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ブラックベイン―狂暴×悪辣―  作者: 平行月
第2章 夢蝶はそこにいるか
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第37話 凶×悪

 ぶつり、と切れた感覚だけが、頭の奥に残っている。


 誰の声だったのか。


 何を思い出しかけたのか。


 分からない。


 ただ、拳には黒い液体の粘つきが残っていた。


 赤い血ではない。

 ただのクロでもない。


 混ざっている。


 濁っている。


 生きているのか、死んでいるのか、怪異なのか、人間なのか、その境目をぐちゃぐちゃに溶かしたような匂いがする。


「……チッ」


 恭介は舌打ちした。


 考えるのは苦手だ。


 思い出すのも、性に合わない。


 なら、やることは一つでいい。


 目の前にあるものを、終わらせる。


 それだけだ。


 海は、床に片膝をついていた。


 片手で、穴の開いた眼窩を押さえている。その指の隙間から、黒い液体がじわじわと滲み出していた。落ちた義眼は、床の上で白い霧に濡れている。


 海の呼吸が乱れていた。


 痛み。


 混乱。


 そして、ようやく浮かび上がった恐怖。


 恭介は一歩、踏み出す。


「だいたい中途半端なんだよ、てめえは」


 声は低かった。


 海が、肩を震わせる。


「死ぬなら死ね」


 もう一歩。


「生きるなら生きろ」


 黒い翼が、背中で軋む。


 白い霧が、その輪郭に押し潰されるように散った。


「人を変えようとか、変わってほしいとか。ああなってほしい、ああしてほしい、そんなんだろうがどうせ!」


 恭介は吐き捨てる。


「結局、周りばっか見てて、自分は見えてねえ」


 海が、顔を上げる。


 片目だけで、恭介を見る。


「……違う」


「あ?」


「僕は……あげはを」


「知るか」


 即答だった。


 恭介は止まらない。


「てめえの中でどんだけ大事だろうが、俺には関係ねえ」


 踏み込む。


「半端に黒を抱えて、半端に夢にしがみついて、半端に人間のふりして」


 恭介の渦眼が、ぐるりと回った。


「……気に食わねぇわけだ」


 海の喉が鳴る。


 恭介には、その顔が見えていない。


 視界はまだ、脈に侵されている。線だらけの世界の中で、海の表情も輪郭も壊れていた。見えているのは、黒く濁った流れと、霧に紛れようとする歪みだけだ。


 それでも、分かる。


 震えている。


 怯えている。


 食われる側の匂いがする。


「……てめえの今の面が見えてりゃ最高だったのによ」


 恭介が笑った。


 海が、後退る。


 白い霧が、その身体を包む。輪郭が薄れる。床に沈んだ霧と、彼自身の霧が混ざり、姿がぼやける。


 逃げようとしている。


 隠れようとしている。


 恭介は首を鳴らした。


「どこだ」


 低く言う。


「どこだよ、おい」


 答えはない。


 代わりに、白い霧が濃くなる。


 壁際。

 床。

 天井近く。


 いくつもの薄い輪郭が揺れ、海の位置を曖昧にしていく。


 恭介は一歩、横へ動いた。


 足が鉄片を踏み砕く。


 音。


 脈が揺れる。


「隠れてんじゃねぇぞ」


 拳が壁に叩き込まれる。


 轟音。


 鉄板がひしゃげ、白い霧が裂ける。


 海の姿はない。


「どこだ」


 今度は床を踏み抜く。


 古いコンクリートが割れ、配管が弾けた。水気を含んだ白い蒸気が噴き上がるが、恭介はそれを気にも留めない。


「あ~そび~ましょー」


 声だけは、子供みたいだった。


 だが、次に振るわれた拳は、人間のものではなかった。


 柱の一部が砕ける。


 霧が吹き散る。


 壁の奥に隠れていた配線が火花を散らし、白い空間に青白い光が瞬いた。


 海は、その光の向こうで息を呑んだ。


 見えていないはずだった。


 なのに、迫ってくる。


 正確ではない。


 だが、逃げ場を潰すように、空間そのものを壊しながら近づいてくる。


「……遊ぼうっつってんだろうが」


 恭介の声が、低く沈む。


 黒い翼が、背中でぐしゃりと軋む。


「出てこいや、ボケェ!!」


 拳が振り抜かれる。


 空間が歪む。


 白い霧が、内側から破裂したように裂ける。


 海の足が、動かない。


 呼吸が浅くなる。


 心臓が跳ねる。


 白い霧の向こうに、恭介の輪郭が揺れている。


 人間ではない。


 怪異でもない。


 ただ、迫ってくる。


 喰うために。


 終わらせるために。


「ヒッ……!」


 声が漏れた。


 自分のものだと、海は一瞬気づけなかった。


 霧の中で、立場が反転していた。


 見ていた側ではない。


 選んでいた側でもない。


 追い詰めていた側でもない。


 今、追われているのは自分だ。


 海の視線が揺れる。


 逃げ場がない。


 見えない。


 だが、迫ってくる。


 その中で。



 海の視線が、紗希へ揺れた。


 逃げ場がない。


 白い霧に紛れても、壁の向こうへ逃げても、あの黒い翼は追ってくる。


 見えていないはずなのに。


 届かないはずなのに。


 壊しながら、迫ってくる。


「……う」


 海の喉が鳴った。


 考えるより先に、身体が動いた。


 紗希の背後へ回る。


 白い霧が揺れる。


 紗希の肩を掴み、背後から抱え込むようにして引き寄せる。力は強くない。だが、距離は近い。霧が、紗希の喉元に薄く絡む。


「動くな!!」


 声が裏返った。


 恭介の足が、止まる。


 海はその反応に縋るように、さらに言葉を重ねた。


「これ以上抵抗するなら——」


 喉が震える。


 それでも、言った。


「この子を先に窒息させるぞ!!」


 白い空間が、静かになった。


 霧の流れる音だけが残る。


 恭介は動かない。


 紗希も、すぐには動かなかった。


 ただ、海の腕の中で、ゆっくりと息をした。


 浅い。


 けれど、乱れてはいない。


(……怖くない、わけじゃないんですけど)


 それでも、見えてしまったものは仕方ない。


「……あは」


 小さな笑い声が落ちた。


 海の動きが止まる。


 紗希は、少しだけ首を傾ける。


 背後にいる海の顔は見えない。


 それでも、今の彼がどんな顔をしているかは、だいたい分かった。


「……やっぱり」


 静かな声だった。


「結局、あなたって」


 一拍。


「自分が一番かわいいだけですよね」


「……違う」


 即答だった。


 だが、弱い。


 さっきまでの柔らかな陶酔は、もうない。あげはの名を呼んだ時の、夢を見るような熱もない。


 ただ、追い詰められた人間の震えだけが、声に混じっていた。


「違わないですよ」


 紗希は続ける。


「今、自分でやりましたよね」


 白い霧が、紗希の喉元を薄く撫でる。


 だが、紗希の声は乱れない。


「自分を守るために、私を先に止めようとした」


「違う」


「愛してる人なんて」


 海の指が、かすかに強張る。


「実はいないってことを」


(違う)


「今、自分で晒したんですよ」


(違う、違う)


 海の呼吸が浅くなる。


 紗希の言葉は、刃ではなかった。


 ただ、置かれた事実だった。


 その事実が、海の中で何かを削っていく。


「……あははっ」


 紗希は、ほんの少しだけ楽しそうに笑った。


「あなたが想ってたもの」


 一拍。


「それ」


 白い霧の奥で、いくつもの女の輪郭が揺れる。


 重なっては崩れる。


 名前だけが残り、顔がずれて、身体が合わず、呼吸が違う。


 夢の中にしかいない像。


 海が必死に現実へ引きずり出そうとしていたもの。


 紗希は、静かに言った。


「“幻”ですよ?」


「違う!!」


 叫び。


 白い霧が乱れた。


 海の中で、何かが弾けたように、空間全体の白が波打つ。


 その瞬間。


 恭介が、止まった。


 脈だらけの世界の中で。


 線として読めない、流れとして掴めない、脈にならない異質点。


 紗希。


 そのすぐ隣に、黒く濁った歪みが重なった。


 霧に隠れていたもの。


 逃げ回っていたもの。


 紗希を盾にするため、自分からそこへ寄ってきたもの。


「……ああ」


 恭介は、低く呟いた。


「そこか」


 海の呼吸が止まる。


 恭介の渦眼が、ぐるりと回った。


「何だ」


 一歩、踏み込む。


「まだ学習してなかったのか」


 海は動けない。


 紗希を抱えたまま、白い霧の中で固まっている。


 恭介には、海の表情は見えていない。


 それでも、分かる。


 恐怖がそこにある。


 黒い翼が、背中で軋んだ。


「お前は今」


 恭介の拳が、ゆっくりと上がる。


「自分で的になった」


 海の喉が、ひゅ、と鳴る。


「俺が見失わねぇ場所の隣に来た」


 黒い翼が、さらに開く。


 空気が潰れる。


 霧が、逃げるように裂ける。


「突破、ねえ」


 恭介は、自分の拳を見る。


 渦眼が、また一つ深く巻いた。


「人に当てたらどうなるんだろうな、これは」

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