第33話 不知火の伊達酔狂は、奇しくも。
レンは、端末を取り出した。
黒い画面に、白い線が走る。旧工業地帯の簡略マップ。現在位置。周辺信号。細かなノイズが、画面の端でちらついている。
「本当に、そんなもんが仕込まれてたってのか」
レンが低く呟く。
歌留多は、霧の奥を睨んだまま答えた。
「不知火は、特に何も手がかりがなかったはずなのに、私とツバキの位置を正確に把握していた」
レンの指が止まる。
「WFAとやらの装備に、位置特定機能が備わっているならば」
歌留多は続ける。
「不知火がツバキに仕掛けた、そういう装置が存在しているならば」
一拍。
「すべて、説明はつく」
レンの表情が変わった。
「……発信機か」
「名前など知らん」
歌留多は吐き捨てる。
「だが、追えるんだろう」
長い袖が、わずかに揺れる。
「ならば、利用させてもらうぞ。不知火」
その声には、焦りと怒りが混じっていた。
「お前の伊達酔狂をだ」
レンは短く息を吐き、端末を操作する。画面上のノイズが何度か乱れ、その奥から微かな反応が浮かび上がった。
「……ある」
レンの声が低くなる。
「微弱なビーコン反応。近い。休憩室側で止まってる」
「なら走れ」
歌留多は即答した。
「待て。場所は分かった。けど突っ込むな。今の霧、普通じゃない」
「普通じゃないから急ぐんだろ」
歌留多は振り返らない。
鷹宮が、重い声で言う。
「……この先だ」
霧の中を、引き返す。
足音が、妙に響いた。
さっきまでとは違う。静かすぎる。倉庫へ向かう時にはまだあったはずの音が、今はどこか遠い。古い工場の軋みも、配管の鳴る音も、白い霧に吸われている。
鷹宮の歩調に迷いはない。
だが、重かった。
歌留多は何も返さない。ただ前だけを見る。歩調は明らかに速い。
レンが、その横に並ぶ。
「……焦るな」
「焦ってない」
即答だった。
「遅いって言ってんだよ」
それだけ言って、さらに速度を上げる。
鷹宮がわずかに眉をひそめた。
休憩室の扉が見えた。
閉じたままのはずの扉。
その隙間から、白いものが漏れている。
霧。
低く、ゆっくりと、床を這うように滲み出ていた。
倉庫で爆ぜた白とは違う。
吹き上がらない。熱を含まない。床の低いところを、湿った生き物のように這っている。
「……おい」
レンが呟く。
歌留多は、もう止まらなかった。
ドアを蹴り開ける。
空気が変わった。
重い。
さっきまでより、はっきりと。
「——ツバキ!」
声が、休憩室の中へ反響した。
床に、影があった。
倒れている。
呼吸が浅い。肩が、わずかに動いている。
まだ、生きている。
「——ツバキ!」
歌留多が駆け寄る。
だが、足元で止まった。
ツバキの周囲だけ、霧が濃い。
床に沈んでいたはずの白が、そこにだけ溜まっている。流れていない。逃げてもいない。まるで、見えない器の中に閉じ込められているみたいに、ツバキの身体を囲んでいる。
歌留多の渦眼が、青白く細く巻いた。
「……なるほど」
低く呟く。
その目が、霧の中心を見る。
いや。
その奥に埋もれている、ツバキ本人を見る。
「そこか」
次の瞬間、歌留多が腕を突っ込んだ。
白の中へ。
ためらいなく、深く。
「——掴む!」
霧そのものには触れない。
その奥。
埋もれた身体の、肩口を。
衣服ごと、乱暴に掴む。
「っ、らァ!!」
一気に引いた。
白い塊の中から、ツバキの身体が引きずり出される。霧が、ぶわりと遅れて揺れた。
だが、歌留多の手は霧を掴んでいない。
掴んでいるのは、あくまでツバキだ。
引き剥がされた瞬間。
「——ッ、は……!!」
ツバキが大きく息を吸った。
喉が鳴る。
咳き込む。
浅く、乱れた呼吸が、一気に戻っていく。
歌留多はそのままツバキを自分の側へ引き寄せ、霧の滞留域から半ば投げるように外へ出した。
「……っぶなかった!」
吐き捨てる。
レンがすぐに膝をつく。
「生きてるか」
ツバキは答えない。
ただ、咳き込みながら空気を貪る。
「……ッ、は……っ……!」
肺に空気が戻る。
だが、呼吸はまだ浅い。
歌留多はツバキの肩を支えながら、霧の方を睨んだ。
残っている。
さっきまでツバキを覆っていた“それ”が。
白い塊。
空間の一部みたいに、そこに留まっている。
動かない。
流れない。
歌留多は、ツバキを引き寄せたまま、霧を睨んでいた。
白い塊は、まだそこにある。
ツバキを引きずり出したのに、消えない。
流れない。
薄くもならない。
床の上、さっきまでツバキが倒れていた場所だけに、濃い白が沈んでいる。
「……おかしいだろ、これ」
歌留多が低く言った。
レンは立ち上がる。けれど、霧には触れない。白石の死を見ていないとはいえ、今のツバキの状態だけで十分だった。
不用意に触れるものじゃない。
「……滞留してる」
ぽつりと呟く。
「流れてない」
視線を動かす。
床。
壁。
換気口。
流し台。
ロッカー。
倉庫にあったような機械はない。
壊れた加湿器も、蒸気を吐く装置もない。
なのに、霧だけが残っている。
「普通の霧じゃない」
レンの声が、少し低くなる。
鷹宮も、それを見ていた。
ツバキが倒れていた場所。
白石が死んだ場所。
その二つの床に、同じような白が沈んでいる。
レンは、ゆっくりと息を吐く。
「白石にも傷があった」
言葉が落ちる。
「ツバキちゃんにも、手首に傷がある」
歌留多が、ツバキの手首を見る。
細い赤。
そこから白い膜のようなものが、まだわずかに残っている。完全には広がっていない。けれど、そこを起点にしたことは分かる。
ツバキは呼吸を整えようとしている。だが、まだ声は出ない。咳き込みながら、空気を貪るだけだ。
レンは続ける。
「近くにいた女がどうこうじゃない」
白石が最後に残した、混濁した言葉。
傷。
中。
それらが、ここで繋がる。
「霧そのものが、傷口と呼吸に入り込んでた」
歌留多の目が、細くなる。
「中から殺してたってわけか」
誰も否定しなかった。
鷹宮の視線が、床へ落ちる。
白石が倒れていた場所。
ツバキが倒れていた場所。
そこに残る白い霧。
自分は、何を見落としたのか。
何を、誰に預けたのか。
答えは、ひとつしかなかった。
海。
その名前に辿り着いた瞬間、鷹宮の喉がわずかに詰まった。
「……馬鹿な」
鷹宮の声が、わずかに掠れた。
「そんなことが」
歌留多が、冷たく鼻を鳴らす。
「馬鹿はお前だ。ばーか」
幼い罵倒だった。
けれど、声は冷えていた。
「置いてきたんだろ」
一拍。
「あいつを」
鷹宮は返さない。
返せない。
拳だけが、ゆっくりと握られる。
レンが、静かに言った。
「……海だ」
その名が、休憩室の空気をさらに重くする。
「少なくとも、あいつはこの霧に噛んでる」
鷹宮は反論しなかった。
歌留多も、もう鷹宮を責め続けなかった。
時間が惜しい。
ツバキはまだ、浅い呼吸を繰り返している。顔色も悪い。腕に残った白い膜は薄くなっているが、完全には消えていない。
歌留多はツバキの肩を支え、乱暴にならない程度に引き寄せた。
「……死ぬなよ」
小さく言う。
ツバキは答えない。
ただ、かすかに眉を寄せる。
それが返事の代わりだった。
歌留多は顔を上げる。
白い霧の奥を見る。
そこに海がいるわけではない。
けれど、続いている。
この霧も。
白石の死も。
ツバキの傷も。
紗希が消えた倉庫の白も。
全部、どこかで繋がっている。
歌留多は、低く息を吐いた。
「……待ってろ」
一拍。
「今、行く」




