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ブラックベイン―狂暴×悪辣―  作者: 平行月
第2章 夢蝶はそこにいるか
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第29話 思惑の連鎖、そして衝突

 鷹宮たちが倉庫を出ていったあとも、白い霧は完全には消えなかった。


 天井近くまで満ちていた白は、今は床の低いところに沈んでいる。だが、薄くなったからといって安全になったわけではない。足元を這うように残った霧は、濡れた息みたいに倉庫の床へまとわりついていた。


 不知火の死体は、まだそこにある。


 燃えてはいない。

 裂かれてもいない。

 ただ、息だけを奪われたように、床の上で動かなくなっている。


 レンは死体を一瞥し、それから鷹宮たちが消えた方角へ目を向けた。


「……遅くねえか」


 独り言に近い声だった。


 恭介は壁際で腕を組み、面倒くさそうに舌を鳴らす。


「知らねえよ。夢でも見てんだろ」


「実際そうなんだよ」


「じゃあ寝坊だ」


「そういう話じゃねえ」


 レンが額を押さえる。その横で、歌留多はフードの奥から扉の方を見ていた。


 ツバキがいない。


 本人は平気だと言っていた。こっちも、見張る側に回るだけだと。だから歌留多は何も言わなかった。


 言わなかっただけで、気にしていないわけではない。


 長すぎる袖の中で、指が小さく動く。


「……つまらん」


 ぽつりと、歌留多が言った。


「何がだよ」


 レンが聞くと、歌留多はふんと鼻を鳴らす。


「ツバキがいない」


「素直だな」


「うるさい。別に心配してるわけじゃない。見張るやつがいなくなって退屈なだけだ」


「はいはい」


「はいはいじゃない!」


 歌留多が小さく跳ねる。だが、その声はいつもより少しだけ上滑りしていた。


 紗希は、そのやり取りを聞きながら、倉庫の奥を見ていた。


 霧。

 床。

 死体。

 壁際に置かれた、古びた機械。


 視線が、そこで止まる。


「……あれ」


 小さく呟いた。


 レンが振り向く。


「どうした?」


「これ、普通の倉庫に置くものですかね」


 紗希が示したのは、壁際に置かれた小型の加湿器だった。


 古びている。側面は煤け、タンク部分には細かな傷が入っている。工場の備品として置かれていた、と言われればそう見えなくもない。だが、周囲の床だけが不自然に湿っていた。


 白い霧も、そこだけ少し濃く沈んでいる。


 レンが近づき、眉をひそめた。


「……加湿器か?」


 歌留多もひょこひょこと寄ってくる。袖に隠れた手を口元へ当て、いかにも考え込んでいる風に首を傾げた。


「……なるほど?」


 一拍置いて、得意げに言う。


「つまり、霧を吐く機械だな」


「それは見りゃ分かる」


 レンが即座に返す。

 歌留多はむっとした。


「最後まで聞けよ。ここから私の知的考察が始まるところだったんだぞ」


「じゃあ続けてくれ」


「うむ」


 歌留多は加湿器を覗き込み、数秒黙った。


「……分からん!」


「早いな」


「機械のことはツバキの方が詳しい」


 その名を出した瞬間、歌留多はほんの少しだけ口を閉じた。


 紗希は膝を折り、加湿器の近くにしゃがみ込む。機械の外側に指を近づけるが、まだ触れない。まず周囲を見る。床の濡れ方、霧の沈み方、コードの有無、タンクの中身。


「壊さない方がいいですね。証拠品っぽいですし」


「だな」


 レンが頷く。


「下手に動かすと、何が起きるか分からねえ」


「そもそも、これが本当に原因なのかもまだ分かりませんし」


 紗希がそう言った瞬間だった。

 壁際で黙っていた恭介が、心底うんざりしたように顔をしかめる。


「っだー、もう!」


 短く吐き捨てた。

 レンが嫌な予感を覚えて振り返る。


「おい、待て」


 恭介は待たなかった。


「霧だとか水蒸気だとかが悪さしてんだろ?」


 大股で近づく。


「こんなん怪しいに決まってんじゃねえか。何悠長にやってんだ、お前ら」


「待てって言ってんだろ!」


 レンが止めるより早く、恭介の足が加湿器を蹴り飛ばした。


 鈍い音がした。


 壁際に置かれていた機械が横倒しになり、タンクが割れる。水が床へ広がり、白い樹脂片と濡れたフィルターがばらばらと散った。


 歌留多が目を丸くする。


「野蛮なやつだなー!」


 すぐに、袖をばたつかせて抗議した。


「普通、調べてから壊すんだぞ! 文明人なら!」


「壊したら中身見えるだろ」


「発想が原始人!」


 レンも頭を抱えた。


「証拠品って言葉、知ってるか?」


「知らねえ」


「知らねえで済むか!」


 恭介は悪びれない。むしろ、壊れた加湿器を顎で示した。


「で、どうなんだよ。見えただろうが」


 紗希は、割れた機械の前で数秒沈黙していた。

 それから、小さく息を吐く。


「まあ、壊したら中身は見られますから」


「おい紗希ちゃん。そこ甘やかしちゃ駄目だろ」


「……先輩の判断、雑なのにたまに効くんですよね」


 恭介が鼻を鳴らす。


「効いてんじゃねえか」


「まだ効いたとは言ってません」


 紗希はそう返しながら、割れた破片へ視線を落とした。


 水に濡れた樹脂片。

 フィルター。

 細いチューブ。

 黒いコードの切れ端。


 その中に、小さな黒い球体が転がっていた。


 水位センサーの部品にも見える。

 浮き玉にも見える。

 ただの黒い樹脂にも見える。


 だが、紗希の視線はそこで止まった。


「……これ」


 指先で、軽く転がす。


「普通の部品ですかね」


 レンが覗き込む。


「分からん。加湿器の中身なんて詳しくねえし」


 歌留多もしゃがみ、フードの奥からじっと見る。


「黒いな」


「はい」


「丸いな」


「はい」


「怪しいな」


「それはまあ」


 歌留多は胸を張った。


「……分からん!」


「でしょうね」


 紗希は苦笑もせず、黒い球体をもう一度転がした。表面には、微かな湿り気が残っている。水に濡れているだけ、と言われればそれまでだ。


 それでも、どこか引っかかった。


 恭介は興味をなくしたように、少し離れる。


「何がそんなにおもしれーんだよ。壊れたガラクタだろ」


「壊れたからこそ、見えるものもあるんですよ」


「知らねえよ」


 恭介は壁際へ戻りかける。だが、完全には背を向けない。倉庫の入口側と、紗希のいる位置。その両方を雑に視界へ入れられるあたりで足を止めた。


「まあ、これはあとでじっくり観察することにして、と」


 紗希がそう言って、ハンカチで球体を包み込んだ。


 その時だった。


 霧の向こうから、足音が聞こえた。


 一定のリズム。

 迷いのない歩調。

 さっき出て行った時と同じ、無駄のない足運び。


 けれど、戻ってきた数が違う。


 レンが顔を上げる。


「……鷹宮」


 霧の奥から、鷹宮が姿を現した。


 一人だった。


 白石はいない。

 海もいない。

 ツバキもいない。


 歌留多の視線が、鷹宮の背後へ向く。そこにツバキの姿がないことを確認した瞬間、フードの奥の目がわずかに細くなった。


 紗希は、壊れた加湿器の前にしゃがんだまま、視線だけを上げる。


 レンが一歩前に出た。


「白石はどうした」


 鷹宮は、すぐには答えなかった。


 顔色は変わっていない。

 姿勢も崩れていない。

 だが、空気だけが違う。


 白石が隣にいる時の鷹宮ではなかった。


「白石はやられた」


 短く、言った。


 倉庫の中の空気が止まる。


 レンの表情から、軽さが消えた。


「……やられたって」


「死んだ」


 鷹宮の声は揺れなかった。


「調査中に、だ」


 歌留多が口を閉じる。


 恭介は眉を動かしただけだった。白石への感情が全くないわけではない。ただ、今の恭介にとって、その死はまだ遠い場所の出来事だった。


 紗希だけが、黒い球体に触れていた指を止める。


「休憩室で何があった」


 レンが低く問う。


 鷹宮は倉庫内を一度見渡した。


 恭介。

 レン。

 紗希。

 歌留多。


 最後に、歌留多で視線が止まる。


「白石は〈分岐夢〉を使った。条件を見るために」


 鷹宮は淡々と説明する。


「見えたのは、この休憩室に近い場所。倒れた人間。呼吸できず、床に伏す影。そして、その近くに立つ女の輪郭」


 歌留多は黙っている。


「夢から覚めたあと、白石は報告した。近くにいた女が原因ではない、とも言った。だが、その発話は途中から混濁した」


 レンが唇を噛む。


「混濁?」


「別人の言葉が混じった。口紅、映画、待ち合わせ、蛹。意味の通らない言葉だ」


 一拍。


「その中に、傷だの、中だのという言葉もあった。だが、証言として扱うには弱い」


 紗希の指先が、黒い球体の上で止まった。


 傷。

 中。


 小さく、胸の内で反芻する。


 鷹宮は続けた。


「白石はその直後、死亡した。白く変色し、呼吸を奪われた。現象としては、不知火の死に近い」


「……ツバキは」


 歌留多が、低く言った。


 鷹宮は即答しない。


 その一拍が、歌留多の表情を変えた。


「ツバキはどうした」


「拘束した」


 鷹宮は言った。


「現時点で、最も近い位置にいた容疑者だ」


 歌留多の長い袖が、ぴたりと止まる。


 レンが割って入った。


「待て。ツバキがやったって言うのか」


「断定はしていない」


 鷹宮の声は冷たい。


「だが、疑いを外す材料はない」


「海は?」


 レンが問う。


「海に監視させている」


 歌留多の目が、さらに細くなる。


 紗希もまた、破片を見たまま、わずかに眉を寄せた。


 海に。

 監視させている。


 その言い方が、どこか引っかかった。


 鷹宮は歌留多へ視線を戻す。


「白石は、死の直前に女の輪郭を見た」


 淡々と、積み上げる。


「その場にはツバキがいた。ツバキには位置をずらす能力がある。そして歌留多。お前には、遠距離から物理干渉する能力がある」


 倉庫の白い霧が、床近くで揺れる。


「二つが揃えば、この現象は説明できる」


 鷹宮は目を瞑り、顔を伏せた。

 そして右手で目元を覆い、深く息を吐いた。


「……そうだろう?」


 開眼し、その視線が歌留多に止まった。


 歌留多は、フードの奥で小さく首を傾げる。


「……ふん、なるほどな」


 その声は、いつもより少しだけ低かった。

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