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ブラックベイン―狂暴×悪辣―  作者: 平行月
第2章 夢蝶はそこにいるか
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第34話 夢想家に映る紗希

 夢の中で、彼女は笑っていた。


 名前を呼ぼうとする。


 けれど、最初の一音だけが抜け落ちる。


 ——げは。


 違う。


 それでは足りない。


 白い光の向こうで、彼女は振り返る。こちらを見て、知らないはずの顔で笑う。


 あげは。


 ようやく、名前が戻る。


 けれど。


 顔が違う。


 声が違う。


 指先の形も、笑う時の呼吸も、記憶の中の彼女とは少しずつ違っている。


 だから、探さなければならない。


 名前に合う顔を。


 夢に合う身体を。


 彼女が、彼女として戻ってこられる器を。


     ◆


 白い。


 視界が、曖昧に溶けている。


 音が遠い。


 自分の呼吸だけが、やけに近く聞こえる。


(……あれ)


 紗希は、ゆっくりと息を吸った。


 違和感。


 空気に、何かが混ざっている。


 冷たいわけではない。熱いわけでもない。喉を塞がれているわけでも、胸を押さえつけられているわけでもない。


 けれど、吸い込んだ空気の中に、白いものが混じっている。


(これ、私の呼吸に混ざってる)


 指先を喉に当てる。


 異常はない。


 脈もある。喉も動く。声も、おそらく出る。


 なのに、吸うたびに、白いものが内側へ入ってくる。


(外じゃない)


 もう一度、息を吸う。


(入ってきてる)


 吐く。


 けれど、薄くならない。


 出ていく前に、別の形へ変わって、身体の奥に残る。呼吸を奪うためではない。肺を潰すためでもない。


 何かを、合わせようとしている。


(……なるほど)


 紗希は、白い視界の中で瞬きをした。


(殺すための霧じゃない)


 少なくとも、今は。


(形を合わせるためですね)


 白の中に、輪郭が浮かぶ。


 女。


 一つではない。


 いくつもの像が重なって、一人になろうとしている。


 髪の長さが違う。肩の線が違う。笑う時の角度が違う。どの輪郭も、どこかが欠けていて、どこかが余っている。


 それらが、紗希の上に重なろうとしていた。


(誰かを、私に重ねようとしてる)


 一瞬、感覚がずれる。


 見ている。


 見られている。


 観測している。


 観測されている。


(今、どっちだろう)


(見てる側?)


(見られてる側?)


 すぐに戻る。


(……まあ、いいか)


 構造は単純だ。


 空気に混ぜて入れる。


 内部に留める。


 そこに、像を重ねる。


(思ってたより、単純ですね)


 少しだけ、肩の力が抜けた。


 呼吸は浅い。


 体は少し重い。


 白い像が、視界の端でちらついている。


 けれど、意識はある。言葉も作れる。何より、まだ見える。


(逃げるべきなんでしょうけど)


 出口は分からない。


 それに、今逃げれば、見えるものが見えなくなる。


(どうせ、先輩来ますし)


 あの人は、こういう時に限って早い。


 理由は知らない。


 理屈も知らない。


 でも、来る。


(来るでしょうね)


 だから。


(……少しだけ、見ておこう)


 その時。


 白の向こう側で、気配が動いた。


 最初からそこにいたものが、ようやく形を持ったように。


「やっぱり、来た」


 声。


 柔らかい。穏やかで、嬉しそうな声。


 紗希は、ゆっくりと顔を上げる。


「……海、さん」


 確認するように呼ぶ。


 白の中に、海が立っていた。


 いつもの顔。


 いつもの声。


 けれど、喫茶店で見た時よりもずっと、目が遠い。


 紗希を見ている。


 見ているはずなのに、その視線は紗希の奥にある別の輪郭へ向かっている。


 捕まえた相手を見る顔ではなかった。


 ようやく、話を聞いてくれる相手が来た。


 そんな顔だった。


「怖くないの?」


 海が尋ねる。


 紗希は少し考えた。


「怖くはありますよ」


「そうなんだ」


「はい。ただ」


 紗希は、白い息を吐く。


「あなた、話したそうな顔をしているので」


 海が、少しだけ目を見開いた。


 それから、嬉しそうに笑った。


「やっぱり」


「何が、やっぱりなんですか」


「君なら、見てくれると思った」


 海の声は、ひどく優しかった。


「怖がるだけじゃなくて、ちゃんと」


 紗希は答えない。


 白い像が、また視界の端で揺れる。


 海が、ゆっくりと手を伸ばした。


 紗希の頬に、指先が触れる。


 ほんの一瞬。


 撫でるというより、輪郭を測るような触れ方だった。


 そこに熱はない。


 愛情もない。


 ただ、型に合うかどうかを確かめるような、ひどく事務的な指先。


 紗希は、露骨に顔をしかめた。


「……触らないでもらえます?」


 声には、はっきりと嫌悪が混じっていた。


 海は、はっとしたように手を引く。


「ごめん」


 謝罪は自然だった。


 けれど、その目はまだ紗希を見ていない。


 紗希の上に重なる、別の誰かの輪郭を見ていた。


 海は、静かに呟く。


「君こそが、僕の“あげは”なんだろうか」

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