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ブラックベイン―狂暴×悪辣―  作者: 平行月
第2章 夢蝶はそこにいるか
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第38話 あげはと、一緒になる方法

 黒い翼が、軋む。


 恭介の拳が、ゆっくりと構えられる。


「人に当てたらどうなるんだろうな、これは」


 その言葉に、海の喉が引きつった。


 紗希を抱え込んでいた腕が、わずかに緩む。


 恐怖。


 それはもう、隠しようがなかった。


 海の片目から、黒い液体が滲み続けている。白い霧に触れるたび、じゅ、と小さな音を立てて、赤黒く濁った煙のように広がっていく。


 その霧が、紗希と恭介の間で膨れた。


 人の形を作ろうとする。


 腕のようなもの。


 顔のようなもの。


 羽のようなもの。


 だが、それは完成しなかった。


 霧の奥で、形になりかけた“何か”がぐらりと揺れる。


 崩れる。


 再び、霧へと還る。


「……ッ」


 微かな音が漏れた。


 悲鳴でも、咆哮でもない。


 かすれる呼吸。


 必死に空気を求める、生き物の音だった。


 その瞬間。


 赤黒く濁った霧が裂けた。


 内側から、無理やり押し広げるように。


 形を壊しながら、ぐしゃりと飛び出す。


 人影。


 海だった。


 足取りは乱れ、呼吸は浅い。


 片目を押さえた指の隙間から、黒いものが漏れている。


 目は焦点を失っていた。


 それでも、動いている。


「……はっ」


 空気を吸い、吐く。


「……まだ」


 声が漏れる。


「まだ、終わってない……!」


 そのまま踵を返し、走る。


 一直線に。


 迷いなく。


     ◆



 それは幻です、と。


 あの少女には、そう否定されてしまったけれど。


 見たものを、なかったことにしなくていい。


 誰かが、そう言った。


 夢の話をした時だった。


 ありえないはずの幸福。


 会ったこともないはずの少女。


 名前だけが胸に残り、顔だけが何度も変わる夢。


 普通なら、否定されるはずだった。


 そんなものは妄想だ。


 ただの願望だ。


 忘れた方がいい。


 そう言われるはずだった。


 けれど、その人は笑った。


 なんてロマンのある話なんだろう、と。


 見たのなら、そこにある。


 観測したのなら、存在したと言っていい。


 君が覚えているなら、それは消えていない。


 だから、探せばいい。


 夢に合う顔を。


 名前に合う身体を。


 幸福が入る器を。


 その時から、夢は警告ではなくなった。


 避けるべき未来ではなくなった。


 探すべきものになった。


    ◆


 霧の中を、海は走っていた。


 足がもつれる。


 呼吸が乱れる。


 片目の奥が焼けるように痛む。


 それでも、足は止まらない。


 終わっていない。


 終わっているはずがない。


 あれは幻じゃない。


 誰かが、かつてそう言ってくれた。


 見たのなら、そこにある。


 観測したのなら、存在したと言っていい。


 だから、探せばいい。


 夢に合う顔を。


 名前に合う身体を。


 幸福が入る器を。


「……そうだ」


 海は、息を切らしながら呟いた。


「まだ、探せる」


 白い霧が後ろへ流れる。


 赤黒い痕跡が、床に細く引きずられていく。


     ◆


「おい」


 恭介が顔を上げた。


 視界は、相変わらず線に侵されている。


 世界は形ではなく、流れと詰まりだけで見えている。


 だが、さっきまでそこにあった歪みが、遠ざかっていくのは分かった。


「……逃げてんじゃねえぞ」


 低く、苛立ち混じりに吐き捨てる。


 背後で、紗希が息を整えながら目を細めた。


「先輩」


 短く呼ぶ。


「動いてます」


 紗希の視線が走る。


 床。


 壁。


 空気。


 赤黒く濁った霧が、細い線のように引きずられている。


 ただの煙ではない。


 途切れそうになりながらも、確かに奥へ伸びている。


「……痕跡、残ってます」


 紗希が指を向ける。


「こっちです」


 恭介は頷かない。


 だが、足が動く。


「……垂れてんのか」


 一歩、踏み出す。


「なら、追えるな」


 そのまま霧の中へ進む。


 一直線に。


 紗希も続く。


 喉の奥には、まだ白いものが残っているような感覚があった。呼吸は重い。身体の内側に、別の輪郭が触れていた名残がある。


 それでも、足は止めない。


 空気が変わっていく。


 熱が増す。


 湿度が上がる。


 霧の粘度が、少しずつ濃くなる。


 匂い。


 鉄。


 古い油。


 焼けた血に似た、濃い臭気。


「……近いですね」


 紗希が小さく呟いた。


 その先。


 暗がりの奥に、それはあった。


 壁。


 ただの壁ではない。


 人の形が、埋まっている。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 さらに、その奥にも。


 崩れ、歪み、変形した身体。


 腕だけが、女の腕に近いもの。


 顔だけが、誰かの笑みを真似たもの。


 胸元だけが、薄い輪郭を持ったもの。


 どれも完成していない。


 どれも生きていない。


 けれど、ただの死体にも見えなかった。


 蛹。


 標本。


 あるいは、何度も失敗した輪郭の棚。


 不完全な“あげは”。


 その前に、海が立っていた。


 背を向けたまま、動かない。


 手を伸ばしている。


 一体の蛹へ。


「……分かってくれなかったな」


 ぽつりと、海が呟く。


「紗希、とかいう子は」


 指先が、乾いた皮膚へ触れる。


 変形した輪郭を、そっとなぞる。


 愛おしむようでいて、そうではない。


 正しい形を探すような、確認する手つきだった。


「でも違う」


 別の蛹へ手を移す。


「ちゃんといるんだ」


 指先が震える。


「見たんだよ」


 声が、わずかに強くなる。


「白石さんの夢で」


 海は顔を上げる。


 誰もいない空間を見る。


 そこに誰かが立っているとでもいうように。


「……あげはは」


 声が、かすかに震える。


「僕と一緒になる未来を」


 笑う。


「そうだ」


 笑う。


「そうだよ」


 その笑みは、もう紗希を見ていなかった。


 恭介も見ていない。


 目の前の蛹も、本当には見ていない。


 ただ、夢の中にいる誰かだけを見ていた。


「一緒になればいいんだ」


 静かに。


 狂気が、固まる。


 壁の下には、古い作業台があった。


 加湿器の部品。


 細いチューブ。


 割れた透明な管。


 乾いた赤黒い汚れの残る器具。


 誰かを殺すための道具というより、何かを現実に固定するための器具に見えた。


 海の手が、そこへ伸びる。


 恭介が、低く唸った。


「おい」


 海は振り返らない。


 ただ、笑った。


「もう少しで、届くんだ」


 その声は、白い霧の奥へ沈んでいった。

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