エピローグ1 死者の道
医療班のライトが、旧工業地帯の瓦礫を白く照らしていた。
「火傷が一名。黒の経路反動が一名。ほかにも負傷者がいる。搬送準備を急げ」
鷹宮の声が飛ぶ。
「俺は歩けるぞ」
瓦礫の上で仰向けになった恭介が、低く唸った。
「歩ける人は、地面に寝転がってません」
紗希が、包帯を巻かれながら淡々と返す。
「紗希ちゃん、それ自分にも刺さってるからな……」
片膝をついたまま、レンがかすれた声で言った。
その少し先で、ツバキが歌留多の隣に立っていた。
立っている、ように見せていた。
顔色は悪い。唇も、いつもより白い。腕を組んでいるのは余裕があるからではなく、そうしていないと身体の震えを隠せないからだった。
歌留多が、ちらりと横を見る。
「お前、顔色悪いぞ」
「今さら?」
ツバキは鼻で笑った。
「あんたの方こそ、さっきから手ぇ押さえてるじゃない」
「痛いからな」
「あら、そこは素直なのね」
「熱かったんだよ。あれ」
「でしょうね」
言い返す声はいつも通りだった。
けれど、その途中でツバキの膝が、ほんのわずかに揺れた。
歌留多が眉を寄せる。
その時だった。
赤い霧が消えたあとも、空気だけはまだ動いていた。
風ではない。
吸い込まれている。
床に散った赤い羽の残滓。
蛹壁の奥に残っていた白い霧。
海がいた場所にこびりついていた、薄い黒。
それらが、ゆっくりと工場棟の奥へ流れていく。
壁際だった。
崩れた鉄骨が作った、深い影の縁。
そこに、白い線が走った。
紙を破る音ではない。
濡れた布を、内側から引き裂くような音。
影が、裂ける。
細い白が広がり、その向こうから冷たい空気が漏れた。
そして桜の匂いがした。
こんな焼けた工場地帯にあるはずのない、春の匂いだった。
「……待って」
ツバキが、ふいに顔を上げた。
医療班の足音も、鷹宮の指示も、歌留多の文句も、その一瞬だけ遠くなる。
ツバキは、壁際の影を見ていた。
「……何だ、あれ」
レンが顔を上げる。
立ち上がろうとして、すぐに膝をついた。
「くそ、足に力入んねえ」
「気持ち悪ぃ流れだな」
瓦礫の上で、恭介が目を閉じたまま呟いた。
紗希は、包帯を巻かれた手を見下ろしたまま、小さく繰り返す。
「……死者の道」
「なるほどね」
ツバキが、裂け目を睨んだ。
「そういえば、ここは犯罪者どもが“死”を流していた場所だっけ」
赤い羽の残滓が、白い裂け目へ吸い込まれていく。
一枚。
二枚。
三枚。
羽は途中で蝶の形を失い、ただの赤い霧になって、裂け目の向こうへ落ちた。
海のいた場所から、薄い白い霧が剥がれる。
誰かの笑っていた口元。
長い髪の影。
呼ばれなかった名前。
それらが、ひとつずつ、裂け目へ流れていく。
「あの巨人がほどけて、海の死まで一緒に流れた。……死者の道が、口を開いたってわけね」
ツバキは、短く息を吐いた。
「間近で見るのは初めてだわ」
白い裂け目が、細く鳴る。
開いている。
だが、少しずつ縮小を始めている。
裂け目の存在が、長くは保たないことが分かった。
ツバキは、歌留多を見た。
「……歌留多、ごめん。私、先に帰ってるわ」
「え!」
歌留多が素っ頓狂な声を上げた。
「私はどうするんだ?」
「ごめんごめん、結構私もケガ重くってさ」
ツバキは軽く言った。
けれど、その顔色は悪かった。
足元も、さっきからわずかにふらついている。
「早く帰らないとまずそうなのよ」
歌留多の表情が、少しだけ変わった。
「……お前、大丈夫なのか」
「大丈夫じゃないから帰るんでしょ」
ツバキは、わざとらしく肩をすくめた。
その仕草も、いつもより少し重い。
「まあ、そのうち迎えに行くわよ。ヤトノさんも心配してるだろうし」
そこで、裂け目の白が少し細くなった。
ツバキは目を細める。
「……多分、そんなことしなくても、あなたはいつか帰れるわ」
「なんだよ、それ」
歌留多が眉をひそめる。
ツバキは答えなかった。
あの核。
あの渦。
あれが、あの人の観測片だとしたら。
ツバキは、喉の奥で小さく笑った。
――運命って怖いね、歌留多。
歌留多は、白い裂け目を見た。
「あー。そっか」
そして、納得したように頷く。
「お前なら、影の縁から潜り込めるんだな、あれに」
「そういうこと。だから、閉じる前に行く」
「これからどうしよっかなー」
歌留多は、わざとらしく空を見上げた。
「……まあ、何とかなるか」
その時、鷹宮が静かに口を開いた。
「……責任を取る、と言った私の言葉を忘れないでくれ」
歌留多が振り向く。
鷹宮は、赤い霧の消えた場所から視線を外さずに続けた。
「私がなんとかする。宿でも、身元でも、必要なものは用意する」
一拍。
「それくらいは、させてほしい」
歌留多は、しばらく黙っていた。
それから、少しだけ肩をすくめる。
「……大人って大変なんだな」
鷹宮は答えない。
歌留多は、ふっと笑った。
「まあ、つきあってやるよ。そういうしがらみにさ」
ツバキが呆れたように笑った。
「偉そうね、あんた」
「偉いからな」
「どこがよ」
裂け目が、細く鳴った。
もう長くは保たない。
ツバキは舌打ちして、歌留多に背を向けた。
「ちゃんと生きてなさいよ」
「お前もな」
「私はあんたより賢いの」
「じゃあ、道に迷うなよ」
「迷わないわよ!」
白い裂け目が、ばちばちと火花のように歪む。
ツバキはそこへ向かって踏み出した。
その背中に、レンが声を飛ばす。
「おい、待て。そんな状態で行けるのかよ」
「行けるから行くのよ」
ツバキは振り返らない。
「行けなかったら?」
「その時はその時」
「雑だな……」
レンはもう一度立ち上がろうとして、すぐに諦めた。
瓦礫の上で寝たまま、恭介が低く言う。
「好きにしろ。帰れる時に帰っとけ」
「言われなくてもそうするわよ」
紗希は、痛みに顔を歪めながらも、かすかに頭を下げた。
「……お気をつけて」
「そっちもね。手、ちゃんと治しなさいよ」
「制服もです」
「そこは後でいいでしょ」
ツバキが呆れたように言った。
それから、裂け目の前で振り返る。
「歌留多!」
「あ?」
「泣いたら承知しないから!」
「泣かない!」
「さっき泣きそうだったでしょ!」
「うるさい!」
その言い合いを最後に、ツバキは白い裂け目へ飛び込んだ。
桜色の光が、一瞬だけ彼女の輪郭を縁取る。
ゴシック調のドレスの裾が、白い向こう側へ消えた。
次の瞬間、裂け目は糸を切られたように閉じた。
音が戻る。
医療班の足音。
無線の声。
瓦礫を踏む靴音。
旧工業地帯の冷えた空気。
歌留多は、しばらく裂け目のあった場所を見ていた。
「……ほんとに置いていきやがった」
誰に言うでもなく、ぽつりと呟く。
鷹宮が静かに言った。
「行くぞ。まずは治療だ」
「私は痛いだけだぞ」
「痛いなら治療対象だ」
「大人はすぐそういう面倒なことを言う」
「それが仕事だ」
歌留多は、少しだけ口を尖らせた。
その後のことを、紗希はあまり覚えていない。
医療班の声。
鷹宮の指示。
レンの悪態。
恭介の、まだ懲りずに言っている「歩ける」という低い声。
歌留多の、どこか拗ねたような沈黙。
そして、遠くで閉じた裂け目の音。
それだけが、妙にはっきり残っていた。




