3章 プロローグ2 “成りそびれた男”
足元が、ひどく柔らかかった。
踏みしめるたびに、湿った地面が靴裏へまとわりつく。土でも泥でもない。腐った花弁と細い根が、夜露を吸って膨らんだような感触だった。甘ったるい桜の匂いが鼻にこびりつき、息を吸うたび喉の奥が粘つく。
暗い。
だが、何も見えないわけではない。
頭上のどこかに白いものが揺れている。雪ではない。ふわりと落ちてくるくせに、地面へ届く前に軌道を変え、見えない何かに引かれるように一点へ集まっていく。花びらだと気づくより先に、直哉は前へ踏み出していた。
急がなければならない。
理由は分からない。けれど、それだけははっきりしていた。胸の奥が嫌なふうに騒いでいる。遅れるな。止まるな。まだ、そこにいる。そんな焦りだけが、説明もなく身体を急かしてくる。
前方に、人影が見えた。
その瞬間、心臓が強く跳ねた。
いた。
喉元までせり上がったのは安堵だったのか、それとも絶望だったのか、自分でも分からない。ただ、その姿を見つけた瞬間に理解してしまった。間に合うかもしれない、ではない。もう、間に合わないかもしれないものを、いま必死で追っているのだと。
「待て……!」
声が掠れた。
届かない。
人影は黒い幹の根元にいた。いや、立っているのではない。沈んでいた。巨大な桜の幹に似た影へ、半身を呑まれかけている。表皮は木肌のようにひび割れているくせに、その割れ目の奥が妙に生々しく、濡れた肉みたいに脈打って見えた。
やめろ、と叫びたかった。
そいつに向かってか、樹に向かってか、自分でも分からない。ただ、目の前で奪われていくものを、そのまま見ているわけにはいかなかった。
足を踏み出す。靴が沈む。地面の下から細い根が浮き上がり、足首へ絡みつく。振り払うように無理やり前へ出る。花びらが舞う。いや、落ちているのではない。吸い寄せられている。あの人影の沈む先へ。
嫌な記憶が、形になる前に全身を強張らせた。
知っている。
この夜を、知っている。
人影の腕が動いた。
わずかに。ほんの、かすかに。助けを求めるようにも見えたし、ただ最後の力で地面を掻いただけにも見えた。けれど、その動きがあまりにも必死で、あまりにも人間らしくて、直哉は息を呑んだ。
まだ、意識がある。
まだ、そこにいる。
だったら、助けられるはずだ。助けなければならない。間に合わせる。今度こそ。そう思った瞬間、胸の奥で何かが軋んだ。今度こそ、なんて、まるで一度失ったことがあるみたいじゃないか。そんな言葉が頭をよぎるより先に、白い腕がさらに深く沈んだ。
「――っ、待て!」
今度は叫びになった。
その腕だけが、夜気の中で妙に白く浮いている。細い手首。爪の先に泥。指先が地面を掻き、必死に外へ残ろうとしている。その細い手が、自分が絶対に見捨てたくなかったものに見えた。
このまま消えるな。
行くな。
置いていくな。
言葉にならない感情が、喉の奥で潰れる。
背中側で何かが揺れた。風ではない。自分の影だ。地面へ長く落ちたその輪郭に、見慣れた異物が重なっていた。
鋏。
大きすぎる刃が、夜の中で鈍く光っている。
いつの間に握っていたのか分からない。だが、掌に食い込む重みだけははっきりしていた。冷たい鉄。振るうためではなく、切り分けるための形をした刃。あれを差し込めば、まだ。境界を断てば、まだ。そんな焦りが稲妻みたいに走る。
その重さに触れた瞬間、夢の輪郭が深く沈んだ。
ああ、と思う。
これは、ただの悪夢じゃない。
――大切なものを、救えなかった夜だ。
鋏を、握り直す。
冷えた柄が掌へ食い込んだ。庭師の仕事道具としては異様に大きい刃も、この瞬間だけは重さが頼りだった。届け。間に合わせろ。祈りみたいな焦りが、指先へ無理やり力を込めていく。
白い腕が、また少し沈む。
「やめろ――!」
誰に向けた声だったのか、自分でも分からなかった。樹へか、夜へか、それとも、今まさに奪われていくその向こう側へか。ただ、叫ばずにいられなかった。叫んだところで止まるはずもないのに、黙って見ていることだけはもっと耐えられなかった。
地面を蹴る。
ぬかるんだ根の上を滑りそうになりながら、それでも前へ出る。花びらが顔に張りつき、湿った甘さが鼻を刺す。樹の根元へ近づくほど、その異様さははっきりした。幹と人の境目が、ない。あるはずの輪郭が、もう曖昧になっている。木肌の裂け目へ、人の肌がそのまま続いているみたいだった。樹皮のひび割れと、白い腕の細さが、同じものの両側みたいに繋がって見える。
それでも、まだ全部じゃない。
まだ外に出ている部分がある。
肩。腕。手首。指先。
だったら切り分けられる。引き剥がせる。間に合う。そう思わなければ、ここへ来た意味がなくなる。
直哉は樹へ踏み込み、鋏の刃を大きく開いた。
刃先が震える。腕のせいじゃない。目の前の境界が、見ているそばから揺れていた。ここからが樹で、ここまでが人間だと、そう単純に分かれてくれない。花びらの影が落ちるたびに輪郭がずれ、湿った木肌のすぐ下で脈みたいなものが鈍く蠢く。そのたびに、白い肌の線まで一緒に呑み込まれていく。
「――〈虫切り〉ッ!」
叫んだ瞬間、鋏の刃へ黒い筋が走った。
夢の中なのに、その手応えだけはやけにはっきりしている。掌の内側を、冷たいものが流れる。鉄の芯へ、神経の続きをそのまま差し込んだみたいだった。刃がひとつの道具ではなく、自分の指先よりも鋭い“境目を探る感覚”に変わっていく。
ある。
分けられるところが、どこかにある。
完全に一つではない。まだ間に合う。まだ、こいつと樹のあいだには、断ち切れる細い筋が残っている。
「な、んとか……っ」
息が荒れる。
鋏を差し込む。刃先が樹皮へ食い込み、硬いはずの感触の奥で、妙に柔らかい何かを掠めた。木じゃない。肉でもない。そのあわいにある、言葉にしづらい境目だった。そこへ無理やり刃を押し込むと、樹の側から濡れた軋みが返ってくる。
いける、と一瞬思った。
白い指先が、ぴくりと動く。
助けを求めるように、あるいは、こちらの気配に応えたみたいに。
「……大丈夫だ」
何が大丈夫なのか、自分でも分からないまま言っていた。
「すぐ、引っ張り出すから」
返事はない。
あるはずもない。
それでも口にしないと、自分の方が先に折れそうだった。刃をさらに深く差し込み、両手で柄を握り込む。切れ。裂けろ。境目だけを残せ。頼むから、まだ、持っていてくれ。
ぎり、と鋏が軋む。
黒い筋が刃の上で脈打った。樹皮の奥に食い込んだ感触が、一瞬だけ軽くなる。裂け目だ。ほんのわずかに、人と樹の繋がりが緩んだ。白い腕が、ほんの少しこちら側へ戻る。
いける。
そう確信しかけた瞬間、足元の根がうねった。
「……っ!」
靴首へ巻きつく。体勢が揺れる。踏ん張る。だが、その一瞬で遅れた。樹の裂け目が、逆にこちらの刃へ絡みつく。ほどけかけた境界が、また濁っていく。白い腕の輪郭が、夜の中でじわじわと薄くなる。
「待て、待ってくれ……!」
懇願だった。
もはや技でも理屈でもない。目の前から失われていくものへ、子どもみたいに縋っているだけだ。刃をこじ開け、樹へ食い込ませ、少しでもこちらへ引き戻そうとする。救えるはずだと、自分に言い聞かせ続ける。そうでなければ、この夜も、この手も、この鋏も、全部ただ遅かっただけになってしまう。
白い手が、わずかに持ち上がった。
指先が空を掻く。
掴める、と思った。あと半歩。あと少し踏み込めば、その手を取れる。今度こそ届く。そう思って、直哉は鋏を片手へ寄せ、もう一方の手を伸ばした。
届かなかった。
指先が触れるより早く、白い手はするりと遠のいた。引き剥がしかけていたはずの境界が、ぬめるように閉じていく。鋏の刃のあいだで、一瞬だけ生まれていた“人だったもの”と“樹になろうとするもの”の裂け目が、花びらに埋められるみたいに曖昧になった。
「待て……!」
直哉は身を乗り出した。
根が足首へ食い込む。構うものかと踏み抜く。片手で鋏を押し込み、もう片方の手をさらに伸ばす。あと少しだった。爪先でも、袖口でも、何でもいい。まだ外に残っているものへ触れさえすれば、こっち側へ引き戻せる気がした。
けれど、夜はそれを嘲るみたいに静かだった。
白い指先が、最後に一度だけ震える。
助けを求めたのか。諦めたのか。あるいは、最初からそんな意味のある動きではなかったのか。悪夢の中ですら、その答えだけは与えられない。ただ、そのかすかな震えが、直哉にはたまらなく人間らしく見えた。
次の瞬間、手首までが沈んだ。
「――っ!」
鋏を捻じ込む。
黒い筋が刃の上で激しく脈打ち、樹皮とも肉ともつかない境目を噛む。硬いものが裂ける音ではない。濡れた布を無理やり裂いた時のような、粘ついた軋みが返ってくる。手応えはある。あるのに、浅い。どこかへ届いているはずなのに、決定的なところへは届かない。切れてほしい線だけが、どうしても刃から逃げる。
「――〈虫切り〉ッ! な、なんとか樹と彼女の境界を切り分けられないかっ!」
自分の声が、ひどく遠かった。
叫んでいるのは確かに自分のはずなのに、夢の中ではそれすら遅れて響く。必死に力を込める。腕が軋む。肩が裂けそうになる。それでも刃は、もう半ば樹に喰われていた。切り分けるために差し込んだはずの鋏が、逆に境界の内側へ絡め取られていく。
白い腕が、肘まで沈む。
指先が見えなくなる。
爪の先に詰まっていた泥も、きらりと光っていた小さな金属も、桜の花びらに埋もれるように消えていく。
嫌だ、と思った。
そんな単純な言葉しか残らなかった。
嫌だ。行くな。消えるな。置いていくな。助ける。今度こそ助ける。全部がぐちゃぐちゃになって喉の奥へ詰まり、呼吸にならないまま胸を灼く。手を伸ばす。鋏を食い込ませる。どうにかして、まだ外に残っている部分だけでもこちらへ引き戻そうとする。
その時だった。
沈み込んでいく顔の、輪郭だけがふとこちらを向いた。
はっきり見えたわけじゃない。花びらが邪魔をしていたし、闇も濃い。それでも、見間違えようがないほどやわらかい気配だけが、一瞬こちらへ向いた。目が合った、と思った。
そして、その輪郭が、微笑んだ。
責めるでもなく、恨むでもなく、ただ困ったように、やさしく。
「――ありがと。私ね、ずっと。君のこと」
そこで言葉が途切れた。
「待っ――」
直哉が叫ぶより早く、白い腕が消える。
最後に残ったのは手だけだった。
細い指が、沈みきる直前にわずかに開く。掴んでくれと求めたのか、もう触れなくていいと離したのか、それすら分からない。指のあいだを、桜の花びらが吹き抜ける。
その手も、次の瞬間には樹の内側へ呑まれた。
何もなくなる。
鋏だけが、半ば食い込んだまま震えていた。
直哉は息をするのも忘れて、その場に固まった。間に合わなかった、という事実だけが、遅れて全身へ落ちてくる。手の中の鉄の冷たさも、足首へ絡みついた根の重さも、もう現実味がない。ただ、自分が空っぽの場所へ向かって手を伸ばしているのだと、その格好の無様さだけが妙にはっきりしていた。
背後で、花びらを踏む音がした。
はっとして振り向く。
そこに、少女がいた。
黒髪。夜気の中で白く見える顔。
首元には、制服の襟がそのまま細い喉を縁取っている。
少し痩せた印象の輪郭。
目だけが、異様なほど静かだった。泣いているわけでもない。取り乱してもいない。ただ、見ていた。
鋏を樹へ突き立てたままの直哉と。
その向こうで、何もかもが消えた場所と。
その構図を、まるごと。
その視線の冷たさに、ようやく直哉は少女の異変へ気づいた。
「――紗希さん、その傷……っ!」
首筋だった。
制服の襟元、その少し上。薄く裂けた皮膚から、血が細く伝っている。ただの切り傷ではない。傷口の縁へ、濡れた黒が細い筋のようにまとわりついていた。糸のように細く、ヒルのように粘り、裂け目の奥へ潜り込もうとしている。
直哉は反射で駆け寄った。
鋏を引き抜く。黒い筋が刃に走る。考えるより先に、首元へ喰らいつこうとしていたその黒を挟み込むように刃を入れた。
「――〈虫切り〉ッ!」
嫌な手応えがあった。
肉ではない。枝でもない。濡れた髪の束を断つみたいな、曖昧で薄気味悪い感触だった。
刃のあいだで黒がびくりと跳ね、切り離された端から霧みたいにほどけていく。
まだ入りきっていなかったのか、あるいは入りきれなかったのか。とにかく、それ以上傷口の奥へ潜る気配だけは止まった。
だが、傷はそこに残ったままだった。
血も、止まらない。
首筋を赤く濡らしながら、細い流れが制服の襟へ吸われていく。
「も、もう大丈夫だ……!」
言いながら、直哉は自分の声が上滑りしているのを聞いた。
「……君は大丈夫だ。大丈夫、だから」
紗希は答えない。
ただ、じっと見ている。
八重が消えた場所を。
血の止まらない自分の首元を。
それでも“大丈夫”と言い切ろうとする直哉を。
その静かな目が、すべてを見切ったように細められる。
「あなたたちなんか、大嫌いです」
――そこで、夢が途切れた。
直哉は息を呑んで目を覚ました。
薄暗い天井が見える。夜明け前なのか、障子の向こうはまだ青黒い。喉がひどく乾いていた。胸の奥だけが速く脈打っている。けれど身体は跳ね起きるでもなく、しばらく布団の上に沈んだまま動けなかった。
「……また、この夢か」
掠れた声が、やけに静かな部屋へ落ちた。
額に手を当てる。汗はかいていない。呼吸も、少し待てば整う。もう何度も見てきた夢だった。何度も、同じところで終わる。あの夜の全部じゃない。最後の、いちばん刺さったところだけを、夢は律儀に抉り返してくる。
「あれから……何年経ったんだろうな」
口にしてから、自分で苦く笑う。
数えていないわけがない。忘れたかっただけだ。庭の剪定時期や、植え替えの年回りや、地主の機嫌の悪い季節なんかより、ずっと正確に身体のどこかが覚えている。
直哉はゆっくり起き上がった。
部屋の隅に立てかけてある大鋏が、薄闇の中で鈍く光っている。普段は仕事道具だ。ただの庭師の道具。枝を払い、形を整え、伸びすぎたものを切り戻すための鉄のはずだった。
なのに寝起きの目には、一瞬だけ、それが別のものに見えた。
何かを守るために振るった得物。
そして、何も守り切れなかった夜の名残。
直哉は視線を外した。
「……今の俺にはもう関係ないな」
そう呟いて立ち上がる。
言い聞かせるみたいな声だった。
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からないまま。




