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ブラックベイン―狂暴×悪辣―  作者: 平行月
第2章 夢蝶はそこにいるか
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断章・夢の断片、最後のひとかけら

 夢の話をした。


 誰に話したのか、最初は思い出せなかった。


 白い部屋だった気がする。


 病室のようでもあり、診察室のようでもあり、どこかの研究室の奥にある、使われていない休憩室のようでもあった。


 窓はなかった。


 ただ、机の上に置かれた古いランプだけが、薄く部屋を照らしていた。


「それで?」


 男が、穏やかに尋ねた。


 声は柔らかかった。


 責めるでもない。

 笑うでもない。

 馬鹿にするでもない。


 ただ、続きを待っている声だった。


 だから、海は話した。


 夢の中にいる女の話を。


 自分ではない自分が、どこか別の場所で幸福になっている話を。


 その隣で、彼女が笑っていたことを。


 あげは。


 そう呼んだはずの名前を。


 けれど、話している途中で、海は何度か口を閉じた。


 顔が、うまく思い出せなかった。


 長い髪だった気がする。

 白い指だった気がする。

 笑っていた気がする。


 甘い匂いがした気もする。


 でも、それが本当に彼女のものだったのか、分からない。


 夢の中では確かだったはずなのに、目を覚ますと、輪郭だけが抜け落ちている。


 海は、そのことを話した。


 すると、男は静かに笑った。


「なんてロマンのある話なんだ」


 海は、顔を上げた。


 否定されると思っていた。


 夢だと。

 妄想だと。

 忘れた方がいいと。


 そう言われると思っていた。


 けれど、男は違った。


「見たものを、なかったことにする必要はないよ」


 男は、ランプの光の向こうで言った。


「夢であれ、幻であれ、君がそれを見たという事実は消えない」


 その声は、優しかった。


「なら、そこには何かがある」


 海の胸の奥で、何かが緩んだ。


 誰にも話せなかったもの。

 誰にも信じてもらえないと思っていたもの。

 自分でも、間違っていると分かっていたもの。


 それを、初めて否定されなかった。


「……ある、んですか」


「あるとも」


 男は頷いた。


「少なくとも、君の中には」


 海は、息を呑んだ。


 それは救いの言葉だった。


 少なくとも、その時の海には、そう聞こえた。


「ただ」


 男は、机の上に細い器具を並べた。


 針のようなもの。

 黒い硝子片のようなもの。

 小さな渦を閉じ込めたような、濡れた黒。


「曖昧なものは、すぐにほどけてしまう」


 男は言う。


「顔も、名前も、匂いも、声も。夢は目覚めるたびに崩れていく」


 海は、男の手元を見た。


 黒いものが、ランプの光を吸っていた。


「だから、留めてあげよう」


「留める……?」


「君が見た幸福を」


 男は、優しく言った。


「君が忘れないように」


 その言葉を、海は疑わなかった。


 疑えなかった。


 男は、海のこめかみに触れた。


 冷たい指だった。


 次の瞬間、細い痛みが入ってきた。


 頭の奥へ。


 記憶の奥へ。


 夢の奥へ。


 針が入る。


 黒いものが、沈む。


 あげは。


 名前が浮かぶ。


 長い髪。


 白い指。


 甘い匂い。


 笑っていた口元。


 それらが、細い糸で結ばれていく。


 ほどけないように。

 忘れないように。

 崩れないように。


 けれど、その途中で、何かが混じった。


 白い髪。


 幼い輪郭。


 知らないはずの顔。


 あげはではない。

 でも、夢の奥に最初からあったような顔。


 男の指先が、一瞬だけ止まった。


 海は、眉をひそめた。


「違う」


 そう言った気がする。


 けれど、男は答えなかった。


 あるいは、答えたのかもしれない。


 優しい声で。


 大丈夫だ、と。


 それもまた、君が見たものだ、と。


 黒いものが、さらに深く沈んだ。


 夢は固定される。


 けれど、固定されたものは、もう夢ではなかった。


 名前は、命令になった。


 顔は、器を探すための型になった。


 甘い匂いは、人を誘うための餌になった。


 白い霧は、傷口を探すようになった。


 呼吸へ入り込むようになった。


 熱を追うようになった。


 どこにもいない“あげは”を、どこかに作るために。


「これで、忘れない」


 男が言った。


 海は、目を閉じた。


 救われたのだと思った。


 救われたのだと、思いたかった。


 その夢が、旧工業地帯を這い回るようになることを、まだ知らなかった。


 その夢が、白い霧と呼ばれることを、まだ知らなかった。


 その夢が、人を蛹にする虫の噂になることを、まだ知らなかった。


 ただ、海は覚えていた。


 男が最後に言った言葉だけを。


「美しい夢だ」


 その声は、どこまでも優しかった。


 だからこそ、恐ろしかった。


 ――それが、恭介がその晩に見た夢であった。

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