第2話 マンドレイクのごとく
居間に残った空気は、言い争いの熱よりも、もっと始末の悪いものだった。
兄貴ばっかり。
五人も家族がいて、俺だけ外れかよ。
一度出てしまった言葉は、もう出る前には戻らない。
誰もそれを口にしないまま、視線だけが居間の中で行き場を失っていた。
その沈黙を破ったのは、志乃だった。
「……少し、外へ出ます」
唐突というより、場を無理やり前へ進めるための声だった。
「お母さま」
芙美香が反射的に呼び止める。
「もう遅いわ。外なら、わたくしが――」
「いいの」
志乃は振り返らなかった。
「少し、頭を冷やしてくるだけよ」
彰人は、ふん、と鼻で笑ったきり、椅子へだらしなく寄りかかったままだ。
「勝手にすれば」
その声には、さっきまでの爆発の余熱がまだ残っている。
「彰人も、少し落ち着きなさい」
志乃はそれだけ言って、障子の方へ歩き出した。
「……待ってください」
直哉が、思わず声を出した。
志乃の足が止まる。
「何か?」
「裏は、今はよくありません」
直哉は、障子の向こうを見た。
「根の返り方が変です。夜に一人で出るのは――」
「庭の話はあとにして」
志乃は静かに遮った。
「今、必要なのは、家の中の話でしょう」
直哉は言葉を失った。
志乃はそのまま障子を開け、廊下へ出た。
静かに閉まる音がして、部屋の中はまた一段冷える。
「……自分が見てきます」
直哉が言った。
「よせ」
恒一が被せた。
老人は相変わらず、湯気の消えかけた茶碗を見ている。
「今行ったところで、火に油じゃ」
「ですが、裏の根が」
「志乃も作法くらい知っておる」
恒一は、そこで初めて直哉を見た。
「お前まで足を乱すな。根を跨ぐなよ、柊」
その一言で、直哉の足が止まる。
「橘木の作法を忘れたわけではあるまい」
「……分かっています」
直哉は短く答えた。
分かっている。
根は踏むな、ではない。
跨ぐな。
根の向こうへ足を置くな。
そんなことは、嫌になるほど身体が覚えている。
それでも直哉の意識は、ずっと裏庭に引っかかっていた。
土の奥で、根が張り直されているような嫌な感覚がある。
障子が閉じたまま、しばらく誰も動かなかった。
彰人はその向こうを睨んでいた。
やがて、胸元へ手をやる。
欠けた第五ボタンの穴を、指先が無意識になぞった。
舌打ちしかけた口から、別の声が漏れる。
「母さん、――ねえ母さん」
部屋の中の全員がぴくりと反応する。
彰人本人は立ち上がってすらいない。
閉ざされた障子の向こうへ、腹の底から声だけを投げている。
「母さん、待ってよ。ねえ母さん!」
直哉の背筋を冷たいものが走った。
志乃は一人で裏へ出ている。
あの声に気を取られれば、足元を見失う。
今の庭には、地表へ浮いた根が増えている。
「彰人兄さん」
芙美香が顔をしかめた。
「もうやめてください。お母さまを追いかけるみたいに呼ぶのは――」
「うるせえ」
彰人は障子の向こうを睨んだまま、吐き捨てた。
「話の途中だろうが」
そして、もう一度。
「母さん!!!」
今度は、屋敷そのものを震わせるような声だった。
芙美香が立ち上がった。
「お母さま?」
そのまま、障子の方へ駆ける。
「芙美香お嬢様、お待ちください」
直哉が鋭く言った。
「外へ出るなら、自分が先に――」
「でも、お母さまが!」
「根を跨がないでください」
その言葉に、芙美香の顔が強張った。
「……分かっています」
だが、次の瞬間にはもう走り出していた。
「芙美香お嬢様!」
呼び止めたのは、直哉だった。
だが遅い。
芙美香は廊下へ飛び出していた。
その背を見た瞬間、直哉の脳裏に、庭石のあいだを走る根の位置が浮かんだ。
跨ぐな。
それだけが、警告みたいに頭へ響く。
直哉も走った。
廊下を抜け、裏口へ向かう。
だが、足が思うように前へ出ない。
身体に染みついた作法が、反射のように足の運びを鈍らせる。
それだけではなかった。
裏口の先、石畳の隙間から、細い根が何本も浮き上がっていた。
さっきまで、こんなところにはなかったはずだ。
おかしい。
そう思って足元を注視した、その一瞬で。
芙美香の背中が、夜の庭へ先に消えた。
夜の外気は、さっきまでの居間よりもずっと冷えていた。
志乃は、裏口の引き戸を開けて外へ出た。
湿った土の匂いが、細く開いた隙間から先に入ってくる。
春先の夜気にはまだ薄い冷たさが残っているはずなのに、庭の奥だけ、妙にぬるい。
石畳。
土。
黒く沈んだ植え込み。
大桜そのものは、もうない。
それでも、その跡地を囲むように残された桜の枝先だけが、夜目にも白く滲んで見えた。
志乃は一度だけ、目を閉じた。
頭を冷やす。
そう言って出てきたものの、冷えていないのは自分の方かもしれなかった。
「昔は、あんな子じゃなかったのに」
小さく息を吐く。
口にしてから、言い訳だと分かった。
彰人が傷ついているだけだと思いたいのは、たぶん母親である自分の方だった。
――ごめんなさい、彰人。余計なことを言ったわね。
庭の奥へ向かって数歩進む。
土の感触が、靴裏越しに妙に柔らかい。
その時。
「母さん、――ねえ母さん」
声がした。
志乃は足を止めた。
「……彰人?」
母屋の方角から聞こえたはずだった。
けれど、はっきりしない。
壁に当たり。
植え込みに遮られ。
夜の庭を回り込んだ声は、どこから届いたのか分からなくなっていた。
「母さん、待ってよ。ねえ母さん」
彰人の声だ。
分かっている。
ついさっきまで、居間で怒鳴っていた息子の声だ。
なのに。
妙に、幼く聞こえた。
志乃の脳裏に、ずっと昔の姿が浮かぶ。
まだ背も低く。
何か気に入らないことがあれば頬を膨らませて。
それでも母親が先に歩いていけば、慌てて後ろから追いかけてきた頃。
『母さん、待ってよ』
袖を引かれた感触まで、一緒に蘇った。
「彰人……」
志乃の声が、少しだけ弱くなる。
返事はない。
植え込みの影が、風もないのに揺れている。
「母さん」
今度は、呼ぶというより確かめるように聞こえた。
「ねえ、母さん」
違う。
今の彰人は、こんな声ではない。
分かっているのに。
志乃にはもう、庭のどこかで幼い息子が自分を待っているようにしか思えなかった。
足元で、何かがぬるりと擦れた。
志乃は視線を落とす。
桜の根だった。
地面の上へ浅く浮き出した細い根が、石畳の隙間を這い、夜露に濡れて黒く光っている。
ただの根のはずだった。
なのに、その一本だけが妙に生き物じみて見えた。
「母さん!!!」
声が弾けた。
志乃の肩が跳ねる。
「……そんな声を出さないで」
反射的に、口から言葉が出た。
叱る声ではなかった。
もっと昔。
泣き出しそうな息子を宥めた時の声だった。
「今、行くから」
その瞬間。
志乃は、母親だった。
目の前の成人した彰人に怒っていた女ではない。
泣きそうになりながら、自分を呼ぶ幼い息子のもとへ戻ろうとする母親だった。
足が動いた。
声の方へ向き直るように、半歩。
靴底の下で、根を跨ぐ。
かすかな音がした。
乾いた枝を踏んだような音ではない。
もっと薄く、繊維が裂けるような、湿った音だった。
志乃は息を呑む。
右肩のあたりに、冷たいものが触れた気がした。
それが風ではないと分かるまで、一拍かかった。
冷たい。
なのに、すぐに熱へ変わる。
皮膚の表面を撫でたのではない。
内側へ染みてくるような感覚だった。
「……っ」
声にならない。
右腕を上げようとして、遅れた。
重い。
袖を誰かに引かれたように動かない。
視界の端で、白いものが舞った。
花びらだと気づく。
桜はもう散り際でも何でもないはずなのに、枝のどこからともなく零れた白が、志乃の右半身へ静かに寄ってくる。
落ちるのではない。
吸い寄せられている。
「母さん」
遠くで、また声がした。
実際には母屋から聞こえているのかもしれない。
もう、志乃には分からなかった。
目の前に誰かが立っているようで、けれど輪郭が見えない。
見えないのに、頭の中には幼い頃の彰人ばかりが浮かんでいる。
志乃は一歩、後ずさろうとした。
できなかった。
右足が地面へ沈んでいた。
土に埋まったのではない。
靴の輪郭ごと、何かやわらかいものへ吸い込まれている。
遅れて、右の腰、脇腹、肩へ同じ感覚が走る。
硬い樹皮と、濡れた布のあわいみたいなものが、服の上からそのまま身体へ染みてくる。
「や、……」
喉がひゅっと鳴る。
生えているのではない。
刺さっているのでもない。
もっと嫌な混ざり方だった。
志乃の視界は、その瞬間だけ奇妙なほど澄んだ。
石畳。
桜の根。
夜露。
遠くにぼやけた母屋の灯り。
そして、自分の右側だけが、世界の一部へゆっくり固定されていく感覚。
叫ぼうとして、息が詰まる。
その時、裏口の戸が荒々しく開いた。
「お母さま!」
芙美香だった。
駆けてくる足音。
白い顔。
夜目にも分かるほど引きつった表情。
芙美香の耳には、まださっきの声が残っていた。
母屋の中から、彰人が呼んでいた。
母さん。
待ってよ。
ねえ母さん。
それを聞いた直後に、母はこうして庭にいる。
けれど、その二つがどう繋がっているのかまでは、分からない。
志乃はそちらへ振り向こうとして、また遅れた。
芙美香が、数歩手前で足を止める。
「……お母さま?」
返事がない。
「そんなところで、何を……」
言いながら、芙美香はさらに近づいた。
そして、次の一歩の前で、ぴたりと止まる。
「え」
声が、急に小さくなった。
「待って」
目が見開かれていく。
「……違う」
芙美香は首を横に振った。
目の前のものを、自分で否定するみたいに。
「立ってるんじゃ、ない」
もう一歩、近づく。
志乃の左半身は、遠目にはたしかにまだ人の形を保っていた。
だから最初は、桜の幹へ寄りかかっているように見えたのだ。
だが右側は違った。
肩から脇腹、腕、脚の半ばまでが、樹皮のざらつきへ溶け込むみたいに沈んでいる。
服の布地と木肌の境目が曖昧に混ざり、ところどころに白い花びらが貼りついている。
皮膚が裂けたというより、そこから人の輪郭だけが木へ吸い取られていったみたいだった。
「寄りかかってるんでもない……」
芙美香の唇が震える。
「右、半分……」
息を呑む音が、夜気の中でやけに大きい。
「木に、溶け込んで……」
そこでようやく、芙美香の喉が限界まで引き攣った。
「いや」
かすれた声。
「いや、なに、それ……」
次の瞬間、悲鳴が裏庭いっぱいに裂けた。
「いやあああああっ!!」




