第30話 ツバキの時にも、そうやったのか
歌留多は、フードの奥で小さく首を傾げた。
鷹宮は、その反応を見逃さない。
怯えではない。
混乱でもない。
弁解でもない。
歌留多は、ただ聞いていた。
まるで、自分へ向けられた疑いを、ひとつの仮説として眺めているみたいに。
鷹宮は言葉を続ける。
「白石は、夢の中で女の輪郭を見た」
倉庫の床近くで、薄い霧が揺れる。
「その部屋にはツバキがいた。ツバキには、位置をずらす能力がある。そして、お前には遠距離から物理干渉する能力がある」
歌留多の袖が、わずかに揺れた。
鷹宮は続ける。
「透明な腕。怪力。対象を掴み、投げ、引きずるだけの干渉力。お前は、それを持っている」
「ふむ」
歌留多は短く応じる。
「それで?」
「二つが揃えば、白石の死亡は説明できる」
レンが眉をひそめた。
「待て」
短く割って入る。
「言いたいことは分かる。ツバキの位置移動と、歌留多の遠隔干渉。射程はともあれ、それを組み合わせれば、休憩室の外からでも何かできるかもしれない」
一拍置く。
「けど、それは“できる”って話だろ。“やった”って証明にはなってねえ」
鷹宮の視線がレンへ動く。
「証明を待つ間に、次が出る」
冷たい声だった。
「白石は死んだ。不知火も死んだ。現象を成立させうる能力者がいるなら、その可能性を潰すのが先だ」
「だからって、いきなり決め打ちかよ」
「決め打ちではない。最優先で疑うべき対象を絞っている」
レンは舌打ちした。
鷹宮の言っていることは乱暴だ。
だが、完全に筋が通っていないわけではない。
それが、余計に厄介だった。
鷹宮は、改めて倉庫内を見渡す。
「遠距離から物理干渉できる者が、他にいるか」
沈黙が落ちた。
レンが、わずかに口を開く。
「……俺の〈蜃〉は斬るだけだ。掴む力じゃない」
言ってから、レンは小さく舌打ちした。
その否定が、かえって鷹宮の視線を歌留多へ導くことに気づいたからだった。
恭介は壁際で腕を組んだまま、面倒くさそうに鼻を鳴らす。
「俺は知らねえぞ。殴るか喰うか突っ込むかだ」
「それはそれで大概なんだよ」
レンが反射的に返す。
だが、場の空気は緩まない。
鷹宮は歌留多を見る。
「……いないだろう」
歌留多は、まだ動かない。
フードの奥の目だけが、じっと鷹宮を見ている。
「お前は、能力の本質を説明していない。本人の口から説明をされていないのだよ」
鷹宮が言う。
「能力開示の場で出たのは、恭介の証言だけだ。でかくて透明な腕。怪力。遠隔干渉。それだけだ」
「ほう」
「ツバキも同じだ。自分の影の縁から、別の影の縁へ移動する。そう説明した。だが、制限も本質も明かしていない」
鷹宮の声が、さらに低くなる。
「二人とも、肝心な部分を伏せている」
歌留多が、ほんの少しだけ笑った。
「能力者が、自分の能力を全部ぺらぺら喋ると思ってるのか?」
「思っていない」
即答だった。
「だから疑っている」
「なるほどな」
歌留多は、もう一度そう言った。
理解した声ではない。
相手の理屈がどこへ向かっているのか、その道筋を見終えた声だった。
その横で、紗希は鷹宮を見ていなかった。
壊れた加湿器の前にしゃがみ込み、床に散った破片を指先で動かしている。白い樹脂片。濡れたフィルター。割れたタンクの欠片。そして、その中に転がる小さな黒い球体。
鷹宮の声だけが、背後から届いている。
「位置をずらす能力」
「遠隔から掴む能力」
「二つが揃えば、白石の死は成立する」
紗希は、黒い球体を指先で少しだけ転がした。
「それは早計な気もするんですけどねー」
ぽつりと漏らした声に、鷹宮の目が動く。
「何が言いたい」
「いえ、まだ何も」
紗希は視線を上げない。
「ただ、できるかどうかと、やったかどうかは別なので」
レンがわずかに目を細める。
同じことを、自分も言った。
だが紗希の視線は、鷹宮にも歌留多にも向いていない。
彼女が見ているのは、壊れた加湿器の中身だった。
鷹宮は短く切る。
「憶測なら後にしろ」
「はいはい。聞き流してください」
軽く返す。
だが、紗希の指先は止まっていた。
傷。
中。
白石が残したという、意味の通らない言葉。
その二つが、壊れた加湿器の黒い球体と、床に沈む霧の匂いと、どこかで噛み合いかけている。
けれど、まだ形にはならない。
言葉にするには、少し足りない。
鷹宮は、紗希から視線を外した。
今、見るべきはそこではない。
歌留多だ。
「歌留多」
鷹宮が名を呼ぶ。
「お前の能力で、白石へ干渉できたか」
倉庫の空気が、重くなる。
レンが息を詰める。
紗希の指先が、黒い球体の上で止まる。
恭介は無言のまま、歌留多を見る。
歌留多は、フードの奥で静かに笑った。
「……なるほど」
一拍。
「そういう見方になるわけか」
声は軽い。
だが、軽さの底に冷たいものが混じっていた。
鷹宮は銃を抜いていない。まだだ。だが、その姿勢はすでに臨戦に近い。歌留多が一歩でも妙な動きをすれば、すぐに制圧へ移れる距離と角度を測っている。
レンはそれに気づいていた。
紗希も、壊れた加湿器の破片を見たまま、耳だけは会話へ向けている。
恭介は壁際で腕を組み、つまらなさそうに眺めていた。
歌留多は言う。
「私が疑われるのは構わん」
その一言に、倉庫の空気がわずかに止まった。
歌留多は続ける。
「お前から見れば、確かに私とツバキが怪しいんだろう」
鷹宮の目が細くなる。
歌留多は、相手の推理そのものを否定しなかった。
逃げもしない。怒鳴りもしない。
ただ、受け止めた。
そのうえで、首を少しだけ傾ける。
「だが、私から見れば違う」
フードの奥の目が、鷹宮を真っ直ぐに見る。
「怪しいのはむしろ、鷹宮。海。お前たち二人だ」
レンの視線が動いた。
海。
その名前で、脳裏に昼間の喫茶店がちらつく。
紗希を測るように見ていた目。
能力開示の時に見せた、白い半透明の羽。
偵察用だと言った、やけに薄い説明。
引っかかりはあった。
だが、まだ形にはなっていない。
歌留多は続ける。
「白石が死んだ場所にいたのは、お前たちだ」
一歩も動かず、言葉だけで詰める。
「ツバキを拘束したのも、お前だ」
鷹宮は黙っている。
「それで、今ツバキを見ているのは誰だ」
問い。
短い。
だが、鋭かった。
鷹宮は答えた。
「海だ」
その名が出た瞬間、紗希の指先が止まった。
黒い球体の上で、わずかに。
海。
あの、白い羽を出した男。
喫茶店で、自分を妙な目で見ていた男。
そして今、鷹宮が「信頼できる」と判断している男。
鷹宮は続ける。
「信頼がおけるのはもう、彼しかいない」
紗希は、視線を上げなかった。
だが、胸の内で小さく引っかかる。
彼しかいない。
その言い方が、ひどく危うく聞こえた。
歌留多の表情が、そこで初めて変わった。
笑みが薄れる。
「お前」
低い声だった。
「よりにもよって、ツバキと海を二人きりにしたのか」
倉庫の空気が、さらに重くなる。
鷹宮は答えない。
歌留多が、一歩前へ出た。
「凄く心配だ。ツバキのところへ行く」
「止まれ」
鷹宮の声が落ちる。
歌留多は止まらない。
いや、正確には、一瞬だけ足を止めた。
だが、視線は逸らさない。
「退け」
短く言う。
その瞬間、金属音がした。
鷹宮の手に、拳銃があった。
黒い銃口が、歌留多へ向く。
レンが即座に動いた。
「鷹宮、銃は下ろせ」
声が鋭くなる。
「彼女は、せいぜいが容疑者だろう。少し頭冷やせよ」
「これ以上の単独行動は許可しない」
鷹宮は銃口を下げない。
「抵抗するなら、制圧する」
「だから、それが早えって言ってんだよ」
レンの声にも苛立ちが混じる。
だが、鷹宮は揺れない。
白石が死んだ。
その事実だけが、鷹宮の背骨を冷たく固めている。
歌留多は銃口を見た。
そして、ゆっくりと鷹宮を見る。
「……ツバキの時にも、そうやったのか」
フードの奥で、歌留多の渦眼が青白く渦を巻いた。
鷹宮は答えない。
答えないことが、答えになった。
歌留多の長い袖が、わずかに揺れる。
見えない何かが、その奥で蠢いたように見えた。
レンが息を呑む。
「歌留多、待て」
言葉が届くより先に、別の音がした。
小さな、水音。
紗希の指先が止まる。
壊れた加湿器の破片。
散らばった白い樹脂片。
濡れたフィルター。
その中に転がっていた、黒い球体。
その表面に、白い水滴が浮いていた。
さっきまで、ただ濡れているだけに見えた。
違う。
内側から、湿っている。
紗希が、小さく息を呑む。
「……あ」
恭介が振り向いた。
「何だよ」
次の瞬間。
白い霧が、爆ぜた。
床を這う霧ではなかった。
ガスのように、壊れた加湿器の破片から吹き上がる。熱を含んだ白が、紗希の輪郭を最初に呑んだ。
レンが叫ぶ。
「紗希ちゃん!」
声は白に吸われる。
歌留多の渦眼が揺れる。
鷹宮の銃口が、一瞬だけ迷う。
恭介が踏み込もうとした。
だが、白が速い。
破片から噴き上がった霧は、床へ、壁へ、天井へ、一気に広がる。薄く沈んでいた霧とは違う。まとわりつくのではなく、視界そのものを塗り潰すように膨張していく。
熱を含んだ白が、倉庫全体を覆った。
何も見えなくなる。
紗希のいた場所も。
黒い球体も。
歌留多も、鷹宮も、レンも、恭介も。
すべてが、白に呑まれた。




