↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ブラックベイン―狂暴×悪辣―  作者: 平行月
第2章 夢蝶はそこにいるか
106/121

エピローグ1 死者の道

 医療班のライトが、旧工業地帯の瓦礫を白く照らしていた。


「火傷が一名。黒の経路反動が一名。ほかにも負傷者がいる。搬送準備を急げ」


 鷹宮の声が飛ぶ。


「俺は歩けるぞ」


 瓦礫の上で仰向けになった恭介が、低く唸った。


「歩ける人は、地面に寝転がってません」


 紗希が、包帯を巻かれながら淡々と返す。


「紗希ちゃん、それ自分にも刺さってるからな……」


 片膝をついたまま、レンがかすれた声で言った。


 その少し先で、ツバキが歌留多の隣に立っていた。


 立っている、ように見せていた。


 顔色は悪い。唇も、いつもより白い。腕を組んでいるのは余裕があるからではなく、そうしていないと身体の震えを隠せないからだった。


 歌留多が、ちらりと横を見る。


「お前、顔色悪いぞ」


「今さら?」


 ツバキは鼻で笑った。


「あんたの方こそ、さっきから手ぇ押さえてるじゃない」


「痛いからな」


「あら、そこは素直なのね」


「熱かったんだよ。あれ」


「でしょうね」


 言い返す声はいつも通りだった。


 けれど、その途中でツバキの膝が、ほんのわずかに揺れた。


 歌留多が眉を寄せる。


 その時だった。


 赤い霧が消えたあとも、空気だけはまだ動いていた。

 風ではない。

 吸い込まれている。


 床に散った赤い羽の残滓。


 蛹壁の奥に残っていた白い霧。


 海がいた場所にこびりついていた、薄い黒。


 それらが、ゆっくりと工場棟の奥へ流れていく。


 壁際だった。

 崩れた鉄骨が作った、深い影の縁。


 そこに、白い線が走った。

 紙を破る音ではない。

 濡れた布を、内側から引き裂くような音。


 影が、裂ける。

 細い白が広がり、その向こうから冷たい空気が漏れた。


 そして桜の匂いがした。

 こんな焼けた工場地帯にあるはずのない、春の匂いだった。


「……待って」


 ツバキが、ふいに顔を上げた。


 医療班の足音も、鷹宮の指示も、歌留多の文句も、その一瞬だけ遠くなる。


 ツバキは、壁際の影を見ていた。


「……何だ、あれ」


 レンが顔を上げる。

 立ち上がろうとして、すぐに膝をついた。


「くそ、足に力入んねえ」


「気持ち悪ぃ流れだな」


 瓦礫の上で、恭介が目を閉じたまま呟いた。


 紗希は、包帯を巻かれた手を見下ろしたまま、小さく繰り返す。


「……死者の道」


「なるほどね」


 ツバキが、裂け目を睨んだ。


「そういえば、ここは犯罪者どもが“死”を流していた場所だっけ」


 赤い羽の残滓が、白い裂け目へ吸い込まれていく。


 一枚。


 二枚。


 三枚。


 羽は途中で蝶の形を失い、ただの赤い霧になって、裂け目の向こうへ落ちた。


 海のいた場所から、薄い白い霧が剥がれる。


 誰かの笑っていた口元。


 長い髪の影。


 呼ばれなかった名前。


 それらが、ひとつずつ、裂け目へ流れていく。


「あの巨人がほどけて、海の死まで一緒に流れた。……死者の道が、口を開いたってわけね」


 ツバキは、短く息を吐いた。


「間近で見るのは初めてだわ」


 白い裂け目が、細く鳴る。

 開いている。


 だが、少しずつ縮小を始めている。

 裂け目の存在が、長くは保たないことが分かった。


 ツバキは、歌留多を見た。


「……歌留多、ごめん。私、先に帰ってるわ」


「え!」


 歌留多が素っ頓狂な声を上げた。


「私はどうするんだ?」


「ごめんごめん、結構私もケガ重くってさ」


 ツバキは軽く言った。


 けれど、その顔色は悪かった。

 足元も、さっきからわずかにふらついている。


「早く帰らないとまずそうなのよ」


 歌留多の表情が、少しだけ変わった。


「……お前、大丈夫なのか」


「大丈夫じゃないから帰るんでしょ」


 ツバキは、わざとらしく肩をすくめた。

 その仕草も、いつもより少し重い。


「まあ、そのうち迎えに行くわよ。ヤトノさんも心配してるだろうし」


 そこで、裂け目の白が少し細くなった。


 ツバキは目を細める。


「……多分、そんなことしなくても、あなたはいつか帰れるわ」


「なんだよ、それ」


 歌留多が眉をひそめる。


 ツバキは答えなかった。


 あの核。


 あの渦。


 あれが、あの人の観測片だとしたら。


 ツバキは、喉の奥で小さく笑った。


 ――運命って怖いね、歌留多。


 歌留多は、白い裂け目を見た。


「あー。そっか」


 そして、納得したように頷く。


「お前なら、影の縁から潜り込めるんだな、あれに」


「そういうこと。だから、閉じる前に行く」


「これからどうしよっかなー」


 歌留多は、わざとらしく空を見上げた。


「……まあ、何とかなるか」


 その時、鷹宮が静かに口を開いた。


「……責任を取る、と言った私の言葉を忘れないでくれ」


 歌留多が振り向く。


 鷹宮は、赤い霧の消えた場所から視線を外さずに続けた。


「私がなんとかする。宿でも、身元でも、必要なものは用意する」


 一拍。


「それくらいは、させてほしい」


 歌留多は、しばらく黙っていた。

 それから、少しだけ肩をすくめる。


「……大人って大変なんだな」


 鷹宮は答えない。

 歌留多は、ふっと笑った。


「まあ、つきあってやるよ。そういうしがらみにさ」


 ツバキが呆れたように笑った。


「偉そうね、あんた」


「偉いからな」


「どこがよ」


 裂け目が、細く鳴った。


 もう長くは保たない。


 ツバキは舌打ちして、歌留多に背を向けた。


「ちゃんと生きてなさいよ」


「お前もな」


「私はあんたより賢いの」


「じゃあ、道に迷うなよ」


「迷わないわよ!」


 白い裂け目が、ばちばちと火花のように歪む。

 ツバキはそこへ向かって踏み出した。


 その背中に、レンが声を飛ばす。


「おい、待て。そんな状態で行けるのかよ」


「行けるから行くのよ」


 ツバキは振り返らない。


「行けなかったら?」


「その時はその時」


「雑だな……」


 レンはもう一度立ち上がろうとして、すぐに諦めた。


 瓦礫の上で寝たまま、恭介が低く言う。


「好きにしろ。帰れる時に帰っとけ」


「言われなくてもそうするわよ」


 紗希は、痛みに顔を歪めながらも、かすかに頭を下げた。


「……お気をつけて」


「そっちもね。手、ちゃんと治しなさいよ」


「制服もです」


「そこは後でいいでしょ」


 ツバキが呆れたように言った。

 それから、裂け目の前で振り返る。


「歌留多!」


「あ?」


「泣いたら承知しないから!」


「泣かない!」


「さっき泣きそうだったでしょ!」


「うるさい!」


 その言い合いを最後に、ツバキは白い裂け目へ飛び込んだ。


 桜色の光が、一瞬だけ彼女の輪郭を縁取る。

 ゴシック調のドレスの裾が、白い向こう側へ消えた。


 次の瞬間、裂け目は糸を切られたように閉じた。


 音が戻る。


 医療班の足音。


 無線の声。


 瓦礫を踏む靴音。


 旧工業地帯の冷えた空気。


 歌留多は、しばらく裂け目のあった場所を見ていた。


「……ほんとに置いていきやがった」


 誰に言うでもなく、ぽつりと呟く。

 鷹宮が静かに言った。


「行くぞ。まずは治療だ」


「私は痛いだけだぞ」


「痛いなら治療対象だ」


「大人はすぐそういう面倒なことを言う」


「それが仕事だ」


 歌留多は、少しだけ口を尖らせた。


 その後のことを、紗希はあまり覚えていない。


 医療班の声。


 鷹宮の指示。


 レンの悪態。


 恭介の、まだ懲りずに言っている「歩ける」という低い声。


 歌留多の、どこか拗ねたような沈黙。


 そして、遠くで閉じた裂け目の音。

 それだけが、妙にはっきり残っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。