第4話 返品いたします
喫茶店〈灯〉は、外から見れば拍子抜けするほど普通の店だった。
古びた木の看板。磨かれたガラス。店先の鉢植え。
どこにでもある個人経営の喫茶店――とまでは言わないが、少なくとも「異常案件の現場」と聞いて最初に思い浮かべるような場所ではない。
本当にこんな場所なのか、と疑いたくなる。
だが、今さら引き返しても仕方がなかった。
柊直哉は店名をもう一度見上げた。
灯。
電話口で告げられた店名を、頭の中でなぞる。
――灯。その名前が誰かの姓だと考える余裕は、扉を開けた瞬間にはもうなかった。
扉に手をかける。
開けた瞬間、怒鳴り声が飛んだ。
「このクソガキ、今日という今日は捻り潰してやる!」
反射で肩が強張る。
店の中央、客席とカウンターの境目あたりで、小柄な少女と大柄な青年が椅子を蹴散らしながら揉み合っていた。
「難癖をつけるなデカブツ、返してやったじゃないか!」
少女は深く被ったフードの下から白銀の短い髪を覗かせていた。
サイズの大きいコートを着ているせいもあり、中性的な印象がある。
年の頃は、せいぜい小~中学生くらいにしか見えない。
だが背丈の違う相手に怯えている様子はなく、むしろ喧嘩腰なのはお互いさまといったところだった。
その襟首を、目つきの悪い青年が片手で掴んでいる。
口元は血で汚れ、唇の端が裂けている。
犬歯が妙に鋭く、血に濡れた歯列が獣じみて見えた。
そのくせ立ち方は崩れていない。
傷の量と、平然としている様子が噛み合っていなかった。
「返せとは言ったけどなァ!」
青年がしゃがれた声で吠える。喉が潰れているのか、言葉の端が少し裂けて聞こえた。
「スイッチ入れたまま返す馬鹿がどこにいんだよ! 口の中で爆ぜただろうが!」
「いいじゃんか別に!」
少女が悪びれもせず言い返す。
「お前は、やたら丈夫だから、多少爆ぜても平気かと思った。威力の確認にもなるし。……ってか威力ショボくないか? 鷹宮はオモチャを寄越したんだろうか?」
「寄越されてねえだろ、ギッたんだろてめえは! あと、確認を人の口ん中ですんな!」
「肩透かしだな。歯くらい全部飛んでいってほしかった。あと舌、千切れてほしかった。うるさいし、なんか」
「言いてぇことはそれだけか!? それだけなんだな! じゃあくたばれ!」
次の瞬間、直哉はもう動いていた。
「……やめろ!」
青年の腕を掴み、力任せに引いた。
少女の襟首から手が外れる。青年がぎろりと振り向いた。
「……誰だ、てめぇ」
しゃがれたデスボイスみたいな声だった。
近くで見ると、余計に人相が悪い男だった。
三白眼で目つきが悪く、肉食獣のような口元から、血が滴っていた。
「子供相手に何をしてるんです」
思わずそう言ってから、少女の方をちらと見る。
だが、その“子供”は助けられた顔ではなく、むしろ不満げに頬を膨らませていた。
「余計な手出しをするな。私一人でこんなやつ何とかできたんだぞ?」
「できるできないの話じゃ――」
「キョウスケが勝手に大事にしてるだけだ」
「勝手じゃねえだろうが!」
青年が一歩踏み出す。直哉は間に入る。
「落ち着いてください」
「落ち着けるか。おいガキ! てめえ今の、もういっぺん言ってみろ。謝罪に変更するなら許してやってもいいがな!」
「お前、目だけじゃなくて耳もやられたのか?」
「もう殺ス!」
「――はいはい、そこまで」
横から声が入った。
直哉ははっとして振り向く。
カウンターの脇、さっきまで物陰に入って見えていなかった位置に、男が一人立っていた。
軽く片手を上げる仕草と、どこか飄々とした目元。馴染みのある顔だった。
「……相馬。相馬じゃないか!」
レンが肩をすくめる。
「引退したってのに、その正義感は相変わらずなんだな」
それから、少しだけ口元をゆるめた。
「……久しぶりだな。木こりを辞めた庭師くん」
直哉は数秒、言葉が出なかった。
電話口の男は言っていた。
最近、この店には現役の木こりが出入りしている、と。
まさか、それが見知った人間だとは思っていなかった。
「相馬。お前、ここで何を」
「そっちこそ。喫茶店に似合わない顔してるぜ。優雅な休憩を楽しむ雰囲気じゃあ、ないな」
「笑えない冗談だ」
「ま、おっしゃる通りではあるね」
レンは視線だけで、直哉の後ろの青年と少女を示した。
「見ての通り、平和な休憩時間ってわけじゃなくてね。……恭介も少し落ち着けよ。よその人が見たら、こうなるのは自然だってば」
「平和な休憩がとれない喫茶店、とは……」
思わず出た直哉の言葉に、小さな少女がふんと鼻を鳴らした。
「お前が下手に止めるから長引くんだぞ、庭師とかいったか」
「ゴネたりして、長引かせてるのはてめえだろ」
青年――恭介が、まだ殺意を収めない目で少女を睨む。
「そもそもな、人が食おうとしてたもん奪っといて、爆弾仕込んで返すやつがあるか」
直哉はそこでようやく、話の断片を繋げた。
「……爆弾?」
レンがうんざりした顔で頷く。
「鷹宮のおっさんが、有事用に持ってた超小型のやつ。それを、盗んだんだろうな。その子……、歌留多の嬢ちゃんが、スライム型の小型怪異に仕込んで返した。んで恭介が喰った」
「まあ、返すついでに試したというわけだ」
「試すな!」
恭介がまた踏み出す。直哉は二度目の制止に入る。
「待ってください」
「いや待てねえだろ、これ。見ろよこの口」
恭介が無理やり口を開けるみたいに唇を指で引っ張った。裂けた端からまた血が滲む。口内の傷まで覗いて、直哉は一瞬だけ顔をしかめた。
「……よくその程度で済みましたね」
「済んでねえよ」
ぺっと血を床に吐き捨てる恭介を、歌留多はジトっとした目で見やる。
「済んでるだろ。死んでない」
「てめえ基準で物言うな、ガキィ!」
歌留多はちっとも堪えていない。
むしろ、恭介の怒り方そのものを観察している目つきだった。
レンが低く息をつく。
「まあ、聞けば分かるだろ。今回は本当に歌留多の嬢ちゃんが悪い」
「しかし、剣呑な言葉が出てきたものだ。スライム型の小型怪異を、……口に?」
「だよな、まあそうなるよな。気持ちわかるよ」
その会話の最中、カウンターの奥で食器の触れ合う小さな音がした。
直哉がそちらへ目を向ける。
そこで初めて、少女が一人、奥から出てくるのが見えた。
黒髪。
エプロン姿。
その顔を見た瞬間、直哉の身体のどこかが、きしむみたいに止まった。
灯紗希だった。
灯。
喫茶店〈灯〉。
電話口の男が告げた店名。
そして、彼女の姓。
考えれば、分かったはずだった。
だが、店に入った瞬間から、怒鳴り声と血と爆弾と怪異の話に押し流されて、直哉の頭はそこまで辿り着いていなかった。
彼女は、揉め事の真ん中に立つ直哉を見ても、とくに驚かなかった。
ただ一度、店の中の惨状を見回す。
倒れた椅子。
血のついた口元の恭介。
何故か踏ん反り返っている歌留多。
気まずそうなレン。
紗希の眉が、わずかに寄った。
「店の中で暴れないでくださいね」
「先にこの薄汚ぇクソガキをどうにかしろ」
「不潔なのは先輩の方でしょう、もう」
紗希は床へ落ちた血へ目をやる。
「それと、床に血を吐かないでください。掃除するの、私なんですから」
「ケッ、そうかよ!」
そう言うと、恭介がまだ血の滲む口元を手の甲で拭いながら、苛立ったまま椅子を蹴り戻した。
「椅子も壊したら弁償ですよ」
「壊してねえだろ!」
歌留多はつまらなさそうに鼻を鳴らし、カウンター席へ飛び乗る。
レンは「ほら見ろ、結局こうなる」とでも言いたげに肩をすくめた。
直哉は、喉の奥が乾くのを感じた。
「……紗希、さん?」
名前を呼ぶ。
紗希は視線を向ける。
昔と同じ顔のようでいて、昔と同じではない目だった。
「紗希さん。自分です、柊直哉です」
言ってから、続きが出なくなった。
直哉は一歩進みかけて、ふと視線を止めた。
紗希の首元には、細い絆創膏が貼られている。
あの夜。
自分が、紗希とあの黒いものとの境界へ刃を入れた場所だった。
「あの時は、その……」
何をどう謝ればいいのか、自分でも分からない。
遅すぎるとも思った。
それでも、下げないままでいるよりはましだと思ってしまった。
ついさっきまで、床の血や椅子に眉を寄せていた紗希の表情が、そこで静かになった。
「先輩と出会った時から、すでにあなたのことは気にしてませんよ」
少しも間を置かなかった。
言い方は柔らかい。
けれど内容は、赦しとは少し違った。
「だから、頭を上げてください。……ね? 怒ってませんから、もう。私も大人気なかったと言いますか」
直哉は顔を上げられないまま、一瞬だけ戸惑った。
自分が刃を入れた傷の話をしている。
なのに、紗希の声には、さっき床へ血を吐いた青年を注意した時ほどの揺れすらない。
怒っていない。
それは、たぶん本当なのだろう。
ただ――どうしてそこまで静かでいられるのか。
直哉には分からなかった。
ゆっくり顔を上げる。
その時、視線がふと止まった。
紗希のエプロンのポケットから、携帯電話の端が覗いている。
そこに、小さな銀色のストラップがついていた。
目覚まし時計の形をしている。
玩具みたいな安物で、丸いベルの部分だけが少し大きい。
揺れても、音はしない。
「……そのストラップ、もしかして」
直哉が呟くと、紗希は自分のポケットへ視線を落とした。
「ああ、これですか?」
小さな目覚まし時計を指先でつまむ。
銀色の飾りが、音もなく揺れた。
「八重が持っていたものに似ていたので。あの件の後、同じようなものを偶然見つけて買ったんです」
「……八重のものでは、ないんですね」
「はい。これは私が後から買ったものです」
紗希は、少しだけ笑った。
「鳴ることは、ありませんでしたけどね」
直哉は、何も言えなかった。
怒っていない。
それはたぶん本当なのだろう。
だが、それは“許された”ということではなく、もっと別の、すでに通り過ぎた位置からの言葉だった。
直哉だけが、まだ過去に立っている。
そのことが、今さらのようにはっきりした。
横にいたレンが、空気を切るように咳払いする。
「で、だ。何があったかは知らんが」
レンの目が、少しだけ細くなる。
「お前、ここに来たってことは、WFA絡みの相談だろ」
「……本当は、現役の木こりに話を通すだけのつもりだったのですが」
直哉は短く息を吐いた。
「まさか、それがお前だとは思わなかった」
「そりゃどうも」
レンは肩をすくめた。
直哉は店の中をもう一度見回す。
目の前の光景は相変わらずめちゃくちゃだったが、それでもここが、自分が今向かうべき場所なのだとは分かった。
「相談があります」
一度、言葉を切る。
「……それも、八重にも。いえ、紗希さんにも無関係ではなさそうなのです」
紗希が直哉を見る。
その手には、まだ銀色のストラップが摘ままれていた。
指先だけが、一瞬、止まった。
けれど表情はほとんど変わらない。
ストラップを静かにポケットへ戻す。
「……聞かせてください」
その声で、ようやく話が始まる気がした。




