた皮膚へ触れる。
変形した輪郭を、そっとなぞる。
愛おしむようでいて、そうではない。
正しい形を探すような、確認する手つきだった。
「でも違う」
別の蛹へ手を移す。
「ちゃんといるんだ」
指先が震える。
「見たんだよ」
声が、わずかに強くなる。
「白石さんの夢で」
海は顔を上げる。
誰もいない空間を見る。
そこに誰かが立っているとでもいうように。
「……あげはは」
声が、かすかに震える。
「僕と一緒になる未来を」
笑う。
「そうだ」
笑う。
「そうだよ」
その笑みは、もう紗希を見ていなかった。
恭介も見ていない。
目の前の蛹も、本当には見ていない。
ただ、夢の中にいる誰かだけを見ていた。
「一緒になればいいんだ」
静かに。
狂気が、固まる。
壁の下には、古い作業台があった。
加湿器の部品。
細いチューブ。
割れた透明な管。
乾いた赤黒い汚れの残る器具。
誰かを殺すための道具というより、何かを現実に固定するための器具に見えた。
海の手が、そこへ伸びる。
恭介が、低く唸った。
「おい」
海は振り返らない。
ただ、笑った。
「もう少しで、届くんだ」
その声は、白い霧の奥へ沈んでいった。




