第27話 潜水病
最初に見えたのは、白だった。
霧。
床を這うように低く漂い、休憩室の輪郭をぼかしている。
白石は、夢の中で目を開けた。
そこは、さっきまでいた休憩室だった。古い机。椅子。流し台。壁際のロッカー。天井近くの時計。
配置は、ほとんど同じだった。
だが、完全には一致していない。
椅子の位置が、半歩ほどずれている。机の角度が、記憶よりわずかに傾いている。流し台の下に落ちているはずのないカップが、横倒しになっていた。
時計の針は動いていない。
音もない。
なのに、耳の奥では、さっきまで聞こえていたはずの秒針の音が、まだ残響みたいに鳴っている。
(……分岐した結果断片)
白石は、そう認識する。
未来そのものではない。
自分たちが今いる世界の完全な再現でもない。
どこかで選ばれたかもしれない結果。
辿り着いたかもしれない配置。
ありえた結末の、断面。
問いは置いた。
次にこの霧で死ぬ人間は、何を条件に殺されるのか。
見るべきものは、犯人ではない。顔でもない。動機でもない。
条件。
そこだけを拾えばいい。
白石は、夢の中の休憩室を見渡した。
床に、人影が倒れていた。
顔は見えない。
喉を押さえている。胸が大きく上下している。いや、上下しようとしているだけだ。空気が入っていない。
呼吸が、できていない。
(……倒れている人間)
白石は、視線を横へ動かす。
倒れている人間のすぐ近くに、誰かが立っていた。
女だった。
そう見えた。
だが、輪郭がひとつではない。
一つ。
二つ。
三つ。
何人分もの女の輪郭が、同じ場所に重なっている。
笑っている口。
開いた口。
息を求める口。
何かを言いかけたまま止まった口。
目元はぼやけ、髪の長さも年齢も一致しない。それなのに、すべてが同じ場所に重なり、一人の女になり損ねたまま揺れていた。
(……重なり)
白石は、踏み込もうとした。
条件を見るために。
距離か。位置か。霧か。吸入経路か。温度か。
見なければならない。
そう思った瞬間、違和感が走った。
自分の手が、見えた。
細い。
白い。
指の長さが違う。爪の形が違う。手首の骨ばった感じもない。
男の手ではなかった。
(……何だ)
白石は、夢の中で自分の手を見る。
その手は、少女のものに見えた。
口元に違和感がある。
無意識に拭う。
指先に、薄い紅がついた。
口紅。
つけた覚えはない。
あるはずがない。
なのに、指先には確かに、紅の湿った感触が残っている。
(違う)
視線を落とす。
袖が違う。
胸元の布の重さが違う。
足元の感覚も違う。革靴で床を踏んでいるのではない。もっと軽い。もっと不安定で、どこか浮いたような感覚。
自分の服ではない。
自分の身体ではない。
(これは、僕の夢じゃない)
夢の中の休憩室で、女の輪郭が揺れている。
一人ではない。
何人分もの女が、同じ場所に重なっている。
(こんなことが、起こりえるのか?)
白石の思考が、初めて乱れた。
(分岐夢は、結果断片を見る能力だ)
問いに沿って、ありえた結果を拾う。
過程は見えない。
原因も見えない。
犯人の顔が都合よく浮かぶわけでもない。
それでも、見るものはあくまで“結果”でなければならない。
そこに、他人の夢が割り込む余地などない。
ないはずだった。
なのに、目の前の女たちは違う。
これは結果ではない。
誰かの願望だ。
誰かの記憶だ。
誰かが、何度も何度も重ねようとした輪郭だ。
(……誰だ)
白石は、震えかけた思考を押さえ込む。
(誰の夢が、侵食してきているんだ。これは)
本来なら、ここで離脱すべきだった。
問いは壊れている。
夢は、もう白石の管理下にない。
結果断片の中に、別のものが混ざっている。見るべきものではない。踏み込むべきではない。
だが。
(それが分かれば)
倒れた人間の胸が、もう一度だけ跳ねた。
女の輪郭が、揺れる。
白い霧が、その足元から滲む。
(犯人が誰かということも、分かるんじゃないのか)
その考えが、自分のものなのか。
それとも、混ざってきた誰かのものなのか。
白石には、もう判別できなかった。
(見なくちゃ)
足が、動く。
(見なくちゃいけない)
夢の中の休憩室を、一歩進む。
倒れている人影の脇腹に、白い湿り気が見えた。布の下から、滲むような白。包帯。まだ閉じきっていない傷口。
霧が外から包んでいるのではない。
内側から、出ている。
(熱じゃない)
思考が、核心の縁に触れる。
(外からじゃない)
倒れた人間の喉が震える。白い霧が、口の奥から漏れている。
(傷――)
そこまで考えた瞬間、女の輪郭がこちらを向いた。
顔はない。
ないはずなのに、見られている。
(僕は、これを、もっと――)
足元の感覚が変わった。
靴ではない。
床を踏む足の形が、自分のものではない。
(……私は、もっと深く見なくちゃいけない)
そう思った瞬間、白石は気づいた。
今の思考は、自分のものではなかった。
白い霧が、視界を埋めた。
◆
白石は目を開けた。
喉が鳴る。
呼吸が浅い。
まず、自分の手を見た。
男の手だった。
指も、爪も、いつもの自分のものだった。夢の中で見たような細い手ではない。
次に、口元を拭う。
何もついていない。
紅の跡もない。
それでも、指先にはまだ、薄い湿り気の感触が残っていた。
袖の重さも。
足元の浮いた感覚も。
白い霧の匂いも。
全部、身体の奥に残っている。
「見えたか」
鷹宮の声が降ってきた。
白石は、ゆっくりと顔を上げる。
「……見えました」
その声は、白石のものだった。
だが、ほんの少しだけ、音の置き方が違っていた。
ツバキが眉をひそめる。
鷹宮の目が細くなる。
「何が見えた」
白石はすぐには答えなかった。
自分の手を、まだ見ている。
「……まずい」
小さく漏らした。
鷹宮が一歩近づく。
「何がだ」
「僕の夢に」
白石は、口元を押さえた。
そこには何もついていない。
何もついていないはずなのに。
「別の夢が、噛んでる」
休憩室の中の空気が、静かに冷えた。
「どういう意味だ」
「問いの外から、何かが混ざりました」
白石は息を整えようとする。だが、呼吸はまだ浅い。
「普通の分岐夢じゃない」
一拍。
「結果断片だけじゃありません。誰かの夢が、侵食してきている」
鷹宮は黙っていた。
時計の針だけが、乾いた音を立てる。
カチ、と。




