第36話 彼は“キョウ”と呼ぶ
白い霧の中で、恭介は一歩を踏み込んだ。
壁を破り、空間を裂き、白を割って入ってきた直後だというのに、足は止まらない。
背中には、黒い翼がまだ開いている。
羽ではない。
肉でも骨でもない。
黒い線の束が、背後で無理やり翼の形を取っている。空気を掴むためではなく、前へ進むためだけの器官。そこにあるだけで、白い霧が押し潰されるように揺れていた。
恭介の渦眼が、ぐるぐると回っている。
黒い翼を展開した直後くらいからだろうか。
視界は、もうまともではなかった。
壁も。
床も。
霧も。
空間も。
すべてが、線。
……否、脈に見える。
黒の脈。
熱の脈。
水気を含んだ空気の脈。
鉄骨の奥で軋む、古い建物の脈。
空間そのものを縫い合わせる、見えないはずの脈。
形はない。
代わりに、どこを流れ、どこで詰まり、どこを貫けば裂けるのかだけが見えている。
「……チッ」
恭介は舌打ちした。
まともに歩ける視界ではない。
奥行きは壊れている。
距離感も狂っている。
文字も表情も、ほとんど意味を成さない。
だが、その脈だらけの世界の中で、一つだけ脈にならないものがあった。
線として読めない。
流れとして掴めない。
黒でもない。
熱でもない。
空間の継ぎ目でもない。
なのに、そこにいることだけは分かる。
紗希だ。
脈に変わらないまま、そこにいる。
理由は分からない。
だが、分かる。
それで十分だった。
「おいおい」
霧の奥から、海の声が聞こえた。
笑っている。
だが、その声にはほんの少しだけ、さっきまでなかった硬さが混じっていた。
「普通の人間なら、もう窒息してるはずなんだけどな?」
「はっ」
恭介は鼻で笑う。
「知るかよ」
踏み込む。
一直線に。
紗希がいると分かる、その場所へ向かって。
海の声が、少しだけ低くなった。
「じゃあ、これはどうかな」
空気が変わる。
前方の霧が、急に濃くなった。
ただの白ではない。
熱を持っている。
湿っている。
分厚い。
白い壁だった。
高熱の水蒸気が幾層にも重なり、進路を塞ぐ。視界を潰し、呼吸を重くし、皮膚の表面を舐めるように熱を押しつけてくる。
「無理に通ろうとすれば、焼けるよ」
海が言う。
「それに、見えないでしょ」
白が、さらに厚みを増す。
霧の壁。
普通なら、止まる。
だが、恭介は止まらなかった。
「うおおおおお!!」
背中の黒い翼が軋む。
黒い線の束が、後方へ引き絞られるように歪み、次の瞬間、推進力へ変わる。
一直線。
熱の層へ。
焼ける。
喉が重い。
肺が軋む。
皮膚の表面がじりじりと鳴る。
だが、恭介はその感覚を途中で切り捨てた。
(……違うな)
霧の中で、何かが噛み合う。
(通るんじゃねぇ)
目の前にあるものを、道として認める必要はない。
(“抜く”んだ)
阻むものを、阻む結果ごと貫く。
それだけでいい。
「——ッ!!」
黒い翼が弾けた。
恭介の身体が、熱の壁へ突き刺さる。
白が割れる。
高熱の水蒸気が、内側から破裂したように四散した。
視界は白い。
肺は重い。
体は焼けている。
だが、前へ出る。
抜けた。
その瞬間、海が一歩下がろうとした。
遅い。
恭介はもう間合いの中にいた。
拳。
一直線。
海の顔面へ叩き込む。
鈍い衝撃があった。
骨とは違う。
肉とも違う。
硬いものを砕いたような感触と、ぬるりとした重さが、同時に拳へまとわりついた。
海の身体が吹き飛ぶ。
白い霧を裂いて、床を転がる。
遅れて、炸裂音が耳に入った。
恭介は拳を見る。
血。
だが、違う。
粘つく。
重い。
どこか濁っている。
赤の中に、黒が混じっている。
じわりと滲み出るような黒。
それが、拳の上で煙のように蒸発していく。
(……クロ?)
違和感が、恭介の視線を導いた。
幾重もの脈に侵された視界の中で、海の顔が揺れている。
殴った場所。
片方の眼。
そこに、ぽっかりと穴が開いていた。
プラスチック製の義眼が、床へ落ちる。
軽い音。
その奥から、黒い液体が流れていた。
涙のように。
だが、それは床に落ちる前に、じゅ、と音を立てて蒸発する。
霧へ変わる。
白の中へ混ざっていく。
「……そこか」
恭介の喉が、低く鳴った。
「どうりでクロの匂いがプンプンすると思ってたぜ」
脳の奥が疼く。
食欲。
黒を見た時の、いつもの衝動。
喰える。
喰いたい。
喰って終わらせる。
だが、それだけではなかった。
もっと奥。
頭の奥を、爪で引っ掻かれるような感覚が走る。
視界が歪む。
脈が揺れる。
白。
黒。
霧。
血。
その中に、聞き覚えがあるような声が重なった。
『――キョウ、食べちゃダメだって。本当にバカだな、君は』
ぶつり、と何かが切れた。
「……チッ」
恭介は、黒く濡れた拳を見た。
「なんだ今の」




