第26話 ダイビング
◆
夢は、避けるために見るものだった。
見えた結果へ向かわないために。
同じ場所へ辿り着かないために。
誰かを止めるために。
自分を止めるために。
だから、夢は本来、警告でなければならない。
そこへ行くな。
その選択をするな。
その結末へ辿り着くな。
そう告げるために、夢はある。
けれど。
もし、その結末が幸福に見えたなら。
避けるべき結果を、欲しいものだと思ってしまったなら。
夢は警告ではなくなる。
約束に見える。
◆
鷹宮が白石と海、そしてツバキを連れて移動した先は、先ほどまでいた倉庫から少し離れた場所にある建造物だった。
古い工場棟の脇に張りつくような、小さな平屋だ。
外壁は煤け、窓の縁には錆が浮いている。廊下へ足を踏み入れると、湿った鉄と古い油の匂いがした。外の白い霧は建物の入口で途切れているはずなのに、空気の重さだけは薄く室内へ染み込んでいる。
短い廊下の突き当たりに、〈休憩室〉と書かれた札があった。
鷹宮が扉を開く。
重たい音が、やけに長く残った。
室内には、古いロッカーと小さな流し台、中央に並べられた机と椅子があるだけだった。天井近くの時計が、一秒ごとに乾いた音を刻んでいる。
外の霧は遮断されている。
それなのに、空気は湿っていた。
鷹宮は室内を一瞥する。
窓。
換気口。
床。
扉の死角。
異常は、見えない。
「……ここでいい」
短く言い切った。
白石は部屋の中央に置かれた椅子へ腰を下ろした。顔色は悪い。すでに一度、能力を使っている。疲労は隠せていない。
ツバキは扉寄りの壁際にある椅子へ座らされた。片腕を庇ったまま、視線だけを静かに動かしている。座ってはいるが、警戒を解いてはいない。
海は扉の近くに立ち、室内と廊下の両方へ意識を向けていた。普段通りの、穏やかで控えめな表情だった。
「廊下側を見てきます」
海が言った。
鷹宮は短く頷く。
「遠くへ行くな」
「分かってます」
海はそう答えて、扉の外へ半身だけを出した。
それ以上は進まない。廊下の左右を確認し、すぐ戻れる位置に立つ。少なくとも、そう見えた。
鷹宮は白石へ向き直る。
「まだ使えるな」
問いというより、確認だった。
白石は一瞬だけ目を伏せ、それから小さく頷いた。
「……はい。あと一度だけなら」
答えた直後、無意識に脇腹へ手が落ちる。
鷹宮の目が、そこを見た。
「傷は」
「開いてません。たぶん」
「たぶん、か」
「見た目は大丈夫です」
白石は軽く笑おうとしたが、うまく笑いきれなかった。
「まあ、痛いものは痛いですけどね」
鷹宮はそれ以上追及しない。
今は、痛みよりも必要なものがある。
「白石、一つ忠告がある」
「はい」
「犯人を当てにいくな」
白石の顔から、わずかに表情が消えた。
鷹宮は続ける。
「お前の分岐夢は、犯人の顔を都合よく映す防犯カメラではない。そうだったな」
「……ええ。僕のフィアー能力、“ミラージュ・ドリーム”は万能ではない」
「見るのは条件だ」
鷹宮の声は低く、揺れない。
「次にこの霧で死ぬ人間が、何を条件に殺されるのか。それを見ろ」
白石は黙った。
ほんの一拍だけ、時計の音が大きく聞こえた。
「……条件ですね」
白石が言う。
「見ます」
ツバキが、壁際から低く口を挟んだ。
「それで、私が犯人じゃないって分かるわけ?」
鷹宮は振り返らない。
「分かるとは限らない」
「便利ね」
「便利なものなら、最初からこうはなっていない」
冷たい返答だった。
ツバキは舌打ちしかけて、やめた。今、ここで余計な火種を増やしても意味がない。
白石は椅子に深く腰を下ろし、背もたれへ体を預けた。
眠るには最悪の環境だった。
古いロッカー。湿った空気。見張る鷹宮。扉の外に立つ海。壁際に座らされたツバキ。つい先ほどまで、自分たちは不知火の死体を見ていた。
眠れるはずがない。
けれど、白石に必要なのは、深い眠りではなかった。
問いを置く。
意識を沈める。
結果断片へ辿り着くために、夢の底へ短く落ちる。
それだけでいい。
白石はゆっくりと息を吸った。
そして、吐く。
視界の端で、鷹宮の輪郭が少しだけぼやける。
問いを置く。
次にこの霧で死ぬ人間は、何を条件に殺されるのか。
白石はその一文を、意識の中心に沈めた。
時計の音が遠ざかる。
カチ。
衣擦れの音が薄くなる。
カチ。
ツバキが椅子を軋ませる音。
カチ。
廊下側に立つ海の気配。
カチ。
鷹宮の呼吸。
それらが、ひとつずつ遠ざかっていく。
白石の指先が、かすかに震えた。
息が浅くなる。
まぶたが落ちる。
椅子の感触が消える。
床の冷たさが消える。
湿った空気の重さだけが、最後まで喉の奥に残っていた。
そして。
白石の意識は、夢の底へ沈んだ。




