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ブラックベイン―狂暴×悪辣―  作者: 平行月
第2章 夢蝶はそこにいるか
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第32話 恭介と歌留多、その背中

 白い霧は、まだ倉庫の中に残っていた。


 ただ、長くは保たなかった。


 熱を含んだ白は、壁から剥がれるように薄れていく。床に沈んでいた霧とは違う。まとわりつくのではなく、役目を終えたガスのように、空気の中でほどけていく。


 最初に見えたのは、壊れた加湿器の破片だった。


 白い樹脂片。

 割れたタンク。

 濡れたフィルター。

 そして、床に転がった黒い球体。


 そのそばに、さっきまで紗希がいた。


 だが。


 いない。


 紗希が、消えていた。


 白く濁った霧の中。

 そこにいたはずの輪郭だけが、音もなく抜け落ちている。


 床に、ノートだけが落ちていた。


 乾いた音が、小さく響く。


「……消えた?」


 レンが、遅れて呟いた。


 鷹宮の声は低い。


「……何だと」


 だが、その反応にはわずかな遅れがあった。


 白石の死。

 ツバキへの疑い。

 歌留多への疑い。

 その直後に起きた、別の消失。


 鷹宮の論理の中に、今の現象は収まりきっていなかった。


 歌留多も、一瞬だけ動きを止めていた。


 紗希がいた場所を見る。

 落ちたノートを見る。

 それから、鷹宮を見る。


「……今のが」


 声が低い。


「私とツバキの仕業に見えるのか?」


 鷹宮は答えない。


 答えられなかったのではない。まだ、答えを選んでいる。


 その沈黙の横で、恭介だけが動かなかった。


 白く濁った空気を、ゆっくり吸い込む。


 鼻ではない。

 目でもない。


 もっと身体の奥で、何かを確かめているようだった。


「……そうか」


 恭介は、低く呟く。


「攫ったのか」


 一拍。


「アレを。……マジか、アレをか」


 恭介の口角が、わずかに上がった。


 レンが眉を寄せる。


「……何笑ってんだよ」


 恭介は、落ちたノートから視線を外さないまま、片手を上げた。


 人差し指を、口元へ。


 まるで紗希が、何かをはぐらかす時にやるような仕草だった。


「さあて、なんでしょう?」


 わざとらしく言う。


 一拍置いて、鼻で笑った。


「……なんてな」


 レンは何か言いかけたが、飲み込んだ。


 恭介のその笑いが、怒りにより込み上げるようなものではないことだけは分かった。


 では何なのか。


 そこまでは、分からない。


 歌留多が、鷹宮へ一歩詰める。


「案内しろ」


 短く言った。


「この目で、ツバキの身の安全を確認させろ」


「まだ、お前の疑いが晴れたわけではない」


 鷹宮は低く返す。


 歌留多の渦眼が、フードの奥で細く光った。


「今そんなこと言ってる場合か」


 一拍。


「お前が置いてきたんだろうが」


 鷹宮の表情が動く。


 レンが静かに口を挟んだ。


「……鷹宮」


 視線は逸らさない。


「行けば分かるはずだ」


 一拍。


「自分が置いてきた状況が、どういう事態を招いてるか」


 倉庫の奥で、霧がまた少し薄れる。


 その向こうに、二つの道があった。


 紗希が消えた方角。


 ツバキを置いてきた休憩室。


 恭介が、ゆっくりと歩き出す。


「話が長えな! ……俺は行く」


 歌留多がそちらを見る。


「お前、場所が分かるのか」


 恭介は振り返らない。


「さあな」


 それだけ言って、白い霧の奥へ足を向ける。


 歌留多は歯を食いしばり、もう一度、鷹宮を睨んだ。


「どいつもこいつも、勝手だ」


 歌留多は、鷹宮を睨んでいた。


 紗希が消えた。

 ツバキも危ないかもしれない。


 分かっている。

 分かっているのに、怒りが喉元で引っかかっている。鷹宮の硬い顔を見るたびに、言葉が先に出そうになる。


「勝手に疑って、勝手に連れてって、勝手に置いて行った」


 歌留多の声は低い。


「本当に大人か!」


 鷹宮はすぐには動かない。


 歌留多はさらに一歩、詰めようとした。

 その時だった。


「……くだらねぇな」


 横から、低い声が差し込んだ。

 歌留多が振り向く。


「……あ? なんだ、オマエ」


 恭介は、もう半分ほど霧の奥へ身体を向けていた。けれど、声だけは倉庫の中へ投げている。


「そんな頭の固いやつにかかずりあってる暇があるなら」


 一拍。


「動けばいいだろうが」


 歌留多の目が吊り上がる。


「お前に関係ないだろ!」


「関係あるかねえかじゃねえよ」


 恭介は振り返らない。


「ムカつく奴と下らねぇ口喧嘩すんのと」


 足を止める。


「大事な奴取り戻しに行くの」


 わずかに首だけを傾けた。


「どっちが先だって言ってんだよ、俺はよ」


 歌留多は、言葉を失った。

 反射的に噛みつこうとした口が、開いたまま止まる。


 ツバキ。


 白い霧の向こうに残された、口の悪い影。

 今、何をされているのか分からない。


 それを思い出した瞬間、歌留多の怒りは、鷹宮へ噛みつくための形を失った。


 恭介はそれ以上何も言わない。

 ただ、霧の奥へ歩き出す。


「じゃーな」


 短く残して。


 歌留多は歯を食いしばり、鷹宮へ向き直った。


「案内しろ」


 今度の声には、余計な噛みつきがなかった。


「ツバキのところへ」


 レンが鷹宮を見る。


「行くぞ。ここで言い合ってる場合じゃない」


 鷹宮は、まだ一瞬だけ歌留多を見ていた。


 疑いは消えていない。

 だが、紗希の消失と、海に任せたツバキのことが重なっている。確認しない理由は、もうなかった。


「……分かった」


 低く答える。


「ただし、単独行動は許可しない」


「今はそれでいい」


 歌留多は即答した。


 そして、二人の足が別々の方角を向いた。


 恭介は、紗希が消えた霧の奥へ。

 歌留多は、ツバキを置いてきた休憩室の方へ。

 背中合わせのまま、二人はほとんど同時に口を開いた。


「……ったく、ムカつくガキだ」


「あいつ、いちいち癇に障る奴だな」


 恭介が鼻を鳴らす。


「頭でっかちなようで、しっかり中身ガキだし」


 歌留多が長い袖を揺らしながら吐き捨てる。


「馬鹿なくせに、何も分かってないくせに、説教しやがって」


「何より顔がいけねえ。理屈じゃねえ、本能的にムカつく」


「蛇みたいな眼ぇしやがって。絶対、熱血ぶった冷血漢だろ、あれ」


 そして。


 互いに背を向けたまま、二人は同じ言葉を吐いた。


「まあ、でも」


「まあ、でも」


 霧の奥へ進む足音と、休憩室へ戻る足音が、別々の方向へ離れていく。


 やり遂げるんだろうなってことだけは分かる。


 だからこそ、ムカつく。


 歌留多は振り返らなかった。


「おい、あんたレンとかいったな」


 急に呼ばれ、レンが目を瞬かせる。


「……俺?」


「端末を出せ」


「端末?」


「ツバキの袖口に、何か仕込まれてたはずだ」


 その言葉で、レンの表情が変わる。


 歌留多は続けた。


「おそらく、不知火が触った時があったはずだ」


 一拍。


「追えるんだろ」


 フードの奥で、歌留多の渦眼が青白く細く巻いた。


「今すぐにだ!」

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