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ブラックベイン―狂暴×悪辣―  作者: 平行月
第3章 五と三と、紗希の傷
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第4話 返品いたします

 喫茶店〈灯〉は、外から見れば拍子抜けするほど普通の店だった。


 古びた木の看板。磨かれたガラス。店先の鉢植え。

 どこにでもある個人経営の喫茶店――とまでは言わないが、少なくとも「異常案件の現場」と聞いて最初に思い浮かべるような場所ではない。


 本当にこんな場所なのか、と疑いたくなる。

 だが、今さら引き返しても仕方がなかった。


 柊直哉は店名をもう一度見上げた。


 灯。


 電話口で告げられた店名を、頭の中でなぞる。


 ――灯。その名前が誰かの姓だと考える余裕は、扉を開けた瞬間にはもうなかった。


 扉に手をかける。

 開けた瞬間、怒鳴り声が飛んだ。


「このクソガキ、今日という今日は捻り潰してやる!」


 反射で肩が強張る。

 店の中央、客席とカウンターの境目あたりで、小柄な少女と大柄な青年が椅子を蹴散らしながら揉み合っていた。


「難癖をつけるなデカブツ、返してやったじゃないか!」


 少女は深く被ったフードの下から白銀の短い髪を覗かせていた。

 サイズの大きいコートを着ているせいもあり、中性的な印象がある。

 年の頃は、せいぜい小~中学生くらいにしか見えない。

 だが背丈の違う相手に怯えている様子はなく、むしろ喧嘩腰なのはお互いさまといったところだった。


 その襟首を、目つきの悪い青年が片手で掴んでいる。


 口元は血で汚れ、唇の端が裂けている。

 犬歯が妙に鋭く、血に濡れた歯列が獣じみて見えた。


 そのくせ立ち方は崩れていない。

 傷の量と、平然としている様子が噛み合っていなかった。


「返せとは言ったけどなァ!」


 青年がしゃがれた声で吠える。喉が潰れているのか、言葉の端が少し裂けて聞こえた。


「スイッチ入れたまま返す馬鹿がどこにいんだよ! 口の中で爆ぜただろうが!」


「いいじゃんか別に!」


 少女が悪びれもせず言い返す。


「お前は、やたら丈夫だから、多少爆ぜても平気かと思った。威力の確認にもなるし。……ってか威力ショボくないか? 鷹宮はオモチャを寄越したんだろうか?」


「寄越されてねえだろ、ギッたんだろてめえは! あと、確認を人の口ん中ですんな!」


「肩透かしだな。歯くらい全部飛んでいってほしかった。あと舌、千切れてほしかった。うるさいし、なんか」


「言いてぇことはそれだけか!? それだけなんだな! じゃあくたばれ!」


 次の瞬間、直哉はもう動いていた。


「……やめろ!」


 青年の腕を掴み、力任せに引いた。

 少女の襟首から手が外れる。青年がぎろりと振り向いた。


「……誰だ、てめぇ」


 しゃがれたデスボイスみたいな声だった。


 近くで見ると、余計に人相が悪い男だった。

 三白眼で目つきが悪く、肉食獣のような口元から、血が滴っていた。


「子供相手に何をしてるんです」


 思わずそう言ってから、少女の方をちらと見る。

 だが、その“子供”は助けられた顔ではなく、むしろ不満げに頬を膨らませていた。


「余計な手出しをするな。私一人でこんなやつ何とかできたんだぞ?」


「できるできないの話じゃ――」


「キョウスケが勝手に大事にしてるだけだ」


「勝手じゃねえだろうが!」


 青年が一歩踏み出す。直哉は間に入る。


「落ち着いてください」


「落ち着けるか。おいガキ! てめえ今の、もういっぺん言ってみろ。謝罪に変更するなら許してやってもいいがな!」


「お前、目だけじゃなくて耳もやられたのか?」


「もう殺ス!」


「――はいはい、そこまで」


 横から声が入った。


 直哉ははっとして振り向く。


 カウンターの脇、さっきまで物陰に入って見えていなかった位置に、男が一人立っていた。

 軽く片手を上げる仕草と、どこか飄々とした目元。馴染みのある顔だった。


「……相馬。相馬じゃないか!」


 レンが肩をすくめる。


「引退したってのに、その正義感は相変わらずなんだな」


 それから、少しだけ口元をゆるめた。


「……久しぶりだな。木こりを辞めた庭師くん」


 直哉は数秒、言葉が出なかった。


 電話口の男は言っていた。


 最近、この店には現役の木こりが出入りしている、と。


 まさか、それが見知った人間だとは思っていなかった。


「相馬。お前、ここで何を」


「そっちこそ。喫茶店に似合わない顔してるぜ。優雅な休憩を楽しむ雰囲気じゃあ、ないな」


「笑えない冗談だ」


「ま、おっしゃる通りではあるね」


 レンは視線だけで、直哉の後ろの青年と少女を示した。


「見ての通り、平和な休憩時間ってわけじゃなくてね。……恭介も少し落ち着けよ。よその人が見たら、こうなるのは自然だってば」


「平和な休憩がとれない喫茶店、とは……」


 思わず出た直哉の言葉に、小さな少女がふんと鼻を鳴らした。


「お前が下手に止めるから長引くんだぞ、庭師とかいったか」


「ゴネたりして、長引かせてるのはてめえだろ」


 青年――恭介が、まだ殺意を収めない目で少女を睨む。


「そもそもな、人が食おうとしてたもん奪っといて、爆弾仕込んで返すやつがあるか」


 直哉はそこでようやく、話の断片を繋げた。


「……爆弾?」


 レンがうんざりした顔で頷く。


「鷹宮のおっさんが、有事用に持ってた超小型のやつ。それを、盗んだんだろうな。その子……、歌留多の嬢ちゃんが、スライム型の小型怪異に仕込んで返した。んで恭介が喰った」


「まあ、返すついでに試したというわけだ」


「試すな!」


 恭介がまた踏み出す。直哉は二度目の制止に入る。


「待ってください」


「いや待てねえだろ、これ。見ろよこの口」


 恭介が無理やり口を開けるみたいに唇を指で引っ張った。裂けた端からまた血が滲む。口内の傷まで覗いて、直哉は一瞬だけ顔をしかめた。


「……よくその程度で済みましたね」


「済んでねえよ」


 ぺっと血を床に吐き捨てる恭介を、歌留多はジトっとした目で見やる。


「済んでるだろ。死んでない」


「てめえ基準で物言うな、ガキィ!」


 歌留多はちっとも堪えていない。

 むしろ、恭介の怒り方そのものを観察している目つきだった。


 レンが低く息をつく。


「まあ、聞けば分かるだろ。今回は本当に歌留多の嬢ちゃんが悪い」


「しかし、剣呑な言葉が出てきたものだ。スライム型の小型怪異を、……口に?」


「だよな、まあそうなるよな。気持ちわかるよ」


 その会話の最中、カウンターの奥で食器の触れ合う小さな音がした。


 直哉がそちらへ目を向ける。

 そこで初めて、少女が一人、奥から出てくるのが見えた。


 黒髪。

 エプロン姿。

 その顔を見た瞬間、直哉の身体のどこかが、きしむみたいに止まった。


 灯紗希だった。


 灯。

 喫茶店〈灯〉。

 電話口の男が告げた店名。

 そして、彼女の姓。


 考えれば、分かったはずだった。


 だが、店に入った瞬間から、怒鳴り声と血と爆弾と怪異の話に押し流されて、直哉の頭はそこまで辿り着いていなかった。


 彼女は、揉め事の真ん中に立つ直哉を見ても、とくに驚かなかった。

 ただ一度、店の中の惨状を見回す。


 倒れた椅子。

 血のついた口元の恭介。

 何故か踏ん反り返っている歌留多。

 気まずそうなレン。


 紗希の眉が、わずかに寄った。


「店の中で暴れないでくださいね」


「先にこの薄汚ぇクソガキをどうにかしろ」


「不潔なのは先輩の方でしょう、もう」


 紗希は床へ落ちた血へ目をやる。


「それと、床に血を吐かないでください。掃除するの、私なんですから」


「ケッ、そうかよ!」


 そう言うと、恭介がまだ血の滲む口元を手の甲で拭いながら、苛立ったまま椅子を蹴り戻した。


「椅子も壊したら弁償ですよ」


「壊してねえだろ!」


 歌留多はつまらなさそうに鼻を鳴らし、カウンター席へ飛び乗る。

 レンは「ほら見ろ、結局こうなる」とでも言いたげに肩をすくめた。


 直哉は、喉の奥が乾くのを感じた。


「……紗希、さん?」


 名前を呼ぶ。


 紗希は視線を向ける。

 昔と同じ顔のようでいて、昔と同じではない目だった。


「紗希さん。自分です、柊直哉です」


 言ってから、続きが出なくなった。


 直哉は一歩進みかけて、ふと視線を止めた。


 紗希の首元には、細い絆創膏が貼られている。


 あの夜。

 自分が、紗希とあの黒いものとの境界へ刃を入れた場所だった。


「あの時は、その……」


 何をどう謝ればいいのか、自分でも分からない。

 遅すぎるとも思った。

 それでも、下げないままでいるよりはましだと思ってしまった。


 ついさっきまで、床の血や椅子に眉を寄せていた紗希の表情が、そこで静かになった。


「先輩と出会った時から、すでにあなたのことは気にしてませんよ」


 少しも間を置かなかった。


 言い方は柔らかい。

 けれど内容は、赦しとは少し違った。


「だから、頭を上げてください。……ね? 怒ってませんから、もう。私も大人気なかったと言いますか」


 直哉は顔を上げられないまま、一瞬だけ戸惑った。


 自分が刃を入れた傷の話をしている。


 なのに、紗希の声には、さっき床へ血を吐いた青年を注意した時ほどの揺れすらない。


 怒っていない。


 それは、たぶん本当なのだろう。


 ただ――どうしてそこまで静かでいられるのか。


 直哉には分からなかった。


 ゆっくり顔を上げる。


 その時、視線がふと止まった。


 紗希のエプロンのポケットから、携帯電話の端が覗いている。

 そこに、小さな銀色のストラップがついていた。


 目覚まし時計の形をしている。


 玩具みたいな安物で、丸いベルの部分だけが少し大きい。

 揺れても、音はしない。


「……そのストラップ、もしかして」


 直哉が呟くと、紗希は自分のポケットへ視線を落とした。


「ああ、これですか?」


 小さな目覚まし時計を指先でつまむ。

 銀色の飾りが、音もなく揺れた。


「八重が持っていたものに似ていたので。あの件の後、同じようなものを偶然見つけて買ったんです」


「……八重のものでは、ないんですね」


「はい。これは私が後から買ったものです」


 紗希は、少しだけ笑った。


「鳴ることは、ありませんでしたけどね」


 直哉は、何も言えなかった。


 怒っていない。

 それはたぶん本当なのだろう。


 だが、それは“許された”ということではなく、もっと別の、すでに通り過ぎた位置からの言葉だった。


 直哉だけが、まだ過去に立っている。

 そのことが、今さらのようにはっきりした。


 横にいたレンが、空気を切るように咳払いする。


「で、だ。何があったかは知らんが」


 レンの目が、少しだけ細くなる。


「お前、ここに来たってことは、WFA絡みの相談だろ」


「……本当は、現役の木こりに話を通すだけのつもりだったのですが」


 直哉は短く息を吐いた。


「まさか、それがお前だとは思わなかった」


「そりゃどうも」


 レンは肩をすくめた。


 直哉は店の中をもう一度見回す。


 目の前の光景は相変わらずめちゃくちゃだったが、それでもここが、自分が今向かうべき場所なのだとは分かった。


「相談があります」


 一度、言葉を切る。


「……それも、八重にも。いえ、紗希さんにも無関係ではなさそうなのです」


 紗希が直哉を見る。


 その手には、まだ銀色のストラップが摘ままれていた。


 指先だけが、一瞬、止まった。


 けれど表情はほとんど変わらない。


 ストラップを静かにポケットへ戻す。


「……聞かせてください」


 その声で、ようやく話が始まる気がした。

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