第43話 三馬鹿、直進す
恭介の手の中で、黒い石が脈打っていた。
石、というには柔らかい。
濡れているように黒く光り、表面の奥で、薄い黒が呼吸している。
赤い霧の巨人が、それに反応した。
腕が持ち上がる。
熱が集まる。
頭部らしきものが、ゆっくりとこちらへ向いた。
標的は、分かりやすいくらいに恭介へ向いていた。
「……なあ」
レンが、黒い石を持つ恭介と、平然としている紗希を交互に見た。
「今の、俺の見間違いじゃねえよな?」
横から、ツバキが半眼で紗希を見る。
「あなた、あの男がもう立ってるのもやっとだって分かってる?」
「はい」
紗希は、迷わず頷いた。
「じゃあ、なんで渡したのよ」
紗希は少しだけ考えた。
「先輩だからです」
「答えになってないわよ」
「だいたい答えになってますよ」
「なってねえよ」
レンが即座に突っ込む。
恭介は、黒い石を握ったまま笑った。
「そういう“契約”してんだ、こっちは」
焦点の合わない目で、赤い霧の巨人を見る。
「部外者は黙ってな」
レンの顔が歪む。
「最悪の契約だな」
「今さらだろ」
恭介は、口元だけで笑った。
膝は笑っていた。
視界はほとんど死んでいる。
線が重なりすぎて、世界の輪郭はもう潰れている。
それでも、紗希の前で膝をつく気はなかった。
それが意地なのか、役割なのか。
恭介自身にも、たぶん分かっていない。
赤い巨人の顔が、ぐにゃりと揺れた。
女の顔。
知らない笑み。
長い髪の影。
その奥に、一瞬だけ、白い髪の小さな輪郭が混じる。
恭介の奥歯が鳴った。
「……気に入らねえ」
レンが眉を寄せる。
「何がだよ」
「あれの面」
恭介は、見えていないはずの目で、赤い霧の巨人を睨んだ。
「誰の真似してんのか知らねえが」
一拍。
「すげえ、ムカつく」
歌留多が、わずかに目を細める。
「……面?」
恭介は答えない。
赤い霧の巨人が、黒い石へ向かって腕を伸ばす。
レンは短く息を吐き、影へ片手を伸ばした。
「……まあ」
影の中から、小型の斧が滑り出る。
「試すだけ試すか」
内心では、ほとんど答えは出ていた。
どうせ効かない。
斬れるとしても、表面だけだ。
それでも、確認しないわけにはいかない。
レンは斧を握る。
影が揺れる。
赤い霧の腕が、恭介へ向けて落ちかける。
レンが踏み込んだ。
〈蜃〉の斧が、赤い霧の腕を斬った。
普通の刃なら、霧を斬ることなどできない。
だが、赤い霧の表面にまとわりついていた“像”だけが、ぱきりと割れるように裂けた。
巨人の腕の一部が、形を失う。
赤い霧が、裂け目からこぼれ落ちた。
「……斬れる」
レンは呟く。
だが、すぐに眉を寄せた。
裂けた赤い霧は、すぐに戻った。
腕の形が、埋まる。
巨人の輪郭が、何事もなかったように整っていく。
「いや、やっぱ駄目だ」
レンは歯を鳴らした。
「斬れる。けど、削れるだけだ」
「質量が違いすぎる」
一拍置いて、赤い霧の巨人を見上げる。
「一番相性の良さそうな俺がこのザマだ。流石に諦めようぜ?」
歌留多が、横から軽く飛び出した。
「じゃあ、私も試す」
「おい、待て!」
レンの制止を無視して、歌留多が手を伸ばす。
見えない巨大な腕が、赤い霧の胴体へ突き込まれた。
ぐしゃり、と。
霧の塊が潰れる。
確かに掴んだ。
確かに、握り潰した。
しかし、次の瞬間。
赤い霧は、指の隙間からずるずると抜け落ちるように形を崩した。
「掴めないな」
歌留多が顔をしかめる。
「いや、掴めるけど、全部指の隙間から抜ける」
不可視の腕が、もう一度赤い霧を握る。
また潰れる。
また抜ける。
「てか、そもそも熱い!」
歌留多が叫んだ。
「なにこれ、なんかちょっと血なまぐさいし! サイアク!」
ツバキが眉をひそめる。
「だから触るなって言ったでしょ」
「言われてない!」
「今言ったわよ!」
「遅いんだよ、役立たず!」
「助けた相手に向かって何よ、その言い草!」
その横で、鷹宮が拳銃を抜いた。
レンが気づく。
「鷹宮、能力は?」
「使えん」
鷹宮は即答した。
「あれはクロではない。少なくとも、霧全体には私の〈石抱〉は通らん」
銃口が、赤い霧の巨人へ向く。
「なら、どうするんだよ」
「撃つ」
「効くのか?」
「効かんだろうな」
「おい」
「だが、足止めくらいはする」
鷹宮は引き金を引いた。
乾いた銃声。
弾丸は赤い霧の表層を抜ける。
巨人そのものには届かない。
だが、赤い霧の一部がわずかに散り、腕の動きが鈍る。
ほんの一瞬。
それでも、今はその一瞬がいる。
黒い影が、その隙間へ飛び込んだ。
恭介。
黒い石を握ったまま、黒い翼を広げる。
その背中が弾ける。
一直線。
赤い霧の中へ突っ込む。
何度目かも分からない突進。
巨人の胴を貫き、抜け、焼かれ、また戻る。
赤い霧は戻る。
穴は埋まる。
それでも、恭介は止まらない。
「……本当、バカばっかりじゃねえか」
レンが低く吐き捨てた。
ツバキが息を荒げながら頷く。
「そこは同意」
レンは斧を構え直しながら、巨人を見る。
規模が違う。
質量が違う。
こちらが削っているのは、表面だけだ。
あれを止めるには、人手がいる。
装備がいる。
準備がいる。
正論は、もう分かっていた。
「応援を待とう」
レンが言った。
鷹宮がちらりとこちらを見る。
「これは俺たちだけでやる規模じゃない。足止めだけして、距離を取るべきだ」
「レンに賛成」
ツバキが即座に言った。
「あれは根性でどうにかする相手じゃないわ」
「正論だ」
鷹宮が答える。
だが、銃口は下げない。
「だが、あれが市街へ向かわない保証はない」
レンの表情が険しくなる。
「……あんたまで何言ってんだよ」
「応援が来るまで、ここで止まっていてくれる保証もない」
鷹宮は、赤い霧の巨人を見上げた。
熱に反応し、破壊する命令だけを残した巨人。
旧工業地帯を越えれば、どうなるか。
考えるまでもなかった。
「部下の不始末だ」
鷹宮の声が低くなる。
「私の見落としだ」
一拍。
「逃げる理由にはならん」
「死んだら責任も何もねえだろ!」
「死なないように止める」
「無茶苦茶だな!」
その横で、歌留多が赤い霧を見上げていた。
目が、わずかに輝いている。
「なら、私も行く」
ツバキが信じられないものを見る目で歌留多を見た。
「馬鹿なの?」
「馬鹿じゃない」
歌留多は即答した。
「楽しそうだ」
「馬鹿じゃない。狂ってる方だったわ」
「褒めるな」
「褒めてない!」
歌留多は笑う。
そしてまた、赤い霧へ手を伸ばした。
レンは叫ぶ。
「おい、待てって言ってんだろ!」
「待ってたら、あいつが遠くに行くだろ」
「だから応援を待てって――」
「応援が来る前に、町に行ったら?」
歌留多の声は軽い。
けれど、言っていることは軽くない。
レンが、言葉を詰まらせる。
赤い霧の巨人が、ゆっくりと向きを変える。
遠くの熱を探すように、頭部らしきものが揺れた。
鷹宮が撃つ。
歌留多が掴む。
恭介が突っ込む。
レンが斬る。
どれも、効いている。
少しだけ。
だが、決定打にはならない。
赤い霧は散り、戻り、巨人の形を取り直す。
「何で意地張ろうとするんだよ!」
レンの声が荒くなる。
「応援待った方がいいじゃねえかよ!」
恭介が、赤い霧を突き抜けて地面に着地した。
服の端が焼けている。
皮膚も焼けている。
黒い石を握る手からも、煙が上がっている。
それでも、口元だけは歪んでいた。
「誰が意地張ってるって?」
「お前だよ!」
レンが叫ぶ。
「お前も! 鷹宮も! そこのちっこいのも!」
「私はちっこくない」
「今そこじゃねえ!」
レンは斧を握りしめる。
「本当、バカばっかりじゃねえか」
息を吐く。
「無駄死にするようなもんだぜ、これ」
ツバキが静かに言う。
「……だから、私はレンに賛成って言ってるの」
その言葉に、恭介が片眉を上げた。
「無駄?」
低く笑う。
「別に、無駄だったわけでもなかったようだぜ」
レンが目を細める。
「……何?」
恭介は肩を回した。
黒い翼の残滓が、背中で軋む。
「何度も突っ込んでくうちに、一回だけ変な感触があった」
その言葉で、空気が変わった。
紗希が、少しだけ顔を上げる。
レンが一歩近づく。
「変な感触?」
「ああ」
恭介は、赤い霧の巨人を顎で示す。
「当たったんじゃねえ」
一拍。
「すれ違ったみてぇだった」
歌留多の目が細くなる。
「……なるほど?」
ツバキが眉をひそめる。
「何よ、それ」
「知らねえよ」
恭介は雑に返す。
「だから変な感触っつってんだろ」
そう言いながら、恭介は手の中の黒い石を親指で転がした。
ぬめった表面。
薄く脈打つ黒。
さっき赤い霧の中ですれ違ったものと、どこか似ている。
「……これと同じ感じがした」
レンの目が、黒い石へ落ちた。
「同じ?」
「似てるってだけだ。知らねえよ」
紗希が、静かに口を開く。
「戻り方も変でした」
全員の視線が、紗希へ向く。
「散った霧が、毎回一度どこかに引かれていました。三度目だけ、戻る角度がわずかに違った」
紗希は赤い巨人を見る。
「ただ散って、ただ集まっているわけではない」
レンの表情が変わる。
「霧全体が本体じゃない、ってことか」
紗希は頷く。
「可能性ですけど」
レンの視線が、黒い石へ落ちる。
「黒い石と同じ理屈なら」
一拍。
「命令を抱えた中心がある」
歌留多が口角を上げた。
「核だな」
「核?」
鷹宮が聞き返す。
「霧が戻る先だ」
歌留多は、赤い霧の巨人を見上げる。
「そこに、命令を抱えた何かがある。多分、お前がすれ違ったのはそれだ」
恭介が鼻を鳴らす。
「触ったっつうか、すれ違った感じだったけどな」
「同じようなもんだ」
「違ぇよ」
レンが低く言う。
「命令を保持してる中心がある、ってことか」
鷹宮が、銃口を下げずに呟いた。
「そこを叩けば、止まる可能性がある」
「可能性はな」
レンは吐き捨てる。
「でも、見えねえ」
赤い巨人が、腕を持ち上げる。
「触れねえ」
歌留多が舌打ちする。
「掴めねえ」
鷹宮が銃口を上げる。
「沈められねえ」
レンは自分の斧を見る。
「斬っても、足りねえ」
沈黙。
赤い霧の巨人が、再び熱を集める。
レンは奥歯を噛んだ。
「結局、詰んでんじゃねえか」




