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ブラックベイン―狂暴×悪辣―  作者: 平行月
第2章 夢蝶はそこにいるか
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第31話 「オーディション」

 少しだけ、時間は遡る。


 鷹宮が倉庫へ戻るため、休憩室を出た直後。


 ドアの向こうで、足音が遠ざかる。


 一定のリズム。


 迷いのない歩調。


 白石が死んだ直後だというのに、その足取りは乱れていなかった。怒りも、焦りも、恐怖も、外には漏らさない。鷹宮という男は、そういうふうにできているのだと、ツバキは思った。


 やがて、その足音も霧の中へ消える。


 休憩室に、静寂が戻った。


 天井近くの時計が、乾いた音を刻んでいる。


 カチ。


 カチ。


 カチ。


 床には、白石が倒れていた。


 もう動かない。


 首元から顎にかけて、皮膚が白く変色している。火傷のようにも見える。けれど、焼けた匂いはしない。熱で焦げたのではなく、何か別のものに色を奪われたような白さだった。


 ツバキは、それを見ないようにして息を吐いた。


「……行ったか」


「うん」


 すぐ後ろから、声がした。


 ツバキの肩が、わずかに揺れる。


 振り向く。


 海が立っていた。


 さっきと同じ場所。


 同じ距離。


 同じ顔。


 穏やかで、控えめで、人畜無害そうな顔。


 なのに。


 何かが、違う。


 ツバキは、壁際のロッカーへ背中を預けたまま、細く息を吐く。右手首が痛む。白石とぶつかった時に棚板で擦った傷だ。細い赤が、まだ肌の上に残っている。


「……あんた」


 ツバキは目を細めた。


「さっきから、変だよ」


 海は首を傾げた。


「そう?」


 いつもの調子だった。


 少し困ったように笑う。怒らず、慌てず、相手に合わせるような柔らかい声。


 けれど、その目はツバキを見ていなかった。


 正確には、ツバキの輪郭を通り越して、その向こうにある何かを見ている。


 人間を見る目ではない。


 置物を見る目でもない。


 まだ形になっていない何かを、そこに重ねようとしている目だった。


「……何見てんのよ」


 ツバキが低く言う。


 海は答えない。


 白石の死体へ、ちらりと視線を向けた。


「見えてたんだね」


「は?」


「夢」


 海が、ぽつりと言った。


 ツバキの眉が寄る。


「……何の話だよ」


「倒れてる人と」


 海は、指先で空気をなぞる。


「その近くに立ってる女」


 ツバキは反射的に白石の死体を見る。


 白石が何を見たのか、彼女は知らない。

 報告の途中で壊れていく白石の声は聞いていた。

 女の口調が混ざり、白石ではない言葉が出て、最後には霧に包まれて死んだ。


 だが、夢の中身までは知らない。


 それを、海は知っているように話している。


「……あんた、何を知ってる」


 ツバキの声が低くなる。


 海は、少しだけ笑った。


「でも、惜しいな」


「何がだよ」


「近くにいたんじゃないよ」


 一拍。


 海の声は、やさしかった。


「もっと、逃げられないところにいた」


 その言葉の意味が、すぐには分からなかった。


 ただ、背筋に冷たいものが走る。


 ツバキはロッカーから背を離そうとした。


 その瞬間。


 手首が、冷えた。


「……っ」


 傷口。


 白石とぶつかった時にできた、細い赤。


 そこへ、床を這っていた霧が触れていた。


 その瞬間、甘い匂いがした。


 花のような。

 果実のような。

 けれど、どこか熟れすぎて、腐る一歩手前みたいな甘さ。


 ツバキは、眉をひそめた。


「……甘い」


 海が、ほんの少しだけ目を細める。


「うん」


「彼女、そういう匂いが好きだったから」


 いや、触れているだけではない。

 寄ってきている。


 倉庫で噴き出した霧とは違う。

 吹き上がるのではなく、這っている。低く、静かに、意思があるのかないのか分からない速度で、床の上を滑ってくる。


 白い霧が、ツバキの手首にまとわりつく。


 濡れた感触。


 冷たい。


 だが、冷たいだけではない。


 傷口の周りの皮膚が、内側から湿っていくような感覚がした。


「……何、これ」


 ツバキは手を振ろうとする。


 だが、霧は離れない。


 細い白が、手首から指先へ流れる。肌の上を這うだけではない。傷の内側を探るように、薄く沈み込んでくる。


 息が、浅くなった。


「……っ」


 吸う。


 吸えない。


 肺が途中で止まる。


 喉に何か詰まっているわけではない。首を絞められているわけでもない。胸を押さえつけられているわけでもない。

 それなのに、空気が入ってこない。


 ツバキは喉に手を当てた。


 何もない。


 何もないのに、呼吸ができない。


「……あんた……!」


 声にならない。


 海は動かない。


 近づきもしない。

 手を伸ばしもしない。

 能力を使っているような仕草もない。


 ただ、見ている。


 ツバキの手首にまとわりつく白い霧を。


 ツバキの呼吸が浅くなっていく様子を。


 観察している。


「何、して……」


 ツバキは、どうにか言葉を押し出した。


 海は、静かに首を振る。


「何もしてないよ」


 やさしい声だった。


「もう、ここにあるだけ。……勝手に探すんだ、入り口を」


 床を這う白い霧が、ツバキの足元へ広がっていく。


 白石の死体の周囲に残っていた霧。

 休憩室の床に沈んでいた霧。

 鷹宮が見落とし、ツバキが気づかず、海だけがその性質を知っている霧。


 それが、ツバキの傷に寄っている。


 ツバキは壁に手をついた。

 指先に力が入らない。

 呼吸が浅い。

 視界の端が、白く滲む。


 海は、微笑んだまま言う。


「だから、動かない方がいいよ」


 時計の音だけが、休憩室に響いていた。



 カチ。


 カチ。


 カチ。


 その音が、妙に遠かった。


 白い霧は、ツバキの手首から離れなかった。


 むしろ、細い傷を起点にして、少しずつ濃くなっていく。


 皮膚の上を這っているだけではない。

 白いものが、傷の内側に触れている。


 そう感じた瞬間、ツバキの背筋が粟立った。


「……っ」


 息を吸う。


 浅い。


 もう一度、吸う。


 やはり、入ってこない。


 肺の途中で、空気が止まる。喉も、胸も、塞がれてはいない。なのに、呼吸だけが途中で折れて、身体の奥へ届かない。


 白い霧が、手首から指先へ広がった。


 肌の色が変わっていく。


 赤く焼けるのではない。

 冷たく凍るのでもない。


 ただ、色を抜かれたみたいに、白くなる。


「……やめ、ろ……」


 声はかすれた。


 海は答えない。


 ただ、見ている。


 ツバキの手首。喉元。頬。呼吸の浅さ。霧がどこへ寄り、どこで止まり、どこから崩れるのか。


 その目は、心配している人間のものではなかった。


 観察している。


 ツバキは、その視線に気づいて、喉の奥で低く唸った。


「……あんた……見てる、だけかよ……」


「うん」


 海は、あまりにも自然に頷いた。


「見てる」


 白い霧が、ツバキの足元で揺れる。


 床を這う霧の一部が、ゆっくりと持ち上がる。薄い糸のように、傷口から腕へ、腕から肩へ、肩から喉元へ。まとわりつくたび、ツバキの輪郭が少しずつ白く濁っていく。


 まるで、透明な膜を一枚ずつ重ねられているようだった。


 蛹。


 その言葉が、頭の奥に浮かぶ。


 ツバキは歯を食いしばり、動こうとした。けれど、膝に力が入らない。ロッカーに背を預けたまま、身体がずるりと沈む。


 その輪郭に、何かが重なった。


 女の影。


 白い霧の中に、ほんの一瞬だけ、知らない女の横顔が浮かんだ。


 ツバキの顔ではない。

 ツバキの髪でもない。

 ツバキの声でもない。


 誰かの輪郭が、ツバキの上へ重ねられようとしている。


 だが、合わない。


 白い影は、頬のあたりで歪む。喉元でぶれる。指先まで伸びかけて、そこで崩れる。


 重ならない。


 霧が、静かにほどける。


「……んー」


 海が、困ったように首を傾げた。


 その表情だけなら、店で注文を間違えた時のような、軽い困惑に見えたかもしれない。


「重ねてみたけど」


 一拍。


「やっぱり、ダメだね」


 ツバキは、睨むことしかできない。


 海は、ツバキを見ているようで、やはり見ていなかった。


「傷からは入る。でも、奥まで合わない」


 彼女という一人の人間ではなく、そこに重ねようとした別の輪郭の失敗だけを見ていた。


「君じゃ、合わない」


 その言葉は、ひどく静かだった。


 怒りもない。

 失望すら薄い。


 ただ、試した結果を確認しただけの声。


 ツバキの指先が、ロッカーの縁を掻く。爪が金属を擦り、嫌な音を立てた。


「……ふざ、けんな……」


 声はほとんど出なかった。


 海は、そこでようやくツバキの顔を見た。


「怒るんだ」


 少しだけ意外そうに言う。


「でも、違うものは違うから」


 白い霧が、ツバキの手首をゆるく包んでいる。完全に呑み込むでもなく、離れるでもない。半端なところで止まっている。


 海はその状態を確かめてから、ふと思い出したように視線を遠くへ向けた。


「さっきの子の方がいいな」


 ぽつりと、言った。


 ツバキの瞳が、わずかに見開かれる。

 誰のことか、すぐに分かった。

 倉庫に残っている、あの女子高生。


 灯紗希。


「あの子なら」


 海は、ひどく穏やかな声で続ける。


「入れてくれそうだ」


 一拍。


「向こう側のものを、ちゃんと」


 意味は分からない。

 分からないのに、嫌なことだけは分かった。


 ツバキは身体を起こそうとする。だが、肺がついてこない。息が浅い。手首から広がる白い膜が、少しだけ喉元へ移っている。


「……やめろ……」


 やっと出た声は、ひび割れていた。

 海はしゃがみ込む。

 視線の高さを合わせる。


「大丈夫」


 やさしい声だった。


「すぐには死なないよ」


 海の指先が、ツバキには触れない距離で止まる。床に沈んだ霧だけが、ゆっくりと揺れている。


「止まってるだけだから」


 その言葉が、慰めなのか、説明なのか、観察結果なのか、ツバキには分からなかった。


 海は立ち上がる。


 もう、ツバキへの興味は薄れていた。


「じゃあ、次」


 その背中に、白いものが揺れた。


 羽。


 能力開示の時に見せた、半透明の白い羽に似ていた。

 ただし、それはほんの一瞬だけ形を取り、すぐに薄い霧へほどける。


 床を這う白とは違う。

 軽く、薄く、海の輪郭だけをぼかす霧。

 海はその中へ、静かに溶けた。


「……待、て……」


 ツバキは手を伸ばそうとした。


 指は動いた。


 だが、それだけだった。

 海の輪郭は、もう休憩室の出口へ向かっている。


 振り返らない。

 足音さえ、ほとんどしない。

 やがて、その姿も白い空気の中へ消えた。


 残されたのは、床に沈む白い霧と。


 息を浅くしたまま、ロッカーの下へ崩れ落ちるツバキだけだった。

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