第45話 黒の経路、発現
レンは、小さな楔を胸元に構えた。
黒く、短い刃。
斧というより、杭に近い。
それを見た瞬間、ツバキの顔色が変わった。
「レン、やめなさい」
声が、鋭くなる。
「それ、普通の技じゃないんでしょ」
「普通の技でどうにかなってたら」
レンは、笑った。
「俺もこんな顔しないってば」
「笑って誤魔化さないで」
「誤魔化してるんじゃねえんだよな、これが」
レンは赤い霧の巨人を見た。
腕が持ち上がる。
熱が集まる。
黒い石を握った恭介へ、巨人の意識が向いている。
それだけは、もう誰の目にも明らかだった。
「怖いから笑ってんだよ」
ツバキの口が、わずかに止まる。
鷹宮が低く言った。
「レン。制限時間は」
「三分。……まったく、光の国から来たヒーローかっての」
レンは即答した。
「それ以上は、たぶん心臓の方が先にキレる」
「なら、三分で終わらせろ」
「命令が雑だな、隊長さん」
「できるか」
「できるかじゃ、ないだろ」
レンは、楔を握り直した。
「やるしかねえんだろ」
赤い霧の巨人が、腕を振り下ろそうとする。
恭介が、黒い石を握ったまま前へ出ようとした。
その足が、ぐらつく。
焦げた服。
焼けた皮膚。
煙の上がる肩。
焦点の合わない目。
それでも、恭介は笑っていた。
「おい、牧師野郎」
「あ?」
「それ、痛ぇのか」
「痛ぇに決まってんだろ?」
レンは吐き捨てる。
「実際、痛ぇよ。やる前からもう嫌だ」
「じゃあ、やめりゃいいじゃねえか」
恭介が、かすれた声で言った。
レンは即座に怒鳴った。
「お前が言うな!」
恭介は、一瞬だけ黙った。
それから、喉の奥で笑った。
「へへ」
焦点の合わない目が、赤い霧の巨人を向く。
「そうだな」
口元だけが、野犬みたいに歪む。
「おっしゃる通りだ」
次の瞬間。
恭介の膝が落ちた。
黒い翼が、背中でほどける。
支えを失った身体が、前のめりに崩れる。
「先輩!」
紗希の声が飛ぶ。
恭介は片手を地面についた。
だが、止まらない。
そのまま、瓦礫の上へ倒れ込んだ。
焦げた服から、薄い煙が上がっている。
握ったままの黒い石だけが、掌の中で脈打っていた。
レンは、それを見た。
あの恭介が、倒れた。
冗談みたいに笑いながら。
当たり前みたいに無茶をして。
それでも、身体の方が先に限界を迎えた。
「……だから言ったろ」
レンは、胸元の楔を握り直す。
「バカばっかりだって」
ツバキが一歩踏み出した。
「レン」
「止めんな」
「止めるわよ」
「止めても無駄だ」
「そういうこと言う奴は、大体死ぬのよ」
「じゃ、死なないように祈っといてくれ」
「軽く言うな!」
レンは笑った。
怖いから。
痛いのが嫌だから。
それでも、ここで止まれば本当に誰かが死ぬから。
楔の刃先を、自分の胸へ向ける。
「三分だ」
誰に言うでもなく、呟いた。
「三分だけ、馬鹿になる」
そして。
レンは、小さな斧を自分の心臓へ突き立てた。
刃は、肉を裂く音を立てなかった。
黒い影が、胸元へ沈む。
皮膚を抜けるというより、影の中へ落ちるみたいに。
だが、心臓に届いた瞬間。
レンの身体が、跳ねた。
「っ、ぐ……!」
息が詰まる。
膝が折れかける。
胸の奥で、何かが開いた。
鼓動が一度、乱れる。
次の瞬間、黒い線が走った。
胸元から首へ。
肩へ。
腕へ。
手の甲へ。
血管のように、黒い筋が皮膚の下を這い上がる。
レンの目に、渦が浮かんだ。
普段の柔らかい目つきが消える。
黒い渦が、ぎらりと回る。
「……っ、は」
レンは息を吐いた。
「最悪」
声が震えている。
「これ、何回やっても慣れねえ」
紗希が、倒れた恭介のそばで目を細める。
「黒い線が、心臓から広がってます」
その声は冷静だった。
だが、指先はわずかに震えている。
「血管というより……通路、ですかね」
鷹宮が低く答えた。
「黒の経路だ」
ツバキがレンを見る。
「そんなもの、体に通して大丈夫なの?」
「大丈夫なわけねえだろ」
レンは即答した。
歌留多が、興味深そうに覗き込む。
「なるほど。馬鹿だな」
「今さら確認すんなっての」
レンは、影へ手を伸ばした。
足元の影が、膨らむ。
さっきと同じ巨大斧。
いや、同じではない。
影の奥から、黒い刃がずるりと伸びる。
柄が太くなる。
刃が広がる。
だが、今度は輪郭がぶれない。
蜃気楼のように揺らめくはずの刃が、黒い線で縫い止められるように形を保っている。
レンの腕から伸びた黒い筋が、柄へ絡みつく。
心臓の鼓動と、斧の輪郭が同期する。
刃先が地面へ触れる。
コンクリートに亀裂が入る。
だが、レンの腕は沈まなかった。
「……軽くはねえな」
レンは歯を食いしばる。
一拍。
「でも、振れる」
ツバキが顔をしかめる。
「それ、全然安心できない言い方なんだけど」
「安心させるために言ってねえよ」
赤い霧の巨人が、腕を振り下ろす。
狙いは、倒れた恭介。
正確には、その手の中の黒い石。
レンが前へ出た。
「今回は」
巨大斧を構える。
「俺の番だ」
倒れた恭介が、瓦礫の上で片目を動かす。
「……邪魔すんなよ、牧師野郎」
「大人しく燃えてろ、吸血鬼くん」
「誰が吸血鬼だ」
「人の血は飲まねえんだったな。悪かったよ」
「覚えてんなら言うんじゃねえ」
「悪いな。余裕がないと口が悪くなる」
「普段からだろ」
「うるせえ」
レンは踏み込んだ。
黒い経路が、心臓で鳴る。
胸が痛い。
息が浅い。
視界の端が黒く滲む。
だが、見える。
赤い霧そのものではない。
その表面に貼りついたもの。
女の像。
笑う顔。
長い髪。
そこに混ざる、白い髪の少女。
幸福だったはずの像が、命令の外皮になっている。
「……なるほどな」
レンは、息を吐いた。
「霧を斬るんじゃねえ」
歌留多が目を細める。
「じゃあ、何を斬る?」
「こいつが」
レンは巨大斧を振りかぶる。
「“そういう形であろうとしてる夢”だ」
紗希が、倒れた恭介のそばで呟く。
「像を斬るんですね」
「そういうこと」
赤い巨人の腕が落ちてくる。
熱が、空間ごと押し潰す。
レンは叫ばなかった。
歯を食いしばり、巨大な〈蜃〉を振る。
黒い刃が、赤い霧の腕を斬った。
いや。
腕ではない。
その表面に貼りついていた女の像を斬った。
ぱきり、と。
音がした。
赤い霧が割れる。
巨人の腕の輪郭が崩れる。
大人の女の顔が裂けた。
その裂け目の奥で、白い少女の輪郭が一瞬だけ露出する。
すぐに赤い霧が埋めようとする。
だが、その一瞬。
奥が見えた。
「見えた」
レンが言った。
紗希が顔を上げる。
「何がですか」
「戻る先だ」
赤い霧の奥。
胸部とも、頭部ともつかない位置。
そこに、黒い石に似た何かがあった。
小さくはない。
だが、形ははっきりしない。
赤い霧に埋もれ、熱に覆われ、像の奥に隠れている。
紗希の目が細くなる。
「あります」
声が硬くなる。
「奥に、黒いもの」
歌留多が一歩前へ出る。
「掴めるか?」
「まだ無理です」
紗希は即答した。
「霧が戻る方が早い」
「なら」
レンは斧を構え直す。
「開け続ける」
鷹宮が問う。
「どれだけ持つ」
「三分って言ったろ」
レンは口元だけで笑う。
「もう減ってるけどな」
その瞬間、胸の奥が強く痛んだ。
「っ……!」
レンの肩が揺れる。
黒い線が、首筋で脈打つ。
手の甲に浮いた黒が、斧の柄へ流れ込む。
ツバキが声を上げた。
「レン、顔色が悪い」
「元からだ」
「ふざけないで」
「ふざけてないと」
レンは、息を吐く。
「痛くてやってらんねえんだよ」
赤い霧の巨人が、裂けた腕を再構成する。
女の顔が戻る。
白い少女の輪郭が隠れる。
赤い霧が、傷口を塞ぐ。
だが、完全ではない。
レンが斬った場所だけ、像の戻りが遅れている。
紗希がそれを見る。
「今の一撃で、戻りが遅れました」
鷹宮が頷く。
「道は通せるということか」
「長くは無理です」
レンは言った。
「一回じゃ足りない」
巨大斧を構え直す。
「俺が像を斬る」
視線が鷹宮へ向く。
「鷹宮。黒が見えたら沈めろ」
鷹宮の目が鋭くなる。
「核に黒があるなら、私の〈石抱〉が通る」
「そういうこと」
レンは次に歌留多を見る。
「歌留多。掴めそうなら掴め」
「命令するな」
「頼んでる余裕がねえんだよ」
「ならいい」
歌留多は笑う。
「掴めそうなら、奪う」
レンは最後に、瓦礫の上で倒れている恭介を見た。
「恭介」
「あ?」
恭介が、うっすら顔を上げる。
「最後はお前がぶっ壊せ」
恭介は、血と煤にまみれた顔で笑った。
「最初からそう言え」
紗希が静かに立ち上がる。
「じゃ、私も身体を張った方がいいかもしれませんね」
レンが顔をしかめた。
「さらっと危ないこと言うなよ」
「いつものことです」
「ほんと、バカばっかりだな」
赤い霧の巨人が、咆哮した。
音ではない。
熱の震えだった。
空気が膨張し、瓦礫が鳴る。
白い霧の残滓が、赤に押し潰されていく。
レンは、巨大斧を構えた。
胸の楔が、心臓に食い込む。
黒い経路が、全身で脈打つ。
「じゃあ、始めようぜ」
一拍。
「三分間の馬鹿騒ぎだ」




