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ブラックベイン―狂暴×悪辣―  作者: 平行月
第3章 五と三と、紗希の傷
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第3話 成り損ねたツケ

 芙美香の悲鳴は、裏庭の空気を真っ二つに裂いた。


「芙美香さん!」


 直哉は裏口を飛び出した。


 湿った土を踏む。

 石畳を蹴る。

 夜気の奥で、桜の匂いが濃くなっていた。


 根元に、二つの影がある。


 一つは、地面にへたり込んだ芙美香。

 もう一つは――志乃だった。


 直哉は足を止めた。


「……っ」


 立っている。


 最初は、そう見えた。


 けれど違う。


 志乃の左半身は、まだ人の形を保っている。顔も、肩も、腕もある。着物の色も、夜目の中で辛うじて分かる。


 だが、右側が違った。


 肩口から腕、脇腹、脚の半ばまでが、桜の幹へ沈んでいる。布地と木肌の境目が曖昧に混ざり、白い花びらがそこへ貼りついていた。


 刺さっているのではない。

 寄りかかっているのでもない。

 もっと静かに、もっと嫌なふうに、樹の中へ固定されている。


「下がってください、芙美香さん」


 直哉は声を絞った。


「見なくていい」


「む、無理……っ」


 芙美香は首を振る。


「お母さまが、木に……溶け込んで……っ」


 直哉は息を殺した。


 八重の夜と同じものを、身体が思い出していた。


 違うようでいて、同じだった。

 土の奥から上がってくる、名前をつける前から身体だけが知っている恐怖。


 志乃の足元の土が、わずかに沈んでいた。

 根が下へ伸びているというより、土そのものが奥深く引き込まれている。

 そんな沈み方だった。


 そこへ、裏口の方から足音が重なった。


「何の騒ぎじゃ」


 恒一だった。


 後ろに雅臣と佐伯もいる。


「お父さま……っ」


 芙美香の声で、恒一は前へ出た。

 そして、桜の根元を見た。


 老人の顔から、一瞬だけ血の気が引く。

 だが、次の瞬間にはそれも消えた。


「……そうか」


 恒一が、ぽつりと漏らす。


「また、始まったか」


 直哉は振り向いた。


「始まった、とは何のことです」


 問うたのは、雅臣だった。


 恒一は答えない。

 ただ、上着を脱ぎ、志乃の右半身へ掛けた。


 隠したいのか。

 見せたくないのか。

 あるいは、それがこの家の作法なのか。


 直哉には分からなかった。


「……似ておる」


 恒一が言った。


「昔も、こうであった」


「昔……?」


 雅臣の声は変わらなかった。


 恒一は、志乃だったものから目を離さない。

 悲しんでいる顔ではなかった。

 懐かしむような、確かめるような目だった。


「人が次々と消えた。消えた後には、庭の桜が増えておった」


 芙美香の呼吸が、ひゅ、と細く鳴った。


「儂以外の兄弟は、皆消えた。樹となった者もおれば、跡形もなく姿を消した者もおった。何があったのか、ついぞ分からなんだ」


 雅臣は黙って聞いている。


「結果として、儂一人が残った」


 恒一の口元が、ゆっくりと歪む。


「そして儂が、橘木を継いだ」


 直哉の背筋に、冷たいものが走った。


 八重の夜と似ている。


 だが、目の前の老人は、それを恐怖として見ていなかった。


「まさか、それを……」


 直哉の声が掠れる。


 恒一は、喉の奥で笑った。


「ふはは」


「何がおかしいんですか」


 直哉が言った。


 恒一は、志乃だった桜を見つめたまま答える。


「始まるのじゃ」


「何が」


「橘木家の正式な継承者を決める儀よ」


 恒一は、ゆっくりと庭へ視線を巡らせた。


「我が案山子様の庇護の下でな」


 直哉の眉がわずかに動いた。


 案山子様。


 橘木家に古くから残っている名だった。


 人の形をした木の何かが、自らの“畑”を守り、外から入るものを遠ざける。

 そんな昔話の中で使われる呼び名だ。


「父さん」


 雅臣が静かに言った。


「今、継承の話をする必要はないでしょう」


「家とは、そうして続くものだ」


 恒一の声は、奇妙に落ち着いていた。


「誰かが沈み、誰かが残る。残った者が、家を継ぐ」


「ふざけないでください」


 直哉の声は、自分でも驚くほど低かった。


「これは人が死んでいるんですよ」


「何故死んだと言い切れる、直哉よ」


 恒一は言った。


「死んだのか、選ばれたのか。沈んだのか、案山子様に招かれたのか。人の目で見ただけでは分からぬ」


「人の目で見て分からないから、なかったことにするんですか」


 直哉は、志乃だったものから目を逸らせなかった。


 人が消えた後に、桜が増える。


 恒一の言葉が、三年前の夜へ繋がっていく。


 八重が消えた夜。


 自分が、何もできなかった夜へ。


「……三年前も」


 直哉の声が掠れた。


「八重が消えた時も、似たことが起きた」


 その名前が出た瞬間、空気が止まった。


 芙美香が息を呑む。


 雅臣は、直哉の方を見た。


「……三年前の件ですか」


 名前は、繰り返さなかった。


 佐伯は、ほんの一瞬だけ目を伏せた。


 名前を聞いたからなのか。

 目の前の志乃を見たからなのか。


 直哉には分からなかった。


 恒一は、志乃から目を離さなかった。


「ふん。家の外で起きたことまで、儂が知るものか。……一つ言えるのは」


 老人の声は、夜気に濡れた土みたいに重かった。


「これによって、我が家柄は今まで存続してきたということだ」


「父さん」


 雅臣が言った。


 声を荒らげることはなかった。


「それは後で聞きます」


 そして、志乃へ目を向ける。


「先生。まず、状態を確認してください」


「……分かりました」


 佐伯が前へ出た。


 志乃の左手首へ指を当てる。


 次に首筋。


 呼吸。


 瞳孔。


 一つずつ確認していく。


 芙美香が、縋るように佐伯を見ていた。


「先生……」


 佐伯の指が止まった。


 数秒。


 やがて、静かに手を離す。


「……亡くなっています」


「え」


 芙美香の声が抜け落ちた。


「呼吸も、脈拍もありません。すでに心肺は停止しています」


「そんな……」


 芙美香が、もう一度母の方を見る。


「だって、さっきまで……」


 佐伯は答えない。


 視線だけが、樹へ固定された志乃の右半身を追っていた。


「通常の損傷ではありません」


「循環停止で、こんなふうになりますか」


 直哉が吐き出す。


「人が樹に半分食われたみたいになってるんですよ」


「“食われた”という表現は不適切です」


「では何だと仰るんです」


 佐伯は答えなかった。


 答えられないのか。


 それとも、答えないのか。


 直哉には判別できなかった。


 言葉の代わりに、直哉は携帯を取り出す。


「自分は、少し外します」


「柊さん……?」


 芙美香が泣き声のまま呼ぶ。


 直哉は振り向かなかった。


「すぐ戻ります」


 それだけ言って、塀際の暗がりまで離れた。


 画面を開く。


 最初に選んだのは、“木こり”だった頃に使っていたWFAの連絡先だった。


 何年も、触れていない番号。


 数秒、親指が止まる。


 それでも、押した。


 呼び出し音のあと、事務的な声が出た。


『はい。夜間受付です』


「元所属の柊直哉です。怪異案件の再発を報告します」


『場所をお願いします』


「橘木家。三年前に処理された大桜の案件です」


 短い沈黙。


 向こうで、何かを検索する音がした。


『……確認しました。当該案件は処理済みとなっています』


「今夜、一人死にました」


 直哉の声が低くなる。


「身体の半分が樹木へ固定されている。三年前と似ています」


『現場の記録はありますか』


「今、目の前にあります」


『画像、映像、クロ反応の観測記録は』


「まだありません」


『現在の所属は』


「言ったでしょう。元所属です」


 また、短い沈黙。


『現時点では、処理済み案件を再開するだけの資料が不足しています』


「人が死んでるんですよ」


『死亡事案については警察、救急へ――』


「そういう話をしてるんじゃない」


 思わず声が強くなった。


 直哉は一度、目を閉じる。


「……朝まで現場が残っている保証もない」


『現役職員による確認、もしくは追加の観測資料が必要です』


 そこで直哉は何も言わなくなった。


 三年前。


 同じだった。


 終わったものは、簡単には開かれない。


「……分かりました」


 通話を切った。


 暗くなった画面に、自分の顔が映る。


「相変わらずかよ……」


 吐き捨てる。


 だが、これで引き下がる気はなかった。


 連絡先をもう一度開く。


 今度は、さらに長く使っていなかった番号を選んだ。


 “木こり”だった頃。

 一度だけ、どうしようもない現場の後始末を手伝ってもらった男の番号だった。


 押す。


 一回。


 二回。


 三回。


『……はいはい。こんな時間に、ずいぶん懐かしい名前が出たね』


 低いのに、どこか軽い男の声だった。


「自分です」


『柊直哉くん。庭師になったと聞いていたけど、声が昔に戻っているよ』


「WFAには断られました」


『へえ』


「橘木家の裏庭で、人が樹に溶け込んだ」


 電話の向こうで、ほんのわずかに沈黙が落ちた。


『それはまた、嫌な庭だ』


「三年前の案件は処理済み。元職員の証言だけじゃ開けないそうです」


『まあ、そうなるだろうね』


「八重の時と似てるんです」


 沈黙が落ちた。


 今度の沈黙は、さっきより少しだけ重かった。


『……まだ、終わってなかったか』


「引きずってるんじゃありません」


 直哉は、志乃のいる裏庭を振り返った。


「終わってなかっただけです」


『なるほど』


 電話の向こうで、紙をめくる音がした。


『それなら、正面から同じ扉を叩き続けても時間がないね』


「他に何かあるんですか」


『橘木家の近くに、喫茶店がある』


「喫茶店?」


『灯。表向きはただの店だよ。珈琲も出る。運がよければ、飯も出る』


「……自分は、喫茶店を探しているわけでは」


『分かっているさ』


 男の声は、少しだけ笑っていた。


『最近、そこに現役の木こりが出入りしてる』


 直哉の眉が動いた。


「木こりが?」


『そう。それだけじゃない』


 紙を置く音がした。


『今の君の話を、馬鹿にせず聞く人間がいる』


「その店に、ですか」


『少なくとも、今夜WFAの受付と押し問答を続けるよりは可能性がある』


「誰がいるんです」


『行けば分かるよ』


「あなたは、何をどこまで知っているんです」


『それを聞くなら、まず生きて朝を迎えることだね』


「……」


『柊くん』


「はい」


『今度は、見逃すなよ』


 通話が切れた。


 直哉はしばらく、携帯を握ったまま立ち尽くしていた。


 裏庭では、芙美香の泣き声がまだ続いている。

 屋敷の中では、誰かが低く言葉を交わしている。


 それでも、直哉の耳にはもう別の名前が残っていた。


 喫茶店、灯。


「……分かってますよ」


 誰に向けたものでもない声が、夜気へ落ちる。


 返事はない。


 代わりに、どこかで軋む音が聞こえた。


 直哉が振り返る。


 裏庭の奥で、土が小さく盛り上がっていた。


 志乃が固定された桜の根元から、少し離れた場所。


 ひび割れた土の隙間から、細い芽が伸びる。


 まだ、若木と呼ぶにも小さい。


 けれど。


 さっきまで、そこには何もなかった。


 志乃が死んだ庭に。


 新しい桜が一本、音もなく顔を出していた。

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