エピローグ2 変な父親 (第2章・完)
数日後。
タクシーの窓から、見慣れた看板が見えた。
喫茶店〈灯〉。
紗希は、包帯の巻かれた右手を膝の上に置いたまま、少しだけ首を傾げる。
「――あれ、お店やってる」
本来なら、閉まっているはずだった。
自分はついさっき退院したばかりだ。
右手はまだ包帯だらけで、まともに物も掴めない。制服も駄目になった。しばらく店は休みにするしかないと、病院のベッドの上で考えていた。
なのに、〈灯〉には明かりがついている。
しかも、客の声がする。
珈琲の匂いもする。
それだけではない。
なぜか、出汁の匂いがする。
……多分、カツオだ。
「私以外にお店を回せる人っていえば、まさか……」
紗希は料金を支払い、タクシーを降りた。
店先には、臨時営業中と書かれた紙が貼られている。
字はやたら達筆だった。腹立たしいくらいに達筆だった。
嫌な予感しかしない。
扉を開ける。
ベルが鳴った。
「わ、わぁー!」
紗希は、入口で固まった。
「喫茶店〈灯〉が、ちゃんこ鍋〈灯〉に変わっている!」
店内は、営業中だった。
ただし、喫茶店の営業ではなかった。
カウンターの上には、大鍋。
テーブルには小鉢。
厨房では湯気が上がり、店内のあちこちに皿が積まれている。
常連らしき近所の人間が数人、なぜか椅子を運んでいる。
どこかで見たことのある医療班らしき人間も、片隅で粥をすすっていた。
喫茶店というより、避難所である。
もしくは、相撲部屋の食堂である。
カウンターの奥では紗希の父親が鍋をかき混ぜ、レンはその横で皿を拭き、恭介はカウンター端の椅子に顔を腫らして沈んでいた。
「あ、紗希ちゃん。退院おめでとう」
レンが、気まずそうに片手を上げた。
エプロンを着ていた。
どう見ても、手伝わされていた。
「レンさん、何してるんですか」
「皿拭き」
「なぜ」
「断れなかった」
レンは、死んだ目で皿を拭いている。
その隣で、恭介が低く言った。
「逃げろ、紗希。ここはもう、お前の知ってる〈灯〉じゃねえ」
「先輩」
紗希は、恭介の顔を見た。
左頬が腫れている。
口元にも絆創膏がある。
目元にうっすら青あざができていた。
「その顔はどうしたんですか?」
「階段から、つまずいて転んだ」
「ああ、なるほど。お父さんにやられたんですね、その顔」
「……階段から、つまずいて、転んだ」
恭介は、妙にゆっくりと言い直した。
その瞬間。
カウンター奥から、男が現れた。
紗希の父親。
灯達仁である。
「まあ、男同士のコミュニケーションというのもあったんだよ!」
達仁は、恭介の肩をがっしりと組んで、高笑いした。
「無粋な詮索はやめたまえ。私の可愛い娘よ! なっはっは!」
「肩が痛ぇ」
「おや、そうかい? それは大変だ。ではもう少し優しく組もう」
「締まってんだよ、首が」
達仁は笑顔だった。
笑顔のまま、恭介の首を少しだけ締めていた。
レンが、皿を拭きながら、紗希の方へ身を寄せる。
「……泣きわめきながら往復ビンタしてたぞ、あのおっさん。俺、初対面だったから流石にドン引きしたぜ」
「あ、あはは……」
紗希は乾いた笑みを浮かべた。
「うちの父、変わってるので」
「変わってるで済ませていいのか、あれ」
「先輩も変わってるので、おあいこということで」
「俺を巻き込むな」
恭介が呻く。
その横で、達仁は紗希の声を聞いて、ぱっと表情を変えた。
「おかえり、紗希」
声だけは、本当に優しかった。
紗希は、数秒ほど固まる。
「お、お父さん……」
「うん。お父さんだよ」
「帰ってたんですか」
「娘が入院したと聞いてね。長い出張なんて切り上げるに決まってるだろう?」
「誰から聞いたんですか」
「父親には、娘の危機が分かるものなんだよ」
レンが小さく呟く。
「それは情報源ではないですね」
「相馬くん」
「はい」
「手が止まってるね?」
「はい……」
レンは皿拭きに戻った。
紗希は、包帯の巻かれた右手を少しだけ持ち上げる。
「お父さん。お店のことなんですけど」
「大丈夫。ちゃんと回しているよ」
「喫茶店がちゃんこ鍋屋になっています」
「栄養が大事だからね。あと勢い的なものとか」
「お店の業態も大事です」
「細かいなあ、紗希は。でもそこが、お母さんに似て素敵だよ」
「細かくありません」
紗希が呆れていると、扉のベルがもう一度鳴った。
「失礼する」
入ってきたのは、鷹宮だった。
その半歩後ろで、歌留多が店内を見回している。深めのフードを被り、まだ少し警戒するように周囲を見ていた。
「随分様変わりしたな~」
歌留多が、店内の鍋と皿の山を見て言った。
カウンター端で腫れた顔をしていた恭介が、片目だけを動かす。
「また来やがった」
「うるさい、気安く話しかけんな」
「先に話しかけたのお前だろ」
「お前の顔がうるさい」
「顔のことは言うな。まじで言うな。二度と触れるんじゃねえ」
紗希は、少し嬉しそうに歌留多を見た。
「あら、カルちゃんじゃないですか」
「カルちゃんってなんだ。馴れ馴れしいぞ」
「では、歌留多さん?」
「それも変だ。お前の方がお姉さんだぞ?」
「難しいですねぇ」
紗希は、軽く頭を下げる。
「何はともあれ。……いらっしゃいませ、どうぞごゆっくり」
歌留多は一瞬だけ返答に詰まり、それからぷいと横を向いた。
「……客扱いするな」
「来店されたので」
「来店したけど」
「では、お客様です。だから私は、常に敬語なんですよ」
「むう」
鷹宮が、入口近くで姿勢を正した。
「灯紗希くん、退院直後にすまないね」
「いえ。こちらこそ、医療の手配ありがとうございました」
「礼を言われる立場ではない」
「でも、助かりました」
鷹宮は、少しだけ言葉を止めた。
「……そうか」
その声に、ほんのわずかだけ力が抜ける。
「……おや」
達仁が、目を細める。
「横にいるのは、新しい従業員の方ですかな?」
鷹宮の眉間に皺が寄った。
「貴様……」
「久しぶりだね、鷹宮くん」
「相変わらず、人を苛立たせる声をしている」
「君も相変わらず、肩に力が入りすぎだ」
「貴様にだけは言われたくない」
紗希は、父と鷹宮を交互に見た。
「お父さん、鷹宮さんと知り合いなんですか?」
「まあね。昔、少し」
「少しで済ませるな」
「じゃあ、長く面倒な付き合い」
「そちらの方が腹立たしい」
レンが、皿を持ったまま小声で言う。
「犬猿の仲ってやつか」
恭介が、腫れた頬を押さえながら答える。
「何で同窓会みたいになってんだ……」
歌留多は鷹宮の横から半歩ずれて、カウンター席の恭介を警戒するように見ていた。
鷹宮が息を吐く。
「この子については、しばらく私が預かる」
「預かられるって言い方、気に入らない」
歌留多が即座に言う。
「では、保護する」
「それも気に入らない」
「身元がないだろう」
「身元ってなんだ」
レンが、皿を拭く手を止めた。
「そこからか……」
達仁は、鍋の火加減を見ながら笑った。
「大変そうだね、鷹宮くん」
「分かっているなら手伝え」
「僕は無理だよ。なにせこれから、愛しい娘の看病とお店の切り盛りで大忙しだからね!」
「私一人で全部何とかするんで、お父さんは休んでてください」
「忙しくなるぞ! ……そうそう、退院祝いに何か作らなくっちゃねえ!」
「聞いてませんね」
紗希は、諦めたように肩を落とした。
客のざわめきが少し遠のき、カウンターを挟んで達仁と鷹宮だけが声を落とした。
「それで、鷹宮くん」
達仁は鍋をかき混ぜながら言った。
「君がわざわざ退院直後の娘の店に顔を出した理由は、謝罪だけじゃないんだろう?」
鷹宮の表情が、わずかに硬くなる。
「……相変わらず、嫌なところを見る」
「喫茶店主だからね。客の顔色くらいは見るさ」
「喫茶店主が鍋を振る舞うな」
「そこは家庭的と言ってほしい」
「言わん。意地でもだ」
達仁は笑っていた。
けれど、その目だけは、もう笑っていなかった。
鷹宮は少しだけ間を置き、声を低くする。
「部下の豹変を調べていた」
達仁の手が、鍋の上で止まる。
「不知火くん、白石くん、海くん」
「名前まで知っているのか」
「僕も出張先で似たような匂いを嗅いだからね」
紗希が、小さく反応する。
「出張先……?」
「仕事の話だよ。もう隠していてもしょうがないね、このメンツは。……WFA絡みの仕事だよ」
その言葉を聞いた瞬間、紗希の目が少しだけ変わった。
父が、WFAという名前を当然のように口にした。
それがどういう意味を持つのか、今はまだ分からない。
達仁は、紗希にだけ軽く笑ってみせた。
「あとでちゃんと話すよ。包帯の交換が終わってからね」
「今、関係ありますよね」
「あるね」
「じゃあ今話してください」
「娘が怖い顔をするようになってしまった……」
「自業自得だ」
鷹宮が冷たく言った。
それから、再び声を落とす。
「調べるうちに、一つの名前に行き着いた」
達仁が言う。
「そこで妨害を受けた?」
鷹宮は、達仁を見た。
「……なぜ分かる」
「僕も似たような目に遭ったからだよ」
達仁は、鍋の火を落としてから、初めて笑みを消した。
店内の音が、少しだけ遠くなる。
皿を拭いていたレンも、手を止めた。
恭介はカウンター端で、腫れた顔のまま眉を寄せている。
歌留多は入口近くで、フードの奥から二人を見ていた。
紗希は入口近くに立ったまま、父の横顔を見ていた。
達仁が言った。
「ミカゲ、だろう」
その名前が、店の中に落ちた。
カウンター端の恭介と、入口近くの歌留多が、ほとんど同時に反応した。
「……あ?」
恭介が、眉間を押さえる。
「先輩?」
紗希が呼ぶ。
「いや」
恭介は、こめかみのあたりを押さえた。
「今、なんか……気持ち悪かったっつーか」
歌留多が、ぽつりと繰り返す。
「ミカゲ?」
鷹宮が振り向く。
「知っているのか」
歌留多は少しだけ黙った。
それから、フードの奥で目を細める。
「……兄の名前と同じだ」
恭介が、理由もなく顔をしかめた。
紗希は、その表情を見ていた。
同じ名前に、二人が別々の違和感を示した。
「……」
その事実だけを、紗希は覚えておくことにした。
達仁は、しばらく沈黙していた。
やがて、何事もなかったようにカウンターへ戻る。
「まあ、難しい話は珈琲を淹れてからにしようか」
「その余裕が気に食わん。今も昔もな」
鷹宮が低く言う。
「余裕じゃないよ。店だからね。シビアなんだ」
達仁は、いつもの調子に戻ったように笑った。
紗希が、すかさず口を開く。
「お父さん」
「何かな」
「勝手に店を開けた件については、あとで話があります」
「紗希もそっち側かあ」
カウンター端で、恭介が小さく言った。
「いいぞ、もっと言え」
達仁は、にこやかに恭介を見た。
「恭介くんは黙ってようか」
「……OK、ボス」
レンが、皿を持ったまま目を丸くする。
「君、返事するんだ……」
時計の針が、かちりと鳴った。
〈灯〉には、珈琲の匂いが戻っていた。
けれど、その奥で。
ミカゲという名前だけが、冷めないまま残っていた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。続く3章も執筆中ですので少々お待ちください。




