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ブラックベイン―狂暴×悪辣―  作者: 平行月
第3章 五と三と、紗希の傷
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第1話 “5”

 橘木家の居間に、目白の声が木霊している。


 広い空間。そして整理整頓された様相。


 だが、その整い方が人の住まいというより、誰かに見せるための標本箱めいている。


 奥の上座に、当主である恒一。

 その少し下に、妻の志乃。

 長男の雅臣は壁際の卓へ書類を広げ、長女の芙美香は給仕のように茶器を整えていた。

 かかりつけ医の佐伯はソファへ腰掛け、直哉は入口に近い位置で立ったまま。


 恒一に気に入られているとはいえ、庭師にすぎない直哉はこれまで一言も挟まなかったものの。

 今日の話し合いは、ほとんど終わっていた。


 病院のこと。

 土地のこと。

 古くなった屋敷の管理。

 恒一の体調が崩れた時、誰が何を引き受けるのか。

 そして、いずれ避けては通れない相続の下準備。


 細かな名義や分配は後日詰めるとしても、実務の大半は雅臣へ委ねられる。

 そういう形で、誰もが落としどころを見つけたつもりでいた。


 ただ一人、彰人だけを除いて。


「裏の五区画目、まだ手が入ってないだろ」


 雅臣が書類から顔を上げずに言った。


「父さん、あそこは先に片づけておきます。見栄えの問題もあるし、今週中には――」


「大桜の跡か」


 志乃が、静かに言った。


 その一言で、居間の空気がわずかに沈んだ。


 裏の五区画目。


 かつて、橘木家の庭で一番大きな桜が立っていた場所だった。

 三年前、老朽化を理由に伐られた。


 今はもう、幹もない。

 切り株も残っていない。

 ただ、そこだけ庭の中心が抜け落ちたように、妙に広く空いている。


 佐伯が、気遣うように口を開く。


「しかし、土地の者が“案山子様”と呼んでいたものを、“妖樹”などと噂されることになるとはね」


「土地の者は、好き勝手に言うものです」


 雅臣は書類へ視線を落としたまま答える。


「結局は、老朽化が酷いから伐採されてしまったわけですが」


「役所も無責任なものですね。伐採したっきりで、あとは何もしてくれないとは」


「だからこちらで整えるんです」


 雅臣の声は、平静だった。


「放置しておけば、余計な噂が増える」


「で」


 彰人が、鼻で笑った。


「空いたところには、何を建てる予定なんだ?」


 雅臣の指先が、書類の上で止まった。


 ほんの一拍だけ。


 返事が遅れる。


「まだ決めていない」


「へえ。兄貴が決めるのかと思ったぜ」


「勝手に決めるな」


 恒一が、低く言った。


 怒鳴るのではない。

 ぬめるように、言葉だけが畳へ落ちる。


「五日も放っておけば、余計な口が増える」


 その老人の目は、雅臣でも彰人でもなく、もっと家そのものを見ているようだった。


「まずは家の中で収めろ」


 佐伯が軽く咳払いをした。


「皆さん、少し落ち着いてください。今日決めたのは、あくまで実務の窓口です。病院も土地も屋敷も、雅臣さんが一人で抱え込むという話ではありません」


「先生はそう言うが」


 彰人が、口の端だけで笑った。


「結局、名前が残るのは兄貴だろ」


 佐伯は答えなかった。


 その沈黙が、彰人の苛立ちをさらに煽った。


「書類も兄貴。病院も兄貴。土地も兄貴。庭の始末まで兄貴」


 雅臣が、ようやく書類から顔を上げた。


「今日決めているのは、必要な役目を誰が引き受けるかだ」


 静かな声だった。


「個人の取り分を決めているわけじゃない。話を混ぜるな」


「混ぜてねえよ。最初から全部、同じ話だろ」


 彰人は、上座の恒一を見た。


「父さんも、最初からそのつもりだったんだろ」


 恒一は表情を変えない。


 代わりに、湯呑みの縁を指でなぞった。


「橘木の家には、橘木の道理がある」


「その道理ってやつが、いつも兄貴の方を向いてるんだよ」


「……裏の桜だけ、根の返り方が変です」


 直哉がぼそりと言った。


 全員の視線が一度、そちらへ寄る。


 雅臣だけは、手元の書類へ視線を戻していた。


 恒一はゆっくりと直哉を見た。


「お前は庭だけ見ておれ、柊」


 その声には叱責よりも、古い湿り気があった。


「根の下まで覗こうとすると、碌なことにならん」


 直哉は何も言い返さなかった。

 ただ、喉の奥で何かを噛み殺すように息を止める。


 障子の向こうに、裏庭がある。


 見えているわけではない。

 それでも直哉は、庭石の並びを頭の中でなぞっていた。


 石と石のあいだ。

 苔の薄い場所。

 雨のあと、土が緩む場所。

 それから、地表へ浮いてくる細い根。


 根は踏むな、ではない。


 跨ぐな。


 根の向こうへ足を置くな。


 橘木家に関わる者なら、子どもでも知っている作法だった。


「お父さま、とにかく座って」


 芙美香が空気を繋ぐように口を挟んだ。


「……お茶、五人分で足りますよね。佐伯先生の分もありますから」


 志乃はその声にも頷かず、じっと彰人を見ていた。


 いや、正確には、彰人の胸元を。


「彰人さん」


「なんだよ」


「……またそんな格好で」


 志乃は眉を寄せた。


「ボタンが取れているわよ。みっともない」


 彰人は一瞬、胸元を見下ろした。


 ワイシャツの中央、第五ボタンが欠けている。


「うるせえな」


 吐き捨てるように言う。


「五つも六つも小言ばっかり言いやがって」


「そういう言い方はやめなさい」


「だいたい、さっきから聞いてりゃ兄貴ばっかりいい話が回ってるじゃねえか」


 彰人が顔を上げた。


 視線は志乃に向いているのに、その奥にある何かへ噛みついているようだった。


「金の話だけじゃない」


 低い。

 だが、低いだけに、粘つく本音がよく見えた。


「……どうせ俺には、最初から何も回ってこねえって話だろ」


 志乃の指先が、膝の上でわずかに強張る。


「彰人、落ち着きなさい」


「落ち着けるかよ」


「雅臣には、雅臣の役目があるの」


 その言葉は、志乃の中ではたぶん慰めだった。


 だが、この場の誰よりも、それが最悪の返しだと分かった。


「あなたまで同じようにはできないのよ」


 沈黙が落ちた。


 彰人の口元だけが、ゆっくり歪む。


「は」


 笑ったのかどうかも曖昧な、乾いた息だった。


「五人も家族がいて、俺だけ外れかよ」


「彰人兄さん……やめて」


 芙美香が言った。


 だが彰人はもう妹の方を見ていない。


「兄貴には役目がある」


「俺には何もねえ」


「雅臣だって」


 志乃が、思わず声を強めた。


「何もかも、最初から与えられていたわけではないでしょう」


 彰人の眉が寄る。


「……何の話だよ」


「子供の頃には、あんな事故もあったじゃない」


 志乃の声が、少しだけ弱くなる。


「それでも戻ってきて、今まで――」


「またその話かよ」


 彰人が遮った。


 吐き捨てるような声だった。


「昔の事故を何回持ち出せば気が済むんだ」


「そういうことを言っているんじゃありません」


「じゃあ何だよ。兄貴は事故に遭っても立派に戻ってきた。俺は何にもなれなかった。そういう話か?」


「違います」


 志乃は否定した。


 けれど、それ以上の言葉は続かなかった。


 雅臣は何も言わなかった。


 事故という言葉にも。

 戻ってきたという言葉にも。


 ただ、卓上の書類を一枚めくった。


「母さんはそう言いてえんだろ?」


「やめなさい」


「父さんもそうだ。兄貴にばっかり仕事回して、俺には何一つ寄越さねえ」


 雅臣がゆっくりと顔を上げる。


「必要な役割があるなら、それを果たす」


 言葉に熱はなかった。


「今は、それだけの話だ」


「兄貴は黙っててくれよ」


 佐伯が間に入るように声を出した。


「彰人さん、これ以上は逆効果です。今ここで感情的になっても、あなたの取り分が増えるわけではありません」


「取り分」


 彰人が、低く繰り返した。


「ほらな。先生までそう言う」


「そういう意味では――」


「いいんだよ。分かってる」


 彰人は笑った。


 笑っているのに、目だけが笑っていなかった。


「俺に回ってくるのは、余ったものだけだ」


 恒一は、そこでようやく深く息を吐いた。


「騒ぎを広げるな」


 その一言で、部屋の温度がまた少し下がる。


「……家の中で腐るものは、家の中で始末するものだ」


 誰も、すぐには返事をしなかった。


 その言葉が、ただの比喩ではないことだけが、妙に分かってしまったからだ。


「桜は、心を養うものだ」


 恒一は、ふと障子の向こうへ目をやった。


「昔から、この家ではそうしてきた」


 そこで、老人の目がゆっくりと居間を巡った。


 志乃。

 雅臣。

 彰人。

 芙美香。


 そして最後に、入口近くに立つ直哉で止まる。


「血族が集まる時、そこは現世ではなくなる」


 直哉が、わずかに眉を寄せた。


 恒一はそれ以上説明しなかった。


 昔から決まっていることを、ただ口にしただけのようだった。


 志乃は目を伏せたまま、何も言わない。

 雅臣は書類へ視線を戻したが、指先が止まっている。

 芙美香だけが、立ったまま、盆の縁をぎゅっと握っていた。


 直哉も、居間の障子の向こうへ目をやった。


 裏庭の方角だった。


 見えもしないのに、そこに何かが立っている気がした。

 ずっと前から、そこにあるもののように。


 その視線に気づいたのか、恒一が薄く笑った。


「ああそうだ、根回しは庭師の仕事だろう、柊。……いやお前も今や、家族のようなものだ、直哉よ」


 直哉の肩が、わずかに強張る。


「人がどこを歩き、どこを歩かぬか。それを整えるのも庭のうち。そうだろう」


 直哉は答えなかった。


 橘木家が直哉を重用した理由は、花や枝の見栄えだけではない。


 根を読み、境界を読み、人の足がどこへ向かうかを読む。

 そういう庭を作るために、直哉はこの家に置かれていた。


 そして、それを人一倍得意としていた。


 皮肉なことに。

 あの夜、境界を切り分けられなかった男ほど、この家では境界を整える庭師として重宝された。


「……庭の話でしたら」


 直哉は、自嘲気味に呟いた。


「刃を入れる場所くらいは、分かります」


 恒一は笑ったままだった。


「そうか。ならば庭だけ見ておれば良い」


 老人の声が、畳の上を這う。


「この庭の相手は、お前にしか務まらんのだからな」


 どこかで、目白が鳴いた。

 さっきまでの賑やかさはない。


 一声だけ、短く。

 まるで、もう何も歌うことがないみたいに。


 障子の向こうで、風もないのに何かが揺れた気がした。


 桜か。

 根か。

 それとも、まだ誰にも見つかっていない何かか。


 直哉は無意識に、足元の位置を確かめていた。


 根の向こうへ、足を置いていないか。


 その癖が、今だけはひどく嫌だった。

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