第48話 黒翼の弾丸
黒い弾丸が、赤い霧の中心へ撃ち出された。
恭介には、もう何も見えていなかった。
赤い霧も。
瓦礫も。
巨人の輪郭も。
核も。
すべてが線だった。
細く、黒く、重なり合い、絡まり、ほどけ、また重なる。
距離もない。
奥行きもない。
上下さえ、曖昧だった。
ただ一つ。
線の群れの奥で、ぼんやりと光るものがある。
紗希。
焼ける手で核を掴み、その位置に自分を重ねている少女。
見えない。
だが、そこにいる。
紗希がいる。
なら、そこだ。
レンの〈蜃〉が、赤い夢の皮を裂いた。
女の像が割れる。
長い髪が裂ける。
白い少女の輪郭が、その奥で一瞬だけ露出する。
鷹宮の〈石抱〉が、黒い核を沈める。
赤い霧そのものではない。
その奥にある、黒い芯だけが、重さを与えられて沈む。
歌留多の〈栄光の手〉が、核を引きずり出す。
「っ、ああもう……!」
歌留多の声が歪んだ。
「熱いんだよ、こいつ!」
見えない手が震える。
それに合わせて、歌留多の指先も震えていた。
それでも、離さない。
紗希の焼ける手が、その核の位置を照らしていた。
じゅ、と。
また、小さく皮膚の焼ける音がした。
紗希の肩が跳ねる。
それでも、彼女は手を離さなかった。
「歯ぁ食いしばれ、紗希!」
恭介が叫ぶ。
「手は離しません!」
紗希が返す。
「そういう意味じゃねえ!」
黒い翼が、赤い霧を裂いた。
外せば、紗希が死ぬ。
迷えば、全員が死ぬ。
だから、恭介は迷わなかった。
線の奥にある光へ。
紗希が照らす一点へ。
黒い翼が、真っ直ぐに突き込まれる。
熱が弾けた。
赤い霧が、悲鳴のように逆流する。
恭介の身体が、紗希の手元すれすれを通過した。
紗希の髪が跳ねる。
焦げた制服の袖が、熱風に煽られる。
彼女の指先のすぐ横を、黒い翼が抜ける。
そして。
黒い核を、射貫いた。
硬い音がした。
石が砕ける音ではない。
骨が折れる音でもない。
何かが、内側から壊れる音。
黒い核の外殻が割れた。
渦眼めいた黒の巻きが裂ける。
赤い霧が、核の中心から逆流する。
熱が抜けた。
紗希の手を焼いていた灼熱が、一瞬だけ途切れる。
その奥から、何かが溢れた。
霧ではなかった。
名前だった。
匂いだった。
笑っていたはずの口元だった。
長い髪だった。
白い指だった。
違う顔だった。
夢の断片だった。
海が捨てられなかったもの。
白石が見たはずの、避けるための未来。
海が、叶えるべき幸福だと誤読したもの。
それが、核の中で脈打っていた。
それが、旧工業地帯を這い回っていた。
傷口を探し。
呼吸を探し。
熱を探し。
器を探していた。
どこにもいない“あげは”を、どこかに作るために。
砕けた夢が、羽の形を取った。
赤い。
真っ赤な、アゲハチョウ。
一匹。
二匹。
三匹。
数えきれない赤い蝶が、核の裂け目から飛び立った。
羽ばたいているのではない。
夢の断片が、自分の名前を思い出せないまま、蝶の形を真似ているだけだった。
◆
あげは。
そう呼べば、振り返るはずだった。
けれど、もう顔はなかった。
笑っていた口元。
長い髪。
白い指。
甘い匂い。
幸福だったはずの部品だけが、ばらばらに浮いている。
そこに、白い髪の少女が混じっていた。
誰のものでもない輪郭。
誰かの願いに、勝手に重ねられた顔。
それも、ほどけていく。
あげは。
カルタ。
どちらの名前も、最後まで形にならなかった。
熱を探せ、という声はもうなかった。
壊せ、という命令も続かなかった。
ただ、赤い羽だけが残った。
◆
赤いアゲハチョウの群れが、旧工業地帯の空へ散っていく。
燃えるでもなく。
鳴くでもなく。
ただ、ほどけながら遠ざかっていく。
その羽の奥で、白い霧の残響が薄れていた。
傷口を探し、呼吸へ入り、熱を追い、器を探していたもの。
それは、虫ではなかった。
白い虫など、最初からいなかった。
あったのは、夢だった。
赤い蝶の群れが、旧工業地帯の夜へ散っていく。
恭介は、それを喰わなかった。
赤い羽には触れない。
血の霧でできた蝶には、牙を立てない。
その中に、黒い芯を持つものだけがあった。
赤い羽の奥。
夢の残骸のさらに奥。
観測片に由来する、黒い核の欠片。
恭介の焦点の合わない目が、それだけを捉える。
「……喰えるところだけ、もらうぜ」
黒い翼が、赤い蝶の群れを裂く。
血のような羽は、左右へ散った。
恭介は、その中心に残った黒だけを噛み取る。
がり、と。
黒い芯が砕けた。
赤い霧は飲まない。
血は飲まない。
ただ、その奥に沈んでいた黒だけが、恭介の喉へ落ちていく。
その瞬間、赤い霧の巨人が止まった。
腕が持ち上がったまま、震える。
女の顔が、何かを言おうとするように歪む。
白い少女の輪郭が、その奥で一瞬だけ浮かび上がる。
だが、もう形を保てない。
核は砕けた。
命令は切れた。
探すものも、壊すものも、もう残っていない。
巨人は倒れなかった。
倒れるだけの身体を、もう持っていなかった。
腕がほどける。
赤い霧の指が、空気の中で崩れる。
肩が溶ける。
胸部の歪な膨らみが、ただの霧へ戻っていく。
女の顔が消える。
長い髪も。
笑みのような口元も。
誰かに似せようとしていた輪郭も。
白い少女の影も、赤い霧の中で薄れていった。
最後に、熱が抜けた。
空気を押し潰していた圧が消える。
鉄骨を焼いていた赤が鈍る。
赤い霧は、旧工業地帯の空へ薄く広がり、やがて夜に溶けていく。
残ったのは、焼けた鉄と。
血の匂いだけだった。
「……終わった、のか」
レンが、巨大な〈蜃〉を消しながら膝をついた。
胸元の楔は、もうほとんど影へ溶けている。
首筋に浮かんでいた黒い線も、薄くなっていた。
だが顔色は悪い。
ツバキが慌てて、その腕を支えた。
「終わったなら、まず医者!」
「俺より先に、そっちを――」
「全員よ!」
ツバキが叫ぶ。
「全員まとめて医者!」
その横で、歌留多が見えない手を引っ込めた。
「……手、痛い」
「だから言ったでしょ!」
ツバキが即座に怒る。
「熱いとか痛いとか、ちゃんと言いなさいよ!」
「言ったら怒るだろ」
「言わなくても怒るわよ!」
「理不尽だ」
「どっちがよ!」
歌留多はむっとした顔で手を振った。
実際に焼けているわけではない。
だが〈栄光の手〉を通して返ってきた痛みは、まだ指先に残っているらしい。
鷹宮は、赤い霧が消えた場所を見ていた。
拳銃を下ろしている。
腕も下ろしている。
だが、視線だけは動かなかった。
そこに、もう海はいない。
赤い霧もない。
白い蛹もない。
あげはと呼ばれた夢もない。
ただ、焼け跡だけが残っている。
その時だった。
「ああっ」
紗希の声が響いた。
全員の視線が、そちらへ向く。
紗希は、焼けた手を押さえたまま、自分の制服を見下ろしていた。
袖は焦げている。
裾は裂けている。
赤い霧に焼かれた跡が、黒く残っている。
指先は震え、顔色も悪い。
それでも、紗希は真っ先にそこを見ていた。
「制服が大変なことに!」
レンは、思わず顔をしかめた。
「服より自分の心配をするべきだろ……」
紗希は、焼けた手を押さえたまま真顔で言う。
「レンさんは分かってないです。制服って高いんですよ!」
「今、それどころじゃねえだろ」
レンは、返しながら思った。
この子は、本当におかしい。
手は焼けている。
顔色も悪い。
少しでも気を抜けば、そのまま倒れそうに見える。
それでも、最初に心配するのが制服なのだ。
瓦礫の上で仰向けに転がっていた恭介が、かすれた声で笑った。
「……だから言っただろ。変な奴だって」
「先輩にだけは言われたくないですね」
紗希は、焼けた手を押さえながら返す。
「お前な、こっちは黒い石まで食ってんだぞ」
「それは先輩が勝手に食べました」
「お前が渡したんだろうが」
「食べろとは言ってません」
「食えるもん渡すな」
「食べ物ではありませんでした」
「じゃあ渡すな」
言い合いながら、二人とも立ってはいなかった。
恭介は地面に転がったまま。
紗希も膝をつき、焼けた手を押さえている。
それでも、口だけは動く。
レンは、それを見て小さく息を吐いた。
「……ほんと、何なんだよお前ら」
鷹宮が、ゆっくりと紗希の方へ歩いてきた。
その視線が、彼女の手に落ちる。
「腕のいい医療班を知っている」
低く、しかしはっきりした声だった。
「医者もだ。良ければ、紹介させてくれ」
紗希が顔を上げる。
「……いいんですか?」
「ああ」
鷹宮は短く頷いた。
「……私の部隊にも、何度か世話になった」
その言葉には、余計な説明はなかった。
けれど、実感があった。
怪我人を運んだことがある声だった。
痛みを見慣れている声だった。
それでも、放っておけない人間の声だった。
紗希は少しだけ目を瞬かせ、それから小さく頭を下げた。
「お願いします」
「任せろ」
鷹宮はそう答えた。
そして、もう一度だけ、赤い霧が消えた場所を見る。
不知火。
白石。
海。
名前が、鷹宮の胸の奥で沈んでいく。
炎の男。
夢を見る副隊長。
真面目に頭を下げていた青年。
それぞれの顔が、消えた霧の向こうに重なり、すぐに夜へ沈んだ。
鷹宮は目を閉じなかった。
ただ、消えた霧の向こうを見つめていた。




