第37話 凶×悪
ぶつり、と切れた感覚だけが、頭の奥に残っている。
誰の声だったのか。
何を思い出しかけたのか。
分からない。
ただ、拳には黒い液体の粘つきが残っていた。
赤い血ではない。
ただのクロでもない。
混ざっている。
濁っている。
生きているのか、死んでいるのか、怪異なのか、人間なのか、その境目をぐちゃぐちゃに溶かしたような匂いがする。
「……チッ」
恭介は舌打ちした。
考えるのは苦手だ。
思い出すのも、性に合わない。
なら、やることは一つでいい。
目の前にあるものを、終わらせる。
それだけだ。
海は、床に片膝をついていた。
片手で、穴の開いた眼窩を押さえている。その指の隙間から、黒い液体がじわじわと滲み出していた。落ちた義眼は、床の上で白い霧に濡れている。
海の呼吸が乱れていた。
痛み。
混乱。
そして、ようやく浮かび上がった恐怖。
恭介は一歩、踏み出す。
「だいたい中途半端なんだよ、てめえは」
声は低かった。
海が、肩を震わせる。
「死ぬなら死ね」
もう一歩。
「生きるなら生きろ」
黒い翼が、背中で軋む。
白い霧が、その輪郭に押し潰されるように散った。
「人を変えようとか、変わってほしいとか。ああなってほしい、ああしてほしい、そんなんだろうがどうせ!」
恭介は吐き捨てる。
「結局、周りばっか見てて、自分は見えてねえ」
海が、顔を上げる。
片目だけで、恭介を見る。
「……違う」
「あ?」
「僕は……あげはを」
「知るか」
即答だった。
恭介は止まらない。
「てめえの中でどんだけ大事だろうが、俺には関係ねえ」
踏み込む。
「半端に黒を抱えて、半端に夢にしがみついて、半端に人間のふりして」
恭介の渦眼が、ぐるりと回った。
「……気に食わねぇわけだ」
海の喉が鳴る。
恭介には、その顔が見えていない。
視界はまだ、脈に侵されている。線だらけの世界の中で、海の表情も輪郭も壊れていた。見えているのは、黒く濁った流れと、霧に紛れようとする歪みだけだ。
それでも、分かる。
震えている。
怯えている。
食われる側の匂いがする。
「……てめえの今の面が見えてりゃ最高だったのによ」
恭介が笑った。
海が、後退る。
白い霧が、その身体を包む。輪郭が薄れる。床に沈んだ霧と、彼自身の霧が混ざり、姿がぼやける。
逃げようとしている。
隠れようとしている。
恭介は首を鳴らした。
「どこだ」
低く言う。
「どこだよ、おい」
答えはない。
代わりに、白い霧が濃くなる。
壁際。
床。
天井近く。
いくつもの薄い輪郭が揺れ、海の位置を曖昧にしていく。
恭介は一歩、横へ動いた。
足が鉄片を踏み砕く。
音。
脈が揺れる。
「隠れてんじゃねぇぞ」
拳が壁に叩き込まれる。
轟音。
鉄板がひしゃげ、白い霧が裂ける。
海の姿はない。
「どこだ」
今度は床を踏み抜く。
古いコンクリートが割れ、配管が弾けた。水気を含んだ白い蒸気が噴き上がるが、恭介はそれを気にも留めない。
「あ~そび~ましょー」
声だけは、子供みたいだった。
だが、次に振るわれた拳は、人間のものではなかった。
柱の一部が砕ける。
霧が吹き散る。
壁の奥に隠れていた配線が火花を散らし、白い空間に青白い光が瞬いた。
海は、その光の向こうで息を呑んだ。
見えていないはずだった。
なのに、迫ってくる。
正確ではない。
だが、逃げ場を潰すように、空間そのものを壊しながら近づいてくる。
「……遊ぼうっつってんだろうが」
恭介の声が、低く沈む。
黒い翼が、背中でぐしゃりと軋む。
「出てこいや、ボケェ!!」
拳が振り抜かれる。
空間が歪む。
白い霧が、内側から破裂したように裂ける。
海の足が、動かない。
呼吸が浅くなる。
心臓が跳ねる。
白い霧の向こうに、恭介の輪郭が揺れている。
人間ではない。
怪異でもない。
ただ、迫ってくる。
喰うために。
終わらせるために。
「ヒッ……!」
声が漏れた。
自分のものだと、海は一瞬気づけなかった。
霧の中で、立場が反転していた。
見ていた側ではない。
選んでいた側でもない。
追い詰めていた側でもない。
今、追われているのは自分だ。
海の視線が揺れる。
逃げ場がない。
見えない。
だが、迫ってくる。
その中で。
海の視線が、紗希へ揺れた。
逃げ場がない。
白い霧に紛れても、壁の向こうへ逃げても、あの黒い翼は追ってくる。
見えていないはずなのに。
届かないはずなのに。
壊しながら、迫ってくる。
「……う」
海の喉が鳴った。
考えるより先に、身体が動いた。
紗希の背後へ回る。
白い霧が揺れる。
紗希の肩を掴み、背後から抱え込むようにして引き寄せる。力は強くない。だが、距離は近い。霧が、紗希の喉元に薄く絡む。
「動くな!!」
声が裏返った。
恭介の足が、止まる。
海はその反応に縋るように、さらに言葉を重ねた。
「これ以上抵抗するなら——」
喉が震える。
それでも、言った。
「この子を先に窒息させるぞ!!」
白い空間が、静かになった。
霧の流れる音だけが残る。
恭介は動かない。
紗希も、すぐには動かなかった。
ただ、海の腕の中で、ゆっくりと息をした。
浅い。
けれど、乱れてはいない。
(……怖くない、わけじゃないんですけど)
それでも、見えてしまったものは仕方ない。
「……あは」
小さな笑い声が落ちた。
海の動きが止まる。
紗希は、少しだけ首を傾ける。
背後にいる海の顔は見えない。
それでも、今の彼がどんな顔をしているかは、だいたい分かった。
「……やっぱり」
静かな声だった。
「結局、あなたって」
一拍。
「自分が一番かわいいだけですよね」
「……違う」
即答だった。
だが、弱い。
さっきまでの柔らかな陶酔は、もうない。あげはの名を呼んだ時の、夢を見るような熱もない。
ただ、追い詰められた人間の震えだけが、声に混じっていた。
「違わないですよ」
紗希は続ける。
「今、自分でやりましたよね」
白い霧が、紗希の喉元を薄く撫でる。
だが、紗希の声は乱れない。
「自分を守るために、私を先に止めようとした」
「違う」
「愛してる人なんて」
海の指が、かすかに強張る。
「実はいないってことを」
(違う)
「今、自分で晒したんですよ」
(違う、違う)
海の呼吸が浅くなる。
紗希の言葉は、刃ではなかった。
ただ、置かれた事実だった。
その事実が、海の中で何かを削っていく。
「……あははっ」
紗希は、ほんの少しだけ楽しそうに笑った。
「あなたが想ってたもの」
一拍。
「それ」
白い霧の奥で、いくつもの女の輪郭が揺れる。
重なっては崩れる。
名前だけが残り、顔がずれて、身体が合わず、呼吸が違う。
夢の中にしかいない像。
海が必死に現実へ引きずり出そうとしていたもの。
紗希は、静かに言った。
「“幻”ですよ?」
「違う!!」
叫び。
白い霧が乱れた。
海の中で、何かが弾けたように、空間全体の白が波打つ。
その瞬間。
恭介が、止まった。
脈だらけの世界の中で。
線として読めない、流れとして掴めない、脈にならない異質点。
紗希。
そのすぐ隣に、黒く濁った歪みが重なった。
霧に隠れていたもの。
逃げ回っていたもの。
紗希を盾にするため、自分からそこへ寄ってきたもの。
「……ああ」
恭介は、低く呟いた。
「そこか」
海の呼吸が止まる。
恭介の渦眼が、ぐるりと回った。
「何だ」
一歩、踏み込む。
「まだ学習してなかったのか」
海は動けない。
紗希を抱えたまま、白い霧の中で固まっている。
恭介には、海の表情は見えていない。
それでも、分かる。
恐怖がそこにある。
黒い翼が、背中で軋んだ。
「お前は今」
恭介の拳が、ゆっくりと上がる。
「自分で的になった」
海の喉が、ひゅ、と鳴る。
「俺が見失わねぇ場所の隣に来た」
黒い翼が、さらに開く。
空気が潰れる。
霧が、逃げるように裂ける。
「突破、ねえ」
恭介は、自分の拳を見る。
渦眼が、また一つ深く巻いた。
「人に当てたらどうなるんだろうな、これは」




