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ブラックベイン―狂暴×悪辣―  作者: 平行月
第2章 夢蝶はそこにいるか
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第28話 蛹を破り、蝶は舞う

 見たものを、なかったことにはしなくていい。


 誰かが、そう言った。


 たとえ目覚めたあとに残らなくても。


 たとえ名前を忘れても。


 たとえ輪郭だけが、別の誰かに塗り替わっていても。


 見た。


 それだけは消えない。


 なら、それは嘘ではない。


 嘘ではないのなら。


 なかったことにしなくていい。


     ◆


「まず、見えたものを報告しろ」


 鷹宮の声は、低く抑えられていた。


 白石は椅子に座ったまま、しばらく自分の手を見ていた。男の手。見慣れた指。爪の形も、手首の骨ばった感じも、いつもの自分のものだった。


 それでも、指先にはまだ、薄い紅の感触が残っている。


 白石は口元を拭った。


 何もついていない。


 何もついていないはずなのに、拭った指先を見つめる目だけが、かすかに怯えていた。


「白石」


 鷹宮が名を呼ぶ。


 白石は、ようやく顔を上げた。


「……はい」


 声は白石のものだった。


 だが、ほんの少しだけ、音の置き方が違っていた。鷹宮はその違和感を聞き逃さなかったが、今は問いたださない。


「報告しろ」


「……休憩室でした」


 白石は、ゆっくりと言葉を選び始める。


「この部屋です。配置は、ほぼ一致していました。ただ、細部がずれていた。机の位置、椅子の角度、時計の針。それから、床に倒れたカップ」


 そこまでは、いつもの白石だった。


 疲労はある。声もかすれている。それでも、報告の形は保っている。


「誰かが倒れていました。床に。喉を押さえて、呼吸ができていない」


 鷹宮は黙って聞く。


 ツバキは扉寄りの椅子に座ったまま、腕を庇って白石を見ていた。さっきまでの皮肉はない。白石の様子が明らかにおかしいことに、彼女も気づいている。


 海は扉の外側に近い位置に立ち、廊下側へ半分意識を向けていた。だが、白石の声が揺れるたび、ほんのわずかに視線が戻る。


「その近くに、女性の輪郭がありました」


 白石は続ける。


「一人ではありません。何人分も、同じ位置に重なっていた。顔は、はっきりしません。ただ、口元だけが見えた。笑っている口。開いた口。息を求める口。何かを言いかけて、止まった口」


 そこで、白石の喉が小さく鳴った。


「……けれど」


 鷹宮の目が細くなる。


「けれど?」


「違います」


 白石は、かすかに首を振った。


「近くにいた女が、原因じゃない」


 ツバキの指先が、椅子の端を掴む。


 鷹宮が問う。


「なぜそう言える」


「分かりません」


 正直な返答だった。


「ただ、違う。距離じゃない。近くにいたから起きたわけじゃない。あの女の輪郭は、結果に重なっていただけです」


 白石は、そこまで言ってから息を吸おうとした。


 少し遅れる。


 吸う動作と、空気が入る感覚が噛み合っていない。


「熱でもない」


 声がかすれる。


「高温の水蒸気は、ある。でも、それ自体が条件じゃない。たぶん、もっと――」


 白石の手が、無意識に脇腹へ落ちた。


 包帯の下。


 まだ塞がりきっていない傷。


「傷です」


 その言葉に、鷹宮の表情が変わる。


「傷?」


「傷に、反応している」


 白石の呼吸が、わずかに乱れる。


「外からじゃない。包むだけじゃない。中に――」


 そこで言葉が途切れた。


 白石は、自分の口元を押さえた。


 何かを言いかけたのに、それとは別の言葉が喉の奥から上がってきたような顔だった。


「……違う」


 小さく呟く。


「白石」


「違います。今のは、まだ僕です」


 鷹宮が一歩近づく。


「何が起きている」


 白石は答えようとした。


 けれど、その前に口元が、ふっと緩んだ。


 笑った。


 白石自身が、その笑みを恐れているようだった。


「隊長、条件は……条件は、傷です。傷口を、白いものが覆って……」


 そこまでは報告だった。


「でも、昨日、私、ちょっと食べすぎちゃったかも」


 空気が止まる。

 ツバキが、息を呑んだ。


「……は?」


 白石は口元に手を当てたまま、目を見開いている。


「違う」


 低い声で言う。


「違う。今のは僕じゃない」


 それでも、言葉は止まらない。


「口紅、ずれてませんか。ちゃんと可愛く見えますか」


 声は白石のものだった。


 だが、息の使い方が違う。語尾が柔らかい。言葉の温度が、白石という男の身体から出ているものではなかった。


 鷹宮の額に、薄く汗が滲む。


「……何だ」


 理解ではなく、本能に近い声だった。


「何が混ざっている」


「熱じゃない」


 白石が、急に報告へ戻る。


「傷から、中に入って……違う、違います、これは報告です。僕は結果を、結果断片を――」


 また、笑う。


「映画、何を観るんだっけ。待ち合わせに遅れちゃう」


 白石の指が、何もない口元を拭う。


「こんな顔じゃ、会えないじゃない」


「白石!」


 鷹宮が鋭く呼ぶ。


 白石の体が、びくりと跳ねた。

 一瞬だけ、焦点が戻る。


「隊、長」


 かすれた声だった。


「これは、僕の夢じゃない」


 鷹宮は動かない。


 白石は続けようとする。だが、言葉の端から別のものが滲んでくる。


「問いが……壊れてる。僕が見たのは、条件で……違う、私は、まだちゃんと――」


 そこで白石は、ゆっくりと立ち上がった。


 椅子が床を擦る。


 乾いた音が、休憩室に長く残る。


 歩き方が違った。


 白石のものではない。

 副隊長の足取りではない。警戒し、状況を測り、必要な距離を保つ人間の歩き方ではなかった。


 どこか浮ついている。


 待ち合わせに遅れた少女が、急いでいるみたいな足取りだった。


 ツバキが椅子から半分腰を浮かせる。


「ちょっと、何して――」


 白石は、ツバキを見ていない。


 扉を見ている。


 その先の廊下を。

 さらに、その向こうにあるはずの白い霧を。


「帰らなきゃ」


 白石が言った。

 その声は、もう白石のものではなかった。


 白石は、扉へ向かって歩き出した。


 一歩。


 足が床を踏む。

 その足音が、妙に軽かった。


「蛹に、帰らなきゃ」


 白石が言った。


 喉の奥から漏れる声は、かすれている。だが、そこに乗っている温度は白石のものではない。


「まだ、羽化してない」


 もう一歩。


 鷹宮が動く。


「白石、止まれ」


 命令だった。


 普段なら、それだけで十分だった。副隊長は止まる。振り返る。状況を確認し、必要なら冗談のひとつでも返す。


 けれど、白石は止まらない。

 扉だけを見ている。

 扉の向こうにある、白い霧だけを。


「回帰します」


 その言葉だけが、ひどく白石らしかった。

 報告書を読み上げるような、淡々とした業務口調。


「……結果を、やり直します」


「白石!」


 鷹宮が強く呼んだ。


 その瞬間、ツバキが椅子から立ち上がる。


「ちょっと、正気に戻りなさいよ!」


 扉の近くにいたツバキは、咄嗟に白石の前へ出ようとした。


 止めるつもりだった。


 少なくとも、そうしなければならないと思った。


 だが、白石はツバキを見ていなかった。


 肩がぶつかる。

 軽い衝突ではなかった。


 発狂した人間の、制動を失った重さだった。


「っ――!」


 ツバキの身体が横へ弾かれる。


 背中が壁際のロッカーに叩きつけられ、鈍い金属音が休憩室に響いた。庇っていた腕とは逆の手首が、剥き出しの棚板に擦れる。


 白い肌に、細い赤が走った。


 血が滲む。


「……痛っ」


 ツバキが顔を歪める。


 その一瞬を、海が見た。

 扉の外、廊下側に立っていた海の表情が、ほんのわずかに消える。


 白石を見る。

 ツバキを見る。


 ツバキの手首に走った、細い赤を見る。


「……なにが、起きてるんですか?」


 声にならないほど小さく、海が呟いた。


 想定していたものとは、違う。


 その一瞬を、海が見た。


 白石の夢に、何かが入り込んだ。

 それは分かった。


 だが、それがどうして白石の中まで届いたのか。

 なぜ、あの輪郭で現れたのか。


 海には、すぐには言葉にできなかった。


 ただ、夢を夢のままにしておけない何かが、白石の奥まで入り込んだ。

 その事実だけが、喉の奥を冷たく塞いでいた。


 次の瞬間、海は顔を戻す。


「危ない、離れて!」


 海は思わず、叫んでしまう。


 白石は扉へ手を伸ばす。


 その向こう、廊下には白い霧がある。


 外から流れ込んでいるようにも見えた。


 だが、違った。


 扉の隙間から霧が膨らむより早く、白石の脇腹の包帯が、じわりと湿った。


 内側から。


 白い蒸気が滲む。


 塞がりきっていなかった傷口から、細い白が漏れていた。


 白石の足が止まる。


 ほんの一瞬だけ、焦点が戻った。


「……熱じゃ、ない」


 声は白石のものだった。


 鷹宮が駆け出す。


「白石!」


「傷……」


 白石の手が、自分の脇腹へ落ちる。

 包帯の下で、白いものが蠢く。


「中に――」


 その先は、声にならなかった。


 白い霧が、白石の身体を包んだ。


 喉へ。


 口元へ。


 鼻へ。


 胸へ。


 外側から覆うのではなく、内側から溢れたものが、身体の表面をなぞるように広がっていく。


 白石が息を吸おうとする。


 吸えない。

 喉が震える。

 音にならない。


 皮膚の色が変わっていく。

 赤く焼けるのではない。

 炭になるのでもない。

 熱を奪われたみたいに、白く。

 火傷のように、白く。


 喉元から顎へ。頬へ。指先へ。

 白い膜が、薄く広がっていく。


 その輪郭の上に、女の影が重なった。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 同じ場所に、いくつもの輪郭が揺れる。

 白石の唇が、かすかに動く。


「かえ……」


 声は出ない。


 それでも、口の形だけが続く。


 蛹に。


 帰らなきゃ。


 白石の膝が折れた。


 身体が床へ崩れる。


 音は、今度は小さくなかった。


 椅子が倒れ、床板が鳴り、白い霧が低く跳ねた。


 鷹宮が膝をつく。


 白石の首筋に指を当てる。


 一秒。


 二秒。


 胸は動かない。


「……白石」


 返事はない。


 鷹宮の指が、わずかに強張る。


「白石!」


 それでも、返事はなかった。

 休憩室の時計だけが、乾いた音を立てる。


 カチ。


 カチ。


 カチ。


 その音が、やけに大きい。


 鷹宮は、しばらく白石を見下ろしていた。

 白石の顔は、半分だけ白く変色している。

 目は開いている。

 だが、どこも見ていない。


 副隊長だった男の輪郭の上に、もう何も重なっていなかった。

 ただ、死体だけが残っている。


「……何が、混ざっている」


 鷹宮が呟いた。

 それは、誰に向けた言葉でもなかった。

 問いですらなかった。


 だが、次の瞬間には、鷹宮の目が変わる。


 恐怖を押し込める。

 動揺を押し潰す。


 白石が死んだ。


 ならば、拾うべきは感情ではない。

 情報だ。


 倒れた白石。


 夢の中で見たという、近くに立つ女。


 扉付近にいたツバキ。


 出入り能力。


 白石が扉へ向かったこと。


 そして、遠隔から物理干渉できる歌留多。


 繋がる。


 繋がってしまう。


 白石が最後に言った言葉がある。


 傷。


 中に。


 だが、その二つは、発狂した言葉の群れに埋もれていた。


 口紅。


 映画。


 待ち合わせ。


 蛹。


 回帰。


 その中から、どれが意味を持つ言葉なのか、瞬時に選び取ることはできなかった。


 鷹宮は、顔を上げる。

 視線が、ツバキへ向いた。


「……。傷。なるほど、そういえば火傷も負っていたな」


 ツバキはロッカーに背を預けたまま、手首を押さえている。白い肌に走った細い赤が、指の隙間から滲んでいた。


「……違う」


 ツバキが言った。

 声は小さい。

 だが、震えていた。


「私は、何も――」


「動くな」


 乾いた音がした。


 金属が擦れる音。

 鷹宮の手に、拳銃が現れていた。

 黒い銃口が、休憩室の中央を横切ってツバキを捉える。


「……っ」


 ツバキの呼吸が止まった。


 今度は、本能的に。

 分かる。


 これは効く。


 能力ではない。

 ただの現実だ。


「その位置で止まれ」


 低い声だった。


 絶対だった。


 ツバキの足が止まる。

 一歩も動けない。


「考えてみれば、簡単なことだ」


 鷹宮の声に、熱はない。

 むしろ冷えきっていた。


「単独では成立しない現象だ」


 ツバキは唇を噛む。


「だから、私は――」


「だが、共犯なら話は別だ」


 その言葉で、状況が固定された。

 ツバキの顔から、血の気が引く。


「位置をずらす能力」


 鷹宮は続ける。


「この部屋にいた女の輪郭」


 一拍。


「そして、遠距離から物理干渉できる能力者」


 歌留多。


 その名前を出さずとも、意味は明白だった。


「ツバキ」


 鷹宮は銃口を下げない。


「お前が実行側である可能性を、今この場で外すことはできない」


「違う!」


「ならば、その場で証明しろ」


「できるわけないでしょ!」


 ツバキの声が荒れる。


「私は、白石を止めようとしただけよ! 勝手にぶつかってきて、勝手に――」


「黙れ」


 一言で封じる。

 ツバキの喉が詰まる。


 怒りではない。

 恐怖でもない。

 この男は、もう結論の中にいる。

 こちらの言葉を聞くつもりがない。


 そう理解したからだった。


 背後の廊下から、足音が近づく。

 軽い。

 だが、迷いのない足取り。


「隊長」


 海だった。


 いつの間にか、休憩室の扉の外から戻っている。

 表情は、普段通りだった。

 ほんの数秒前に浮かんだ動揺は、もうない。


「外の確認、終わりました」


 何も知らないような声。

 何も起きていないような顔。

 鷹宮は振り返らない。


「ちょうどいい」


 短く言う。

 顎でツバキを示した。


「こいつを見張れ」


 海の視線がツバキへ向く。

 その目が、一瞬だけツバキの手首へ落ちた。


 赤。


 細い傷。


 白い肌に走った、わずかな裂け目。


 海の表情が、ほんのわずかに歪む。


 次の瞬間には、消えていた。


「……了解」


 即答だった。

 一切の迷いがない。


「動かすな」


「はい」


 ツバキが、海を見る。


 海は、いつもの顔で微笑んでいた。

 それが、ひどく気味悪かった。


 鷹宮は立ち上がる。

 もうツバキを見ていない。

 白石の死体も、今は見ない。


 見るべきものは、次にある。


「もう一人いる」


 低く呟く。


「最優先の容疑者だ」


 その声には、確信ではなく、決定があった。


「確保する。抵抗するなら、排除も視野に入れる」


 ツバキが息を呑む。


 鷹宮は休憩室の扉へ向かう。

 湿った廊下へ出る。

 白い霧が、遠くで揺れている。


 その先にいるのは。

 まだ何も知らない、歌留多たちだった。

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