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ブラックベイン―狂暴×悪辣―  作者: 平行月
第3章 五と三と、紗希の傷
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3章・プロローグ 歌留多と喫茶店

「鷹宮さん、歌留ちゃんを置いていく時、すごく心配そうでしたね〜」


 喫茶店〈灯〉のカウンターの内側で、灯紗希が言った。


 白い皿が一枚。

 その上に、丸く切り分けられたスポンジケーキ。

 薄く塗られたクリーム。

 苺。ブルーベリー。小さなミントの葉。

 紗希はそれらを、ひとつずつ、丁寧に並べていた。


「会議とか言ってましたっけ」


 歌留多は、カウンター席に座ってそれを見ていた。


 両手は袖の奥。

 深く被ったフードの下から、じっと皿の上を観察する。


「鷹宮さんが来るまでの間、美味しいケーキを楽しんでくださいね」


 紗希は、クリームの上へ粉砂糖を振る。


「……それなりにお題も貰ってますしね」


「お題?」


 歌留多は顔を上げた。


「金か?」


「大人の事情です」


「つまり金だな」


「歌留ちゃん、そういうところ鋭いですね……」


 紗希は笑って、最後にチョコレートの小さな飾りを皿の端へ置いた。


 何かが何かになる瞬間を見るのは好きだ。


 生地が膨らむ。

 形が変わる。

 名前が変わる。


 ただの材料が、ケーキになる。


「できました」


 紗希は、少しだけ誇らしげに皿を持ち上げた。


「歌留ちゃん歓迎スペシャルケーキです」


「名前が長い」


「特別感があるでしょう?」


「ある。けど、長い」


 歌留多はそう言いながら、皿の上を見つめ続ける。


 研究対象としては悪くない。


 スポンジ。クリーム。果物。飾り。

 それぞれは別のものだった。

 けれど、順番に並べられ、意味を与えられ、名前をつけられた瞬間に、それは別のものになる。


 私は研究者になる。


 そう決めている。


 父親も研究者だったらしい。

 私を育てた男も、似たようなものだった。

 ならば、それは必然なのかもしれない。


 でも、必然だとしても、選ぶのは私だ。


 何になるのか。

 何にされるのか。


 その違いを、私はまだうまく言葉にできない。


 歌留多は、紗希を見た。


 サキは、何になるつもりなんだろう。


 カウンターの向こうで、紗希はケーキの皿を歌留多の前へ置いている。

 エプロン姿で、少し楽しそうに。

 ごく普通の喫茶店の娘みたいな顔をして。


 けれど、歌留多は知っている。


 この女は、ただの喫茶店の娘ではない。


 恐怖を見つめる。

 怪異を見つめる。

 それを、言葉にしようとする。


 なら、サキは何になるのか。


 書く者か。

 記録する者か。

 それとも、もっと別の何かなのか。


 それから、歌留多は店の奥へ目を向ける。


 そこには今、キョウスケがいるはずだった。


 見えなくても分かる。

 あの悪い顔の男は、だいたい騒がしいところにいる。


 キョウスケは、何になりたいんだろう。


 飢えと視界汚染を治すために、喰う者。

 喰うために、がむしゃらに壊す者。

 救うつもりがなくても、結果として誰かを救ってしまう者。


 それは本人が選んだものなのか。

 それとも、そうなるしかなかったのか。


 それも含めて、今、私は観察中である。


「そういえば」


 歌留多は、ケーキから視線を外し、紗希の首元を見た。


 今日の紗希の首には、細い絆創膏が貼られていた。

 日によって、包帯だったり、スカーフだったり、ハイカラーの服だったりするらしい。

 季節によっては、ずっとマフラーを巻いていたりすることもあると聞いた。

 隠し方は変わる。

 けれど、隠している場所はいつも同じだった。


「サキって、いつも首に何かつけてるな」


「え?」


「絆創膏とか、包帯とか」


 歌留多は首を傾げる。


「なんかあったのか?」


「ああ、それはですね」


 紗希は、あっさりと言った。


「昔、怪我をしてしまって」


「怪我」


「その怪我を、先輩が広げてしまったので。それを隠してるんですよ」


 歌留多は目を細めた。


「まじか。キョウスケ最低だな」


「まあ、色々あったんですよ」


 紗希は苦笑した。


 けれど、ほんの少しだけ声の調子が変わる。


「……そしてその傷、ちょっと厄介なことになってまして」


「厄介?」


「はい。ええと――」


 その時だった。


 店の奥から、レンの声が飛んできた。


「おいおい、仕損じるなよ恭介!」


 レンが荒げた口調を、こうやって上げるときは、だいたいが非常事態の時だ。

 続いて、何かが床を滑る音。


「……紗希ちゃんごめん、そっちに怪異逃げたわ! 用心してくれ! 歌留多の嬢ちゃんも!」


 紗希の表情が変わった。


 歌留多も、カウンターの向こうへ視線を落とす。


 黒いゼリーのような小さなものが、床をぬるりと滑っていた。


 丸い。

 柔らかそうだ。

 けれど表面に、白い単眼めいたものが浮かんでいる。


 それが、紗希を見た。


 いや。

 紗希の首元を見た。


 小型怪異が、跳ねた。


「……!」


 紗希が息を呑む。


 黒い塊は、絆創膏の貼られた首筋へ一直線に飛びかかった。

 小さな身体を引き伸ばし、傷口の奥へ潜り込もうとする。


 歌留多は、反射で袖の奥の指を組んでいた。


「言ったそばからこの傷、そうか侵入経路になってるのか……!」


 同時に、足音と共に、奥から恭介の怒鳴り声が轟く。


「てめえ! 神妙に、しやがれええ!」


 何かが投げられた。


 歌留多は怪異を見ていた。

 怪異は紗希の首元へ届きかけている。

 紗希の手は間に合わない。

 恭介の投げたものは、空中を一直線に飛んでくる。


 なら、まず掴む。


 そう決めた瞬間、歌留多の瞳に青白い渦がぐるりと廻った。


「……栄光の手っ!」


 袖の奥から、見えない手が伸びた。


 小型怪異が、紗希の首筋へ触れる寸前で止まる。

 ぷるぷると震え、そこから無理やり引き剥がされる。


 よし、もう離さないぞと。


 歌留多がそう思った、その直後。


 恭介の投げたものが、紗希の顔面に命中した。


 べしゃり。


 白いクリームが散った。


「ふも!!」


 紗希の悲鳴ともつかない、何か奇妙な声が漏れ出てきた、その側から。


 苺が落ちた。

 ブルーベリーが跳ねた。

 ミントの葉が、紗希の前髪にくっついた。


 さっきまで歌留多の前にあった、歌留ちゃん歓迎スペシャルケーキだったものが、紗希の顔面で無残に潰れていた。


 店内が止まった。


「……」


 紗希は動かない。


 首元には、もう怪異はいない。

 傷も無事だった。

 ただし、顔面はケーキだった。


「あ」


 恭介が、店の奥から顔を出した。


 血の気の引いた顔だった。


「やべっ」


 歌留多は、見えない手で小型怪異を掴んだまま、恭介を見る。


「キョウスケ」


「……わりーわりー」


 恭介が、雑に手を上げた。


「咄嗟だったんだよ」


 紗希の肩が、小さく震えた。


「……先輩」


「おお。ぶ、無事か。よかったぜ」


「後で、厨房へ」


「……はい」


 歌留多は、少しだけ首を傾げた。


 変な女だ。


 ついさっき、怪異が古傷の中へ潜り込もうとした時より。

 ケーキを顔面へぶつけられた今の方が、よっぽど怒っている。


 奥の方で、レンが低く呟いた。


「……あ〜あ」


 心底、関わりたくなさそうな声だった。


「あいつまた、フライパンでボコボコにされるぞ。俺、知らね」


 歌留多は、台無しになったケーキと、手の中で震えている小型怪異を交互に見た。


 作られたものは、壊れる。


 ケーキは、ケーキだったものになる。

 顔面にぶつかったケーキは、もう歓迎スペシャルではない。

 けれど、完全に無意味になったわけでもない。


 ただの怪異が、捕獲物になる。

 捕獲物は、実験材料になる。


 何かが何かになる瞬間を見るのは、やはり面白い。


「さて」


 この怪異は、そのうち恭介に喰われる運命にある。

 だとすれば、このままただの返却物にするんじゃ、面白くない。

 歌留多はそう思った。



 そして、歌留多は自分の手で、今朝鷹宮の荷物から拝借した“あるもの”を取り出した。

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