第46話 答えろ、海
レンは踏み込んだ。
胸の奥で、黒の経路が鳴る。
心臓が痛い。
呼吸が浅い。
視界の端が黒く滲む。
それでも、振れる。
巨大な〈蜃〉の斧が、赤い霧の腕を斬った。
いや。
腕ではない。
その表面に張りついた、女の像を斬った。
ぱきり、と音がした。
赤い霧が割れる。
巨人の輪郭が崩れる。
大人の女の顔が裂ける。
その裂け目の奥で、白い少女の輪郭が一瞬だけ露出した。
倒れた恭介の奥歯が、かすかに鳴る。
「……また、それか」
紗希が、恭介へ視線を落とした。
「先輩?」
「知らねえ」
恭介は、赤い霧の奥を睨むように目を細めた。
「けど、むかつく」
レンは、そのやり取りを聞いている余裕もなく、斧を押し切った。
「……斬り裂く!」
像が裂ける。
赤い霧の内側に、空洞が生まれる。
その奥。
胸部とも、頭部ともつかない位置に、黒いものが見えた。
「今だ!」
レンが叫ぶ。
「鷹宮!」
鷹宮は、拳銃を下ろした。
空いた手を、赤い霧の奥へ向ける。
霧ではない。
水蒸気でもない。
血でもない。
そこにだけ、黒がある。
ならば、届く。
「すまない、海」
鷹宮の声は、低かった。
「お前に何があったか。何がお前を変えたのか。私には理解できていない」
一拍。
「それは、不徳だ」
赤い霧の奥で、黒い核が脈打った。
逃げようとしている。
戻ろうとしている。
霧の中へ沈み、再び女の像の内側へ隠れようとしている。
鷹宮の指が、わずかに震えた。
それは恐怖ではなかった。
怒りだった。
「しかし、これは一体何だ」
黒い核が、わずかに沈む。
「我々が、過激派だの鼻つまみ者だのと誹りを受けてまで立ち向かっていたものは」
鷹宮の声が、震える。
「守っていたものは、何だ!?」
赤い霧が軋んだ。
「答えろ」
核が沈む。
「答えろ」
赤い霧の戻りが鈍る。
「答えろ!!」
その瞬間、鷹宮の脳裏に声が蘇った。
『本日からお世話になります、海と申します』
若い声だった。
まだ何も壊れていなかった頃の、真っ直ぐな声。
『誠心誠意、役に立ちたく思います!』
緊張していた。
それでも、前を向いていた。
『そんな、他の組織の方は鷹宮隊長の人となりを知らないだけで、話し合えば分かりますよ!』
鷹宮の奥歯が鳴った。
「……海よ」
赤い霧が、核を奪い返そうと渦を巻く。
鷹宮は、手を下ろさない。
そして、言った。
「沈め」
黒い核が、赤い霧の中で落ちた。
重さが与えられたのは、赤い霧ではない。
核だけだ。
赤い霧の巨体全体は沈まない。
だが、その中心だけが、ぐん、と下へ引かれる。
巨人の腕が歪んだ。
女の顔が崩れた。
赤い霧の戻りが、一瞬だけ遅れる。
「入った!」
レンが叫ぶ。
鷹宮は歯を食いしばった。
「浅い!」
額に汗が浮かぶ。
「長くは保たん!」
「そこか」
歌留多が、瓦礫を蹴った。
小さな身体が、赤い霧の裂け目へ向かって跳ぶ。
ツバキが声を張る。
「無茶しないでよ!」
「無茶じゃない」
歌留多は、振り返らずに笑った。
「奪うだけだ」
見えない巨大な手が、赤い霧の裂け目へ突き込まれる。
さっきとは違う。
赤い霧全体を掴もうとするのではない。
霧の奥。
鷹宮が沈めた黒い核。
そこだけを狙う。
歌留多の表情が変わった。
「……重い。だからこそ、私しか適任はいないわけだ」
レンが、斧を押さえながら叫ぶ。
「掴めたのか!」
「もちろん掴めた。“掴む”“手繰る”“引き寄せる”ことにかけては、私の栄光の手は特化してるからな」
歌留多の声が、少しだけ歪む。
「でも、熱い。重い。うざい」
ツバキが眉をひそめる。
「文句が多いわねえ……」
「不知火と戦ってるときにも、私は言った! 熱いの、やなんだよ!」
歌留多が、両足を瓦礫に突き立てる。
見えない手が、黒い核を掴んだまま引く。
赤い霧が絡みつく。
核が抵抗する。
巨人の全身が、引き戻そうとする。
「こいつ、戻りたがってる!」
歌留多が叫ぶ。
紗希が目を細めた。
「命令が残っているんです」
赤い霧の流れを追う。
「核を失っても、霧が戻そうとしている」
「じゃあ、戻る前に引っこ抜け!」
レンが叫ぶ。
「やってる!」
歌留多も叫び返す。
黒い核が、赤い霧の奥から少しずつ引きずり出される。
赤い霧の胸部が裂ける。
女の像が壊れる。
白い少女の輪郭がまた一瞬だけ見え、すぐに崩れる。
半分ほど露出した核は、黒い石の巨大版のようだった。
表面は濡れたように光っている。
赤い霧が血管のように絡みついている。
内部には、渦眼めいた黒の巻きがあった。
紗希が、小さく息を呑む。
「黒い石と同じ……でも、規模が違う」
鷹宮が、核を見たまま低く呟く。
「観測片か」
レンが顔をしかめる。
「何?」
「まだ断定はできん」
鷹宮の声は硬い。
「だが、海の本来能力だけで生まれるものではない」
核が、跳ねた。
歌留多の顔が歪む。
「っ、あつ……!」
〈栄光の手〉を通じて、痛みが返っている。
見えない手が震える。
歌留多の指先が、同じように震えた。
「こいつ、手の中で暴れてる!」
ツバキが叫ぶ。
「離しなさい!」
「やだ!」
「やだじゃない!」
「離したら戻る!」
レンが即座に叫んだ。
「正解だ、離すな!」
ツバキがレンを見る。
「あんたまで!」
「ああ、そうさ! 俺も馬鹿になったんだよ!」
「開き直らないで!」
赤い霧が、核へ向かって戻り始める。
歌留多の見えない手に、赤い霧が巻きつく。
指の隙間から潜り込み、核を奪い返そうとする。
紗希の声が硬くなる。
「まずいです」
赤い霧の流れが、速い。
「核が霧を呼び戻してます」
鷹宮が、手を前へ出したまま歯を食いしばった。
「沈め続ける」
核が、さらに少しだけ沈む。
だが、赤い霧の量が多すぎる。
鷹宮の腕が震えた。
「くっ……浅い。黒の密度が安定しない」
レンも、斧を構えたまま肩を震わせる。
「俺の道も閉じる!」
赤い霧が戻る。
女の像が再び張りつく。
核が、赤い霧の奥へ引き戻されかける。
「恭介!」
レンが叫んだ。
瓦礫の上で、恭介がゆっくりと起き上がろうとする。
片手を地面につく。
肘が震える。
膝が折れかける。
「先輩!」
紗希が声を上げる。
「……うるせえ」
恭介は、煤と血の混じった息を吐いた。
「行くっての」
黒い石を握ったまま、立ち上がろうとする。
だが、視線が定まらない。
目は開いている。
だが、見えていない。
線が多すぎる。
赤い霧。
黒い石。
核。
恭介の視界の中で、すべてが細い線に分解され、重なり合っていた。
「……見えねえ」
恭介の声が、かすれる。
「線が、多すぎる」
紗希の表情が、変わった。
「照らせばいいんですね」
レンが、斧を支えながら振り向く。
「何を」
「核です」
ツバキの顔が引きつった。
「あなた、また嫌なこと考えてない?」
紗希は、自分の手を見た。
赤い霧に焼かれかけ、まだ熱の痕が残っている手。
細く震えている指。
けれど、その目だけは静かだった。
「先輩には、私が一番見えやすい」
紗希は言う。
「なら、私が核の位置を照らせばいい」
恭介が、顔を上げる。
「おい」
「大丈夫です」
紗希は、少しだけ笑った。
「たぶん、少し痛いだけです」
レンが叫ぶ。
「その“少し”は信用できねえ!」
赤い霧が、核へ戻ろうとしていた。
歌留多が掴む。
鷹宮が沈める。
レンが道を開け続ける。
それでも、足りない。
恭介は立ち上がりかけ、また膝をつく。
「見えねえ」
かすれた声。
「線が、多すぎる」
紗希は、自分の手を見た。
そして、静かに笑った。
「なら」
一拍。
「私が、照らします」




