断章・夢の断片、最後のひとかけら
夢の話をした。
誰に話したのか、最初は思い出せなかった。
白い部屋だった気がする。
病室のようでもあり、診察室のようでもあり、どこかの研究室の奥にある、使われていない休憩室のようでもあった。
窓はなかった。
ただ、机の上に置かれた古いランプだけが、薄く部屋を照らしていた。
「それで?」
男が、穏やかに尋ねた。
声は柔らかかった。
責めるでもない。
笑うでもない。
馬鹿にするでもない。
ただ、続きを待っている声だった。
だから、海は話した。
夢の中にいる女の話を。
自分ではない自分が、どこか別の場所で幸福になっている話を。
その隣で、彼女が笑っていたことを。
あげは。
そう呼んだはずの名前を。
けれど、話している途中で、海は何度か口を閉じた。
顔が、うまく思い出せなかった。
長い髪だった気がする。
白い指だった気がする。
笑っていた気がする。
甘い匂いがした気もする。
でも、それが本当に彼女のものだったのか、分からない。
夢の中では確かだったはずなのに、目を覚ますと、輪郭だけが抜け落ちている。
海は、そのことを話した。
すると、男は静かに笑った。
「なんてロマンのある話なんだ」
海は、顔を上げた。
否定されると思っていた。
夢だと。
妄想だと。
忘れた方がいいと。
そう言われると思っていた。
けれど、男は違った。
「見たものを、なかったことにする必要はないよ」
男は、ランプの光の向こうで言った。
「夢であれ、幻であれ、君がそれを見たという事実は消えない」
その声は、優しかった。
「なら、そこには何かがある」
海の胸の奥で、何かが緩んだ。
誰にも話せなかったもの。
誰にも信じてもらえないと思っていたもの。
自分でも、間違っていると分かっていたもの。
それを、初めて否定されなかった。
「……ある、んですか」
「あるとも」
男は頷いた。
「少なくとも、君の中には」
海は、息を呑んだ。
それは救いの言葉だった。
少なくとも、その時の海には、そう聞こえた。
「ただ」
男は、机の上に細い器具を並べた。
針のようなもの。
黒い硝子片のようなもの。
小さな渦を閉じ込めたような、濡れた黒。
「曖昧なものは、すぐにほどけてしまう」
男は言う。
「顔も、名前も、匂いも、声も。夢は目覚めるたびに崩れていく」
海は、男の手元を見た。
黒いものが、ランプの光を吸っていた。
「だから、留めてあげよう」
「留める……?」
「君が見た幸福を」
男は、優しく言った。
「君が忘れないように」
その言葉を、海は疑わなかった。
疑えなかった。
男は、海のこめかみに触れた。
冷たい指だった。
次の瞬間、細い痛みが入ってきた。
頭の奥へ。
記憶の奥へ。
夢の奥へ。
針が入る。
黒いものが、沈む。
あげは。
名前が浮かぶ。
長い髪。
白い指。
甘い匂い。
笑っていた口元。
それらが、細い糸で結ばれていく。
ほどけないように。
忘れないように。
崩れないように。
けれど、その途中で、何かが混じった。
白い髪。
幼い輪郭。
知らないはずの顔。
あげはではない。
でも、夢の奥に最初からあったような顔。
男の指先が、一瞬だけ止まった。
海は、眉をひそめた。
「違う」
そう言った気がする。
けれど、男は答えなかった。
あるいは、答えたのかもしれない。
優しい声で。
大丈夫だ、と。
それもまた、君が見たものだ、と。
黒いものが、さらに深く沈んだ。
夢は固定される。
けれど、固定されたものは、もう夢ではなかった。
名前は、命令になった。
顔は、器を探すための型になった。
甘い匂いは、人を誘うための餌になった。
白い霧は、傷口を探すようになった。
呼吸へ入り込むようになった。
熱を追うようになった。
どこにもいない“あげは”を、どこかに作るために。
「これで、忘れない」
男が言った。
海は、目を閉じた。
救われたのだと思った。
救われたのだと、思いたかった。
その夢が、旧工業地帯を這い回るようになることを、まだ知らなかった。
その夢が、白い霧と呼ばれることを、まだ知らなかった。
その夢が、人を蛹にする虫の噂になることを、まだ知らなかった。
ただ、海は覚えていた。
男が最後に言った言葉だけを。
「美しい夢だ」
その声は、どこまでも優しかった。
だからこそ、恐ろしかった。
――それが、恭介がその晩に見た夢であった。




