第47話 まるで、ウィリアム・テルのような。
「私が、照らします」
紗希がそう言った瞬間、ツバキが頭を抱えた。
「あー、もうやばいかも!」
ほとんど悲鳴だった。
「鷹宮もレンも、もう力使い果たしてグロッキーだし、歌留多は熱いのも痛いのも、実は泣いちゃうお子様だし!」
「おい」
歌留多が、黒い核を掴んだまま顔をしかめる。
「大声でそういうこと言うな」
レンは巨大な〈蜃〉を支えながら、苦しげに笑った。
「否定はしねえのかよ」
「泣かない」
歌留多は、赤い霧の中で踏ん張ったまま言う。
「……まだ」
「ほら!」
ツバキが叫ぶ。
「ほらじゃない!」
歌留多が言い返す。
だが、その声には余裕がなかった。
見えない巨大な手は、黒い核を掴んでいる。
その核から返る熱と痛みが、歌留多の手元へ逆流していた。
レンは黒の経路を起動したまま、息を荒げている。
鷹宮は〈石抱〉を維持し続け、額に汗を浮かべている。
歌留多は核を掴んだまま、熱と痛みに耐えている。
恭介は瓦礫の上で、立ち上がるだけでもやっとだった。
誰も、余力など残していない。
その中で、紗希だけが静かに核を見ていた。
「レンさんが道を開ける」
紗希は、赤い霧の流れを追いながら言う。
「鷹宮さんが核を沈める」
鷹宮の手が、わずかに震えている。
「歌留多ちゃんが引きずり出す」
歌留多が、奥歯を噛んでいる。
「でも、壊す役だけは残っています。そうでしょう?」
紗希の視線が、瓦礫の上の恭介へ向いた。
「先輩にしか、できません」
恭介が、ゆっくりと顔を上げた。
立ち上がる。
いや、立ち上がったというより、吊り上げられた死体が、かろうじて直立したようだった。
膝は震えている。
肩は落ちている。
焼けた服の端から、まだ薄い煙が上がっていた。
目は開いている。
だが、焦点は合っていない。
誰も見ていない。
何も見えていない。
それでも、口元だけが笑っていた。
「……ずいぶん買ってくれてるじゃねえか」
「買ってません」
紗希は即答した。
「運用です」
「言い方」
レンが、息を荒げながら顔をしかめる。
「そこでツッコむ余裕はあんのかよ……」
恭介は、赤い霧の奥を睨むように目を細めた。
だが、視線は定まらない。
「見えねえ」
声がかすれている。
「線が多すぎる」
赤い霧も。
黒い石も。
核も。
空間も。
距離も。
奥行きも。
恭介の視界の中では、すべてが細い線に分解され、重なり合っていた。
何を撃ち抜けばいいのか。
どこを貫けばいいのか。
分からない。
ただ一つ。
紗希だけが、線の世界の中で、ぼんやりと光のように残っている。
「核も霧も、全部同じに見える」
恭介は、歯を鳴らした。
「これじゃ、撃ち抜けねえ」
「だから、私が核の位置に重なります」
紗希は、さらりと言った。
レンが顔をしかめる。
「言い方が怖ぇよ」
「簡単に言えば、私が的になります」
「簡単に言わないで!」
ツバキが叫んだ。
紗希は、歌留多が掴んでいる黒い核へ向かって、一歩踏み出した。
赤い霧が、彼女の足元に絡みつく。
熱が肌を刺す。
空気そのものが、焼けた血のように重い。
レンが声を張る。
「近づくな、焼けるぞ!」
「焼けないと照らせません」
「そういう問題じゃねえ!」
恭介が、低く言った。
「おい、紗希」
紗希は振り向かなかった。
「先輩」
赤い霧の熱の中で、静かに言う。
「外さないでくださいね」
恭介は、焦点の合わない目を細める。
「見えてねえっつってんだろ」
「だから」
紗希は、黒い核へ手を伸ばした。
「見えるようにします」
歌留多の〈栄光の手〉が掴んでいる核へ、紗希の手が重なる。
じゅ、と音がした。
「っ――」
紗希の肩が跳ねた。
焼けた匂いが立つ。
指先が震える。
皮膚が熱に灼かれ、痛みが腕へ走る。
それでも、紗希は手を離さない。
「紗希ちゃん!」
レンが叫ぶ。
「離しなさい!」
ツバキの声が飛ぶ。
歌留多も歯を食いしばりながら、紗希を見た。
「馬鹿だな、お前も」
「はい」
紗希は、焼ける手を核へ押しつけたまま、かすかに笑った。
「今だけは、褒め言葉として受け取ります」
黒い核が脈打つ。
紗希の血。
熱。
狙われやすい体質。
それらが、核の黒と重なる。
恭介の壊れた視界の中で、紗希の光が核の位置に重なった。
霧の奥。
線の群れの中心。
そこだけが、見える。
「……離したら」
紗希は、息を震わせる。
「照準が、ずれます」
恭介が、瓦礫の上で笑った。
「紗希よぉ」
焦点の合わない目で、それでも紗希の方を見る。
「火だるまになっても、それ手放すんじゃねえぞ!?」
「お前、ほんとに言い方!」
レンが怒鳴る。
「最低!」
ツバキも叫んだ。
だが紗希は、焼ける手を握り締めたまま、薄く笑った。
「先輩こそ」
一拍。
「外したら、一生言いますからね」
「死んでたら聞こえねえだろ」
「では、死なないでください」
「注文が多いな、契約者様は」
恭介は、手の中の黒い石を見た。
濡れたような黒。
薄く脈打つ表面。
赤い霧の巨人が、それを求めている。
恭介は、何も言わなかった。
ただ、黒い石を口へ放り込む。
がり、と。
歯が、黒い殻を噛み砕いた。
石の外殻が割れる。
中から濃いクロが溢れた。
砕けた黒い破片が、薬莢のように足元へ落ちる。
恭介の喉が鳴る。
中身だけが、体内へ沈む。
「結構、美味いもんだな。これ」
次の瞬間。
背中で、黒い翼が開いた。
それは、回復ではなかった。
折れた骨に無理やり添え木を当てたような。
止まりかけた機械に、異物混じりの燃料を流し込んだような。
恭介の身体は、相変わらず限界だった。
膝はまだ震えている。
視線の焦点も合っていない。
焼けた皮膚からは、薄く煙が上がっている。
ただ、動く。
動いてしまう。
それだけだった。
黒い翼だけが、異様に鋭く広がる。
恭介の口元から、黒がわずかに漏れた。
「……へ、へへへ! よぉく、見えるぜ」
かすれた声。
紗希は、核を握ったまま頷いた。
「なら、お願いします」
「お前、マジで馬鹿だな」
「契約相手に似ました」
「最悪だな」
「ええ」
紗希は、痛みに顔を歪めながらも、笑った。
「ですから、外さないでください」
紗希が、焼ける手を核へ押しつける。
「役目、でしょ?」
恭介が、黒い翼を広げる。
「俺が、ぶっ壊す。そういう話だったな」
レンは、血の気の引いた顔で笑った。
「……本当、馬鹿騒ぎだな」
それは、照準と呼ぶにはあまりにも乱暴だった。
少女が高熱の核を握り、己の存在を目印にする。
その一点を、視界の壊れた男が黒い翼で撃ち抜く。
戦闘機で、頭上のリンゴを撃ち抜くような行為。
外せば、リンゴではなく、首が飛ぶ。
恭介が、黒い翼を低く構えた。
「紗希」
「はい」
「動くなよ」
「善処します」
「動くなって言ってんだよ」
「痛みで手が震えるので、保証はできません」
紗希は、核を握る手に力を込める。
じゅ、と、また焼ける音がした。
「先輩」
「何だよ」
「撃ってください」
恭介の口元が歪む。
「あいよ」
そして。
恭介の黒翼が、弾けた。
黒い弾丸が、赤い霧の中心へ撃ち出された。
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夢の中で、彼女は笑っていた。
あげは。
そう呼んだはずだった。
けれど、振り返った顔は、もう違っていた。




