第44話 伝染する“馬鹿”
夢は、本来、避けるために見るものだった。
白石は、そう使っていた。
悪い結果を見て。
違う道を選ぶために。
けれど、海は違った。
見てしまった幸福を、避けるべきものだとは思えなかった。
見たものは、なかったことにしなくていい。
誰かが、そう言った。
観測したなら、そこにある。
なら、探せばいい。
夢に合う顔を。
名前に合う身体を。
幸福が入る器を。
顔が混ざる。
名前が混ざる。
あげは。
カルタ。
あげは。
カルタ。
幸福だったはずのものは、形を失った。
祈りだったはずのものは、命令になった。
熱を探せ。
壊せ。
壊せ。
壊せ。
最後に残ったのは、未来ではなかった。
ただ、赤い霧の中で繰り返される命令だけだった。
◆
赤い霧の巨人が、腕を振り上げる。
熱が集まる。
空気が震え、足元の鉄片が赤く染まり始めた。
レンは、赤い巨人を見上げたまま、小さく笑った。
「……本当、バカばっかりじゃねえか」
誰も返さない。
返す余裕がない。
恭介は黒い石を握ったまま、また前に出ようとしている。
鷹宮は拳銃を構えたまま、下がる気配がない。
歌留多は赤い霧を睨み、まだ何かを掴もうとしている。
紗希は目を逸らさず、霧の戻り方を追っている。
ツバキだけが、レンの横で苦い顔をしていた。
「……本当に、馬鹿ばっかりね」
「お前まで言うか」
「言うわよ。レンが正しい時くらい、ちゃんと味方してあげる」
「ありがたいね」
レンは短く息を吐いた。
「応援待とうって言ってんのに」
赤い霧の腕が、ゆっくりとこちらへ傾く。
「誰も聞きゃしねえ」
ツバキが、レンの横顔を見る。
「レン」
「分かってる」
レンは、影へ手を伸ばした。
「正論吐いてるだけじゃ、止まらねえんだろ」
影が揺れる。
足元の黒が、水面のように波打った。
「だったら、まずは普通にやってみる」
レンは影の中へ手を突っ込む。
斧を引き抜く。
いつもの小型ではない。
影の奥から、黒い刃がずるりと伸びた。
柄が太くなる。
刃が広がる。
影が重なり、蜃気楼のように揺れながら、巨大な輪郭を作っていく。
人ひとりを両断するどころではない。
赤い霧の巨人の腕に、かろうじて噛みつけるほどの大斧。
レンの両腕が、重さで沈む。
「このサイズなら、抵抗はできる……かもしれない」
歯を食いしばる。
巨大な〈蜃〉の斧が、ぎしりと音を立てた。
「だがな」
刃先が地面に触れた。
その瞬間、コンクリートが沈んだ。
亀裂が走る。
砂塵が跳ねる。
レンの肩が、重さに引きずられる。
「重すぎる」
吐き捨てるように言う。
振れる。
たぶん、一度なら。
だが、一度振ったところで足りない。
赤い霧は戻る。
巨人は形を取り直す。
その前に、こちらの腕が潰れる。
レンは、巨大な斧を見下ろした。
「……無理だな」
鷹宮が視線だけを向ける。
「レン」
「分かってますよ」
レンは、巨大斧から手を離した。
黒い刃が、地面に沈むようにほどける。
影へ戻り、輪郭を失っていく。
レンは、短く息を吐いた。
「……はぁ」
ツバキの表情が変わる。
それは、疲労ではない。
嫌な予感を見た顔だった。
「レン?」
「普通にやったら無理だ」
「じゃあ、待ちなさいよ」
「待ってくれる相手ならな」
レンは、もう一度影へ手を入れる。
今度、取り出したものは小さかった。
斧というより、楔に近い。
手の中に収まるほどの、黒く短い刃。
だが、それを見た瞬間、鷹宮の顔色が変わった。
「レン。それは――」
「分かってる」
レンは遮った。
「長くは持たない。使った後にどうなるかも、だいたい分かってる」
ツバキが一歩近づく。
「何、それ」
「やりたくないやつ」
「じゃあ、やめなさいよ」
「やめられるなら、さっきやめてる」
歌留多が、レンの手元を覗き込む。
「なるほど」
目を細める。
「お前も馬鹿だったか」
「今からなるんだよ」
レンは、小さく笑った。
赤い霧の巨人が、また腕を振り上げる。
熱が膨らむ。
恭介が前へ出る。
鷹宮が銃口を上げる。
歌留多が手を伸ばす。
紗希が霧の奥を観る。
誰も下がらない。
誰も待たない。
誰も、正しい選択だけを選べない。
「……本当」
レンは、小さな斧を胸元に構えた。
「バカばっかりだ」
刃先が、自分の心臓へ向く。
ツバキの声が鋭くなる。
「レン!」
「応援待とうって言ってんのに」
レンは、赤い霧の巨人を見た。
笑う。
怖いから、笑う。
痛いのが嫌だから、笑う。
それでも進むしかないから、笑う。
「誰も聞きゃしねえ」
一拍。
「俺も馬鹿になるしかねえか……!」




