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ブラックベイン―狂暴×悪辣―  作者: 平行月
第2章 夢蝶はそこにいるか
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第35話 人攫いのセンスがゼロ

 夢は、避けるために見るものだった。


 そこへ行くな。


 その選択をするな。


 その結末へ辿り着くな。


 見えたものは、未来そのものではない。

 けれど、放っておけば辿り着いてしまうかもしれない結果の断片だ。


 だから、夢は警告でなければならない。


 赤い火。

 白い霧。

 倒れた誰か。

 届かなかった手。

 壊れてしまうもの。


 それらは、選ぶべき道を示しているのではない。


 選んではいけない道を、教えている。


 だが。


 もし、その結末が幸福に見えたなら。


 そこに、大切な誰かが笑っていたなら。


 手を伸ばせば届くように見えたなら。


 夢は、警告ではなくなる。


 約束に見える。


 行ってはいけない場所が、辿り着くべき場所に見える。


 避けるべき未来が、叶えるべき未来に見える。


 だから、人は進んでしまう。


 止まるために見たはずの夢へ。


 逃げるために知ったはずの結末へ。


 辿り着いてはいけない場所へ、自分の足で向かってしまう。


     ◆


「助けは来ないんじゃないかな?」


 海の声は、白い空間の中でやけに穏やかに響いた。


 紗希は、ゆっくりと顔を上げる。


 白く溶けた視界の向こうに、海が立っている。


 いつもの顔。

 いつもの声。

 けれど、その目だけが違う。


 紗希を見ているようで、紗希を見ていない。


 その奥に、別の誰かの輪郭を探している。


「扉も窓も、霧で隠しちゃってるし」


 海は軽い口調で言った。


「外から見れば、壁にしか見えないと思うよ」


 すぐ横の壁を、海が指先で軽く叩く。


 コン、と鈍い音がした。


「ほら。鉄だし」


 紗希は、その音を聞いた。


 壁。


 隠された扉。

 隠された窓。

 白い霧に覆われた隔離空間。


(……なるほど)


 外からは見えない。

 中からも、簡単には出られない。


(完全に、隔離)


 理解する。


 けれど、焦りはなかった。


(まあ、いいか)


 どうせ。


(来るでしょうし)


 紗希は、ゆっくりと海を見る。


「……そもそも」


 静かに口を開く。


「なんで私を選んじゃったんですか?」


 問い。


 海が、少しだけ目を丸くした。


「え?」


「私、聞きたいんです」


 紗希は淡々と言う。


「なんでよりにもよって、私だったんですか?」


 海は、少しだけ笑った。


 責められているとは思っていない顔だった。


「だって、分かりやすいじゃん」


「分かりやすい?」


「その体質」


 海の視線が、紗希の輪郭をなぞる。


 髪。

 肩。

 喉元。

 呼吸の薄い揺れ。


 前のように、指は伸ばさない。


 けれど、その目は触れていた。


 紗希という人間ではなく、そこに別の誰かを重ねられるかどうかを、測っていた。


「変なの、いっぱい引き寄せてるし」


 海は嬉しそうに言う。


「怪異も、黒も、妙なものも。君の周りには、自然に集まってくる」


 白い霧が、紗希の呼吸に薄く混ざる。


 紗希は表情を変えない。


「それに、君は壊れない」


 海の声が、少し低くなった。


「無理に押し込まなくても、形が残る。ほかの人たちみたいに、すぐ崩れたり、止まったりしない」


 白の中で、女の輪郭がわずかに揺れた。


「入りやすいんだよ」


 海は、夢を見るような顔で言う。


「向こう側のものが」


 紗希は、露骨に顔をしかめた。


「……そういう見方、やめてもらえます?」


 声には、はっきりと嫌悪が混じっていた。


「私、入れ物じゃないので」


 海は、きょとんとした。


 本当に、少しだけ分からないという顔だった。


「そういう話じゃないです」


 紗希は続ける。


 白い霧の中で、背筋を伸ばす。


「私が聞きたいのは」


 一歩も引かない。


「なんでそんなミスをしたんですか、って話です」


 海の表情が、わずかに止まった。


「……ミス?」


「はい」


 紗希は頷く。


「私ほど攫う価値のない人、いないんで」


 軽く言う。


「リサーチ不足というか」


 少し考える。


「なんというか」


 言葉を探す。


 それから、ふと顔を上げた。


「……ああ」


 小さく納得する。


「もっと簡単な言い方、ありましたね」


 空気が、張る。


 海が、わずかに目を細める。


 紗希は、ほんの少しだけ口元を緩めた。


「人攫いの——」


     ◆


 霧の外。


 恭介は、足を止めていた。


 視界は、線だった。


 壁も。

 床も。

 空間も。


 すべてが、脈に変わっている。


 黒の脈。

 熱の脈。

 鉄骨の奥で軋む、古い建物の脈。

 空間を縫い合わせる、見えないはずの脈。


 形はない。


 代わりに、どこを流れ、どこで詰まり、どこを貫けば裂けるのかだけが見えていた。


「……クソ」


 恭介は舌打ちする。


 まともな視界ではない。


 奥行きも、距離も、文字も、壁の厚みも、全部が狂っている。


 だが、その脈だらけの世界の中で、一か所だけが異質だった。


 そこには、脈がない。


 線として読めない。

 流れとして掴めない。


 黒でもない。

 熱の線でもない。

 空間を縫う流れでもない。


 なのに、分かる。


 そこにいる。


 理屈じゃない。

 目で見ているわけでもない。


 脈だらけの世界の中で、そこだけが脈にならないまま、確かに残っている。


「……あそこか」


 紗希の位置。


 理由は分からない。


 だが、分かる。


「……あんなに攫う意味のねぇ女もいねぇだろうによ」


 恭介は低く吐き捨てる。


「よりにもよったよな、あいつ」


 一歩、踏み出す。


 視界の線が、さらに細く沈む。


 壁の向こう。

 白い霧の奥。

 紗希がいる場所。


 その間にある鉄の壁へ、脈が走っている。


 黒ではない。

 だが、裂ける。


 貫けば通る。


「……ここか」


 恭介の渦眼が、ぐるりと回った。


 一度ではない。


 二度、三度。


 黒い渦が瞳の奥で巻き、線だけの世界がさらに細く、さらに深く裂けていく。


 背中で、黒が開いた。


 翼。


 羽ではない。


 巨大な黒い翼が、肉も骨も持たない影の器官のように展開する。


 空気を掴むためではない。

 飛ぶためでもない。


 ただ、前へ進むためだけの、黒い推進力。


 黒い翼が、背後で弾けた。


 踏み込み。


 一直線。


 壁へ。


 壁を壊すのではない。


 壁が壁でいるための流れを見つけ、そこへ牙を立てる。


 そこに走る脈を、貫く。


     ◆


 内側。


 紗希の声が、白い空間に落ちる。


「人攫いの——」


 轟音、否。

 炸裂音。


 鉄が歪んだ。


 海の顔が、横へ向く。


 次の瞬間、壁が外から内へ、ひしゃげるように吹き飛んだ。


 白い霧が裂ける。


 空気が流れ込む。


 土煙。

 鉄片。

 砕けた壁の破片。


 その全部を押しのけて、黒い影が突っ込んでくる。


「センスがゼロなんだよ!!」


 紗希の声が、轟音の中で最後まで通った。


 白が割れる。


 黒い翼が、霧を裂いて広がる。


 歪んだ輪郭。


 ぐるぐると渦を巻く眼。


 恭介だった。


 紗希は、わずかに目を細める。


(……来た)


 当然のように。


 遅いとも思わない。


 ただ、確認する。


 海が、一歩下がった。


「……はは」


 小さく笑う。


 笑っているのに、声は少し掠れていた。


「何でこんなに早く来れるんだよ」


 恭介は、すぐには答えない。


 紗希を見る。


 その周囲に重なる、白い歪みを見る。


 そして、海を見る。


 静かに息を吐いた。


「……言ってもわかんねえだろ」


 一歩、踏み込む。

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